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いつものように我が家の馬車で街まで向かう。
馬車の中で、私は金髪のカツラを手に取った。しみじみとそれを眺める。
このカツラを被るのも今日で最後。変装なんて人生初めての経験だった。存外悪くなかった。今ならそう思う。
隣に座っているレオナルドを見ると、彼は座席に立ち上がり、窓の外の景色を見ている。気が急いているのだろう。足で座席をタンタンと鳴らして、若干うるさい。
今の彼は、元の姿に戻れることしか頭にないのようだ。
やっと、元に戻れるのだ。当然だ。この一週間、彼にとってはかなり辛い時間だっただろう。元の生活に戻れるか不透明の上に、城内で起こりつつある謀略の根源でありながら蚊帳の外に置かれ、不安と不満と憤りでいっぱいだったと思う。
さらに、私からの世話も屈辱以外何物でもなかっただろう。
私は反対側の窓から外の景色を見た。
その時、小さな公園の前を通った。公園入口の前に一つの屋台が出ており、子供たちが群がっている様子が目に入る。
「焼き栗だわ・・・」
思わず小さく呟いた。
『今度は焼き栗を買おう』
同時にレオナルドの言葉を思い出す。
やっぱり、その「今度」はもう来なかった。
私はその屋台が小さくなるまで見つめていた。
☆彡
待ち合わせの時間よりも早くグランホテルに到着した。
私はホテルの入り口で立ち止まると、この豪華で壮大なホテルを見上げた。
今からここで、私至上最大のミッションが終わりを告げる。
一人の男の人生が狂いかけた、いいや、それどころか、この国の長までが変わりかけた重大な事件の幕が降りるのだ。
私は大きく深呼吸をすると、手を繋いでいるレオナルドを見下ろした。
レオナルドもホテルを見上げている。そして、私が見ていることに気が付くと、顔を引き締め大きく頷いた。
どちらともなく繋いでいる手に力が籠る。
「さあ、参りましょう」
私たちはホテルに向かって大きく一歩を踏み出した。
ロビーに入ると、ゆっくりと周りを見渡した。
流石、一流ホテル。客人たちは皆一様に気品あふれる人達ばかり。ソファでコーヒーを飲んでいたり、新聞を広げていたりと各々のんびりと過ごしている。パッと見た限り、怪しい人物は見当たらない。
ザガリーがどのような姿に扮しているかは分からない。さりげなく赤い手袋をしている人物を探すが、そのような人物はどこにもいない。まだ、来ていないようだ。アランの姿もない。
私はレオナルドを抱いて、ソファの一席に腰掛けた。
手持無沙汰なので、コーヒーとオレンジジュースを注文し、飲みながら待つことにした。
「俺もコーヒーが飲みたい!」
「幼児の飲み物ではないと、前も申し上げましたでしょ?」
「一口!」
「元に戻ればいつでも飲めます、我慢なさいませ」
そんなことを話しながら待っていると、
「お待たせしてしまいましたな・・・」
一人の人物に声を掛けられた。声はザガリーだ。私はその男に振り向いた。
そこには、痩せ型のザガリーとは正反対の小太りで白くて長い立派な髭を携えた老人が立っていた。手元を見ると真っ赤な手袋をしている。
「いいえ。わたくしが早く着きましたの」
私はその男ににっこりと微笑んだ。ザガリーは恭しく私に一礼した。
「急激に太っちょさんにおなりになりましたのね。白いお髭もご立派」
「ハハハ! 如何ですかな? ご令嬢のお気に召しましたか?」
「ええ。素敵ですわよ。想像以上の出来栄え」
私の誉め言葉に、ザガリーは少し得意気に長い髭を撫でた。しかし、すぐに真顔になると、
「先ほど部屋を一室取りました。早速、そちらに向かいましょう」
そう言って差し出した。しかし、私は首を振った。
「いいえ。もう一人、信頼できる人物がこちらに向かっております。その方を待ってからでよろしいかしら?」
目で彼にもソファに腰掛けるように促した。それを聞いたザガリーは少しホッとした表情になった。そして、
「それは安心です。では、一緒にお待ち・・・」
と、言いかけて、急に黙ってしまった。体も硬直したように固まった。
おかしいと思ったほぼ同時に、理由を理解した。
ザガリーの真後ろに黒いシルクハットを目深に被った男が立っていたのだ。
気が付くと、私も黒いコートを羽織り、黒いシルクハットを被った二人の男に挟まれていた。




