ナツメ 最初の、そして最後の
服に迷うなんて、初めてのことだった。
柔らかなブラウンのリブニット、シンプルな黒のミニスカート。少し悩んでから、
淡いブルーのカーディガンを羽織る。丈の短さも、首元の開きも、いつもなら気にしない。
けれど今日は、ちゃんと選びたかった。
太ももと胸に目線がくることは、わかっている。
だから、今日は――いっぱい見てもらおうと思った。
私は今日、イブキとデートをする。
最初で、最後の、内緒のデートを。
十年前、カイヅカの作業場で見かけた少年。 火花の向こうにいた、幼くて真っ直ぐな目をした子。
その子と、今こうして街を歩けるなんて、思ってもみなかった。
けれど私は、明日にはもうここにいない。
今日だけは、ちゃんと人間みたいに―― ちゃんと、女の子として笑いたかった。
鏡の前で微笑んでみる。 いつもより、少しうまく笑えてる気がする。
「……うん、大丈夫」
声に出すと、胸の奥がふっと軽くなる気がした。
それは、恋とかじゃない。 けれど、きっと――私の中の、いちばん人間らしい気持ちだった。
*
喫茶店の前。 蒸気の管が軋む音と、遠くを走る機関車の汽笛。午後の街は静かに傾き始めていた。
「……お待たせ。そんなに待った?」
ナツメが、カーディガンの袖を直しながら現れる。
「いや、今来たとこ」
イブキが微かに笑う。なんだかんだで、ほんの少し頬が赤い。
「そっか。じゃあ……ちょっと歩こうか。いい天気だし」
ナツメが言うと、自然にふたりは並んで歩き出した。
蒸気の立ちこめる路地を抜け、ほどなく広がる公園の緑が目に入る。
歩道の先にあるベンチや、水飲み場。ナツメはふと、ある日のことを思い出していた。
「……ここ、リョウがリリとフェル連れて“ガールズトーク”してた場所なんだよ」
「へえ、あの子たちが? 想像つかないな」
「でしょ。でも、やってたの。ちゃんとティータイムとかしてさ」
ナツメが少し笑うと、イブキが首をかしげた。
「うん。……たぶん、あの日から少しずつ変わったんだと思う。リリも、私も、カイヅカとの距離も」
「ナツメが変わったって?」
「そうじゃない。リリが変えてくれたんだと思う。私にはできなかったことを、あの子は一日でやったの」
「そういうもんかね」
「そういうもんなの。…私、リョウみたいに上手に人と近づけないから」
「そんなことないだろ」
「ううん。……でも、あの子のこと考えると、なんだか嬉しくなっちゃう。 リリもどんどん溶け込んで……ち ょっと、羨ましかったな」
ナツメは、そう言って空を見上げる。
「スピナはね、ちょっと苦手。でもあの人はみんなをよく見てるよね」
「ふざけてるけど、アイツは頼れるやつだよ」
ナツメは嬉しそうに笑った。
「なんか、ずるいな」
「何が?」イブキはナツメを見る。
「そうやって、笑って言えるの」
ナツメは背を向け歩き始める、小さな石を蹴飛ばして歩を進めた。
その背中越しに、イブキはふと何かを言いかけたが、やめた。
今この時間が壊れてしまいそうで、言葉を飲み込んだ。
「……さっきから、こっちばっか見てるよね」 ナツメがふいに振り向き言うと、
イブキは少し驚いたように目を逸らした。
「え、ああ……悪い」
「ううん。嫌じゃない。……ただ、なんとなく、気づいてたから」
ナツメは歩道に視線を落としながら、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「バンビにもよく見られるけど……あの人の場合、ちょっと殺気混じってるのよね」
「バンビは、まあ……あれだからな。誰とでも戦う妄想してる」
そう言ってイブキは、肩をすくめるようにして笑った。
「でも、イブキのは違う。……やわらかい、っていうか。なんだろうね、ああいうの」
「イブキってさ」 ナツメがふいに声を落とす。
公園のベンチへ向かう小道、足元の小石をつま先で蹴りながら、さらっと続けた。
「太もも、好きでしょ」
イブキは一瞬言葉を詰まらせた。 「……は?」
「いや、視線でなんとなくわかるんだよね」
ナツメは笑っていた。からかうというより、自分でもそれを受け入れているような、
あたたかくてやわらかい笑み。
「別に見てくれててもいいんだけど。ちゃんと“女の子”って見られてるの嬉しい」
「……マジか」
「うん、マジ」
「……いや、それは、ありがとう……って言えばいいのか……?」
「ははっ、なんでそんなに動揺してんの」
イブキは口を閉ざし、少しだけ前を見つめたまま、頷いた。
何気ない会話。本当は別のことを言いたかったけど、
胸の奥に、ほんの少し、あたたかいものが染み込む。
「ただ歩いてるだけなのに、楽しいね」
「そうだな。こういうのも、たまにはいい」
「うん……もっと早く、こういう時間に気づいてたらよかった」
少しの沈黙が流れた。
「イブキは、真っ直ぐ生きててほしいな」
ナツメの声が、ぽつりと落ちる。
「え?」
「ううん。……ごめん、独り言」
「ナツメ?」
「ううん、なんでもない。……ちょっとだけ、言いたくなっただけ」
「……そっか」
ナツメは歩きながら、空を見上げた。
「……ごめんね。最後に、巻き込んじゃうかもしれない」
それは、ただのつぶやきのように聞こえた。
イブキは私が人間じゃないこと。知ってるのかな?
