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闇夜の蒸気と赤灯

昼下がり。静かな室内。磨かれた金属の棚と、蒸気を利用した計器の音が、規則的に空間を刻んでいる。

「彼女の様子は?」

鍵を手で回しながら、金庫番が問う。その視線は穏やかだが、背後に何かを隠しているのはいつものことだった。


「変わりありません。言葉も、行動も安定しています」

ナツメは静かに報告する。

「管理されていないリグレインは、危険ですからね」

金庫番は軽く微笑みながら続ける。

「“彼女にも”居場所を与えるべきです。……もちろん、我々の手の届く範囲で、ですが」


 言葉の調子は丁寧で優しい。だが、そこに含まれる意図を、ナツメは理解していた。

(つまり、“あの子も”私と同じように“管理”されるべきだと)


 居場所を与えるという言葉の裏に、「支配」があることを、ナツメはとうに知っている。

それでも、ナツメはこの人を否定できない。かつて“猟犬部隊”の一員だった自分が、組織の解体と共に行き場を失ったとき――金庫番だけが、その存在を肯定してくれた。


「君の力は、正義に使うべきだ」


そう言って、裏の仕事と引き換えに、街の片隅に“花屋”という表の顔を与えてくれた。蒸気機関の鼓動を、街の騒音に紛れさせて“普通の生活”を送らせてくれた。人間らしくなれるのだと、思わせてくれた。

(……本当に、私は人間になりたがってるんだろうか)


 蒸気で動くこの身体に“心”があるのか“心があると思い込もうとしている”だけなのか。ナツメの中に、ふとそんな疑問がわく。


(でも、リグオンと違って私は考え、選べる)


 任務か、日常か。命令か、自我か。その選択の自由があるだけで、まだ“人間に近い”と思いたかった。

それでも、金庫番の優しい口調を聞きながら、ナツメの胸には小さな鈍痛が残った。ほんの、ひとかけら。けれど、それがなぜ生まれたのか、ナツメはまだ名前をつけられずにいた。


(この人のやり口は、いつも強引だ。 けれど――私には見えない、大局を見ている。 街の外まで、いや、国家の裏側まで)


そう思ってきた。信じてきた。


 かつて“猟犬部隊”が解体されたとき。ナツメは何もできなかった。作戦を忠実にこなし、与えられた役割を果たしてきたつもりだった。だが、それはあまりにも無力な存在証明だった。


 戦線で共に生き延びてきた“クロノ”さえ――失われた。


 ただ命令を受け、ただ生き延びていただけの自分に、あの喪失を止める術はなかった。あの日を境に、ナツメは“自分の判断”を信じられなくなった。


(私には見えていなかった。何も、わかっていなかった)


だからこそ、金庫番の“見えている景色”が、どこか眩しかった。正しいかどうかではない。“見えていること”そのものが、自分にはない力に思えた。強引で、手段を選ばず、時に非情。けれど彼は言った。


「正義とは結果だ。もし君が迷った時は、“結果として守れたもの”があれば、それでいい」


その言葉は、ずっと胸に残っている。自分のようなものに“人間らしい生活”を与え、“正義のために力を使え”と肯定してくれたのは、この人だけだった。それは、信仰に似ていた。自分で考えることを放棄したわけじゃない。けれど、どこかで判断を預けていた。


(私は、正義を信じていたんじゃない。“信じられる誰か”がいてくれることを、信じたかったんだ)

けれど今、胸の奥に疼くこの痛みはなんだろう。


 リリという存在に触れ、誰の管理下にも置かれず、ただ“あるがまま”に受け入れられる彼女を目の当たりにして、ナツメは、初めて自分の中に「比較」が生まれた。

それは嫉妬ではない。憧れと違和感の中間にある、名もなき揺らぎ。

(……私は、本当に人間になりたがっていたのか? それとも、人間として“扱ってほしかった”だけなのか)


