【電子書籍化】子爵夫人になりましたが夫が冷遇されています。
とある子爵家に嫁いだリュシエンヌの結婚式は、ごくささやかなものだった。
貴族の結婚といえども全てが全て華やかな訳ではない。
けれどもリュシエンヌは、その中でも特に慎ましやかと思われる、教会で結婚誓約書にサインするだけの、ウェディングドレスすらない結婚式も自分にとっては十分過ぎるほどだと心底喜んでいた。
何故なら彼女は貧しい男爵家に生まれ、ゆくゆくは身売り同然で何処かの貴族の妾か後妻に入るものだとずっと思って生きてきたからである。
だって自分は生家を助ける為に、そのくらいしか出来る事がない。
生まれ持った透けるように白い肌に艶やかな唇、淡い金色の髪と澄んだ薄青の瞳。
天使のようだと幼少期から見た目だけは褒められてきたのだ。そこはきっと価値になる。
そう考えて生きてきたリュシエンヌだから、自分がこんなごく普通の平穏な結婚式を挙げられるとは思っていなかったのだ。
しかも結婚相手も想像していたような脂ぎった好色な助平爺という訳でもないし、はたまた生家への支援をチラつかせてリュシエンヌを言いなりにさせようとする下衆でもない。
それどころか、結婚式の後、本来なら初夜を過ごすはずの寝室で「私は君を愛する事はないだろう」と結婚したばかりの夫に言われ、指一本触れられる事なく夫婦別々の寝室で寝たけれど、それでもリュシエンヌはやっぱり幸せだった。
(部屋が……暖かい……!)
平民に毛が生えた程度の男爵家など、平民と変わらないどころか、ところによってはそれ以下になる事もある。そしてリュシエンヌの生家はそれ以下の方だった。
貴族の見栄で小さくても屋敷など構えていると、冬場の暖房費用も馬鹿にならず、追いつかない修繕に雨漏りは当たり前、真冬は隙間風が入り放題で、その内凍死するかもしれないと毎年本気で思うほどだった。
それがこの屋敷はどうだろう。
規模こそ生家より少し大きい程度ではあるが、まず隙間風が入ってこない。
暖炉に焚べる薪もたっぷりある。窓だって全て割れも欠けもなくきちんとガラスが嵌っていて、カーテンまである。なんと素晴らしい。
この結婚の為に用意してくれたのか寝具も新しいし、そもそもベッドにはちゃんとベッドマットがあるし、もうその点だけでもリュシエンヌはまるで天国に来たようだった。
リュシエンヌは初夜であるというのを気にもせず、夫と寝室が別であるのを良い事に、一人で布団にくるまって満足するまできゃあきゃあ言いながらベッドの上を転がり、そしてそのまま仔猫のように身体を丸めてぐっすり眠ったのだった。
そして明くる朝。
リュシエンヌはこれまでと同じ時間に起床し、一人で着替えを済ませ、機嫌良く鼻歌混じりに朝食を作り、スープの味見をしてその出来に満足しているところを使用人とはちあって叫び声を上げられてしまった。
何でも普通の貴族女性はこのような炊事はしないものらしい。
普通でない貧しい貴族女性の生活しか知らないリュシエンヌは、それを聞いてひどくしょんぼりしたが、とにかくスープは美味しく出来たので次から気をつけますとだけ答えて作った朝食はそのまま出して貰った。
ちなみに夫は自室で食事をとるらしい。
自分が作ったスープを見てどんな顔をするか見てみたかったが、初夜での対応がアレだったのだ。
きっとしかめ面なのだろうなぁと苦笑して、リュシエンヌは結局一人で朝食をとった。
一人だったので気兼ねなくパンもスープもおかわりした。
(……まぁ、旦那様の気持ちもわかるわよ)
朝食後のお茶をやはり一人で楽しみながら、リュシエンヌはぽやりと思った。
リュシエンヌを娶った子爵は、本来なら伯爵家の跡取りになる筈の人間だった。
それが、彼の婚約者が他の令嬢を執拗に虐めているのだという話を信じて婚約者を糾弾し、婚約破棄を突き付けたのだ。
当然相手からしたら完全に冤罪であるので、この糾弾に徹底的に抗議した上、潔白である事を示す色んな証拠を揃えて逆に名誉毀損を訴えた。
結果、彼はトカゲの尻尾切りよろしく伯爵家を追い出され、ただ体裁の為だけに後継者のいなかった遠縁の子爵家を継ぐ事になったのである。
当然ながら婚約破棄も彼の有責になってしまい、名誉毀損に対する賠償金の支払いもある。
そしてその件に関する社交界での噂も飛び交って、彼、つまりリュシエンヌの夫は現在社交界の中でも外でも冷遇されている。まぁ、何という事でしょう。
どこまでも自業自得と言ってしまえばその通りだ。
けれどリュシエンヌからすれば、口車に乗せられてしまった彼もまた被害者に見えた。
それに、だからこその初夜での「君を愛する事はない」宣言だと理解している。
簡単にいえば、リュシエンヌの夫は婚約破棄の一件で人間不信に、特に女性不信になっていた。
しかし社交界で冷遇されているとはいえ、賠償金の支払いは待ってくれない。
商人を支援するのではなく、貴族が自ら商売をするのは恥ずかしい事だという風潮が強いにもかかわらず、彼は賠償金の支払いに充てるべく、自ら商会を興して働いていると聞いている。