確かめたいけど確かめられない。
今の関係が壊れる気がして進めない。
私が二人いればいいのに、そしたら失敗してもやり直せる。
ひとりは任務に戻って、誰も傷つけずに消える役。
もうひとりはこの街で、“普通の顔”で笑ってる。
スピナは、知ってる。 私が、人間じゃないってこと。
気づいていたと思う。ずっと前から。
年を取らないことも、体が壊れないことも、
私が目が覚めた瞬間からきっと気づいていた。
それでも、彼は何も言わなかった。 問い詰めることも、遠ざけることもせず、
ただ、“ナツメ”として接してくれた。
だから、私も言わない。
こっちは失敗してもいい。何も期待していないから。
もうすぐ終わる。
そう分かってる。
分かってるからこそ――この静かな、心地いい一日を壊したくなかった。
私が「リグレインだ」と口にしてしまえば、 たぶん、すべてが終わってしまう。
この、たわいもない笑いも、何気ない沈黙も、もう“特別”じゃなくなる。
だから私は、言えない。
言えるのは―― 「ありがとう。楽しかったよ」 それだけだ。
ナツメは、ゆっくりと背を向けた。 もう、振り返ることはしないと決めていた。
この気持ちに蓋をして、静かに終わらせると決めていたから。
けれど、数歩、歩いたその背中に。
「……またな」
何気ない、いつものような――それでも、今この瞬間にしか出せない声が届いた。
立ち止まることはしなかった。
振り返ることもできなかった。 ただ一歩、足が遅れた。
たったそれだけで、胸が締め付けられた。
“さよなら”じゃない。 “またね”じゃない。
「またな」――それはきっと、 永遠に来ない“次”を信じるふりをした、最後の優しさ。
イブキも何かを気がついてる。昨日の涙のことも一言も言わなかった。
それが彼なりの、サインなのだと思った。
だから足が止まりそうになった。
ナツメは、小さく息をのんで、静かに歩き出す。
振り向いたらきっと泣きそうな顔をしてるから。
やっぱり恋じゃなかった。デートでもなかった。
イブキに向けた気持ちは、たぶん――「人間って、こうやって誰かを大事に思うんだ」っていう、そんな憧れの延長だったんだと思う。
だからこそ、スナック茜やカイヅカのそばにいる時間は、
“人間みたいになれた気がして”、心地よかった。
だけど――本当に羨ましかったのは、リリだった。
あの子は、誰に遠慮することもなく、ただリリとしてそこにいた。
何も隠さず、何も壊さず、笑っていた。
誰とでも自然に話して、笑って、抱きしめられて、頼られて。
リョウやフェルともすぐに打ち解けて、気づけばカイヅカの中心にいる。
…本当に、すごい子だと思う。私にはできなかったこと
ふと、そんな彼女の笑顔を見ていて
「もしリリがいなくなったら、私は――その場所に入れるのかな」
そんな考えが、頭の奥に浮かんだ瞬間があった。
浮かんだだけ。 すぐに、打ち消した。
そういう自分がいたことに、気づいて、怖くなった。
リリが悪いわけじゃない。 何も、間違ってない。
ただ、私の中にある、誰にも見せられない影が、そう囁いただけ。
羨ましさが、憧れを超える瞬間。
人間なら、きっとよくあること。 でも私は、そうならないように作られた“存在”のはずだった。
セラだよ〜っ!今回はナツメの“最後のデート”、どうだった?
彼女が言えなかったこと、あなたには届いたかな?
決戦が近づいてきてる感じがするね。歯車が静かに動き出すよ。
感想、コメントでぜひ聞かせてね!
ではまたノアで、お会いしましょう〜っ!