わからない。



「……それと、これを」

金庫番はそう言って、机の引き出しからを取り出した。中に入っているのは、アカネのスナックでも扱っていないような、純度の高いアルコール――ほぼ工業用に近い代物だ。


「街の酒では、君には足りないだろう。燃料としての話だがね」


 無表情に微笑む金庫番。ナツメは、静かにそのフラスコを受け取る。


「ありがとうございます」


 礼は言う。だが心の奥では、ほんのわずかに何かが引っかかる。この人は、自分がリグレインであることを知っていて、当たり前のように“人ではないもの”として扱っている。

それが当然のことなのか、それとも――。

(……考えるな)


ナツメは無言で思考を断ち切る。


 自分は、通常のリグレインに比べれば遥かに低出力だ。日常の活動ならば、街の雑踏に紛れる程度の蒸気しか排出しない。だからこそ、アカネの店で出される酒すら“摂取”の意味がある。燃料と考えなければお茶も飲める。――人間のふりをするために、だが。

たとえそれが燃料としての意味を持たなくとも、たとえ舌先が味を知っても心に届かずとも――人間と同じように飲むことで、人間であると思えるなら、意味はあった。


「……今夜は空けておきなさい」


不意に、金庫番が言った。


「花の注文が入る。エプロンが汚れるといけないから、替えを用意しておきなさい。鋏もよく切れるものを」


花屋に向けた言葉だった。だが、その裏に込められた意味を、ナツメはよく知っている。

“花の配達”と“剪定”が、本当は何を意味するのか。


任務がある。今夜、“処理”が必要なのだ。

ナツメは、わずかにまぶたを伏せ、再び口を開く。


「承知しました」


 声に感情はない。だがその胸の内には、ゆっくりと何かが燻っていた。燃料としてのアルコールが体を温めるよりも早く、心のどこかがざらついていた。





夜のナツメ



 夜の街に、花屋の姿はない。人目を避けて路地に立つのは、片目を隠した黒衣の女――ナツメだった。


 羽織ったコートは前を大きく開き、戦闘用のタイトスーツを覗かせている。密着した布地といくつものベルトが身体を締め付け、特に露出した太ももは、夜気に晒されて白く輝いていた。鋼のように引き締まりながらも柔らかさを残すそのラインは、街灯の光を受けて、汗とも蒸気ともつかぬかすかな湿りを帯びていた。動けばしなやかに揺れ、ただの武装ではない“肉体”としての存在を主張する。


背中からは、圧縮蒸気がほそく噴き出していた。シューッという音とともに立ち上る白煙が、冷えた夜の空気にかすかに震える。


そして残された片目が、赤く、静かに光っていた。暗闇に馴染む黒の装束の中で、その瞳だけがまるで標的を捕捉するセンサーのように、冷たく、鋭く、けれどどこか悲しげに揺れている。その手には、湾曲した刃を持つ双剣――重ねると巨大な園芸鋏のような異形の武器。


昼に交わした金庫番の言葉を、ナツメは反芻する。

「今日はエプロンが汚れるから、別のにしなさい」

「よく切れる鋏を、用意しなさい」


 金庫番にとって、それは戦闘の暗喩。だが、ナツメにはそれがただの皮肉に聞こえなかった。

足音ひとつ立てず、建物の陰に溶け込む。指先に意識を集中すれば、蒸気が体内で音もなく循環し、脚部のアクチュエーターが静かに伸縮する。

「低出力型リグレイン」としての彼女は、燃料効率と静音性に優れていた。そして技術を備えていた。

金庫番から渡された純度の高いアルコールは、体内の圧縮炉に満たされている。アカネの店の酒では得られない、鋭い感覚と瞬発力それを使う場面が、今夜もまた来る。


ナツメは夜の街へと消えた。花を届けるためではない。


いらない枝を剪定するために。



挿絵(By みてみん)

誰かにとって、これは“選ばれる物語”になるかもしれない。

そのためには、あなたの“ひと押し”が必要です。

評価をつけていただけると、この物語がもう少し遠くまで届くようになります。

蒸気と太ももを携えて、今日も地道に稼働中。


今日は夕方もう1本あげます。またお付き合いください。

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