貴族達からは冷遇されているので、彼の顧客は平民だ。
平民の方が商売についての考え方はシビアで、顧客を得るまで相当苦労したのは間違いない。
貴族と平民とでは考え方も何もかもがまるきり異なるので、夫はきっと次の商談対策の為に今も部屋に篭って書類仕事だろう。
子爵という爵位はあるが、ここで途絶えるはずの一代貴族に領地らしい領地もない。
つまり領地経営では収益が見込めないのだから、自分で働いて稼ぐというのは理に適っている。
(自分の責任だからって親に頼る事もせず、相手側に頭を下げて賠償金の支払いを分割にしてもらってまで自分で支払うなんて、普通しないわよ)
本当に真面目な人ねぇ、とリュシエンヌは小さく笑った。
嘲りなどは一切含まない、春風のような笑みだった。
そう。リュシエンヌの夫は真面目で不器用だ。
人間不信になったのだって、元々人を疑う事を知らない性格だった反動からだ。
そんな彼だから令嬢達から「あなたの婚約者からひどい虐めを受けている」などと言われて信じてしまうのだ。全く人が良い。
女性に生まれていたらそれは美徳であったのに、男性に生まれたというだけでこうして足元を掬われてしまうだなんて、貴族社会とは何と恐ろしいのか。
しかも、そんな話など胸に隠して黙っていれば良いものを、何も話さず婚姻関係を結ぶのは誠実ではないと言って、彼はこの結婚の申込みに来た際に全ての経緯をリュシエンヌに説明している。
リュシエンヌが彼の婚約破棄やら何やらの一連の事情に詳しかったのは、どうという事も無く、彼自身がそれはもう丁寧に説明してくれたからだった。
まぁ、リュシエンヌもリュシエンヌで、話を聞いた後に自分の持つ情報網を使って不足していた情報を入手したりはしたが。
おかげでリュシエンヌは、夫に嘘を吹き込んだ令嬢達の名をこっそり全員分控えていたりする。勿論夫には秘密である。
『子爵家と言っても私は賠償金の支払いを抱える身で、領地は税収も見込めない。子爵夫人とは言え、時にはハウスメイドのような仕事を任せる事になるかもしれない。だが、私には伴侶が必要だ。書類だけでも構わないから結婚して貰えないだろうか』
リュシエンヌは結婚を申し込まれた時の言葉を思い出して、再び微笑んだ。
真面目な彼にとって、この結婚の申し込みは苦渋の決断だったのだろう。
そもそもリュシエンヌは使用人として働き先を探す為に、前の勤め先でもらった紹介状を片手にこの子爵邸を訪れたのだ。
てっきり使用人として雇われると思っていたのに、採用通知の代わりに来たのがまさか結婚の申込みだとは。
だが、確かにこれから商売をやっていくだとか、そういう事は独身よりも、形だけとはいえ伴侶がいる方が貴族社会で有利である。結婚相手が貴族であれば尚良いだろう。
リュシエンヌとしても、結婚を承諾すれば持参金は要らないとまで言われてしまっては、これに飛びつかない手もないというもの。
家族からも自分の食い扶持は自分で稼ぐから心配するなと後押しされた事もあり、結婚の申し込みから承諾までの時間の短さは、きっとこの国の長い歴史の中でも飛び抜けていただろうなとリュシエンヌは肩を竦めた。
(ま、結婚したところで私の仕事って言っても、旦那様の状況を考えるとお茶会だの夜会だのに呼ばれる可能性は限りなく低いし、猫の額程って言ってた領地の経営も今まで通り代理人がやるって聞いているし、こんな状態じゃあ旦那様とはそもそも顔を合わせる機会もそんなに無さそうだし……)
ならば子爵夫人としてこの家で何をやるか。
リュシエンヌはしばらく考え、まぁ、これしかないわよねと独りごちながら空になったカップを置いた。
「お、奥様、何をされているんです⁉︎」
「何って……」
窓掃除だけども、と動きやすく髪をまとめたリュシエンヌは手に雑巾を持ったまま答えた。
メイドは雑巾とリュシエンヌの顔を交互に見て、そしてもう一度何をされているんですかと震える声で問うた。
一体何をそんなに確かめる事があるのかと、リュシエンヌはメイドを放って窓拭きに戻り、子爵邸のヒビも割れもない素晴らしいガラスを丁寧に拭き上げながら言った。
「良いこと? 私は確かに旦那様と結婚して子爵夫人になったけど、この家は使用人も少ないし、節約できるところはしていかなくちゃいけないの。だから私もこうして働くのよ。ほらほら、ぼうっとしてないで。私がここの掃除を済ませておくから、あなたは二階を先にお願いね。さっさと終わらせて食事の支度もするんだから」
「は、はぁ……」
「大丈夫。私、お掃除は得意なの」
リュシエンヌがこの場所ですべき事として考えたのは、屋敷の家事全般であった。
女主人の役目が屋敷の一切の差配であるなら、命じる立場の自分がそれらの仕事を実行したところで結局は同じ事だと考えたのだ。
自慢にもならないが、リュシエンヌの生家である男爵家は貧し過ぎて使用人を雇う余裕も無かったので、家の事は全て自分達で行っていた。
掃除に炊事、洗濯、庭の草むしりに料理。裁縫だってお手のもの。
この屋敷もこれ以上使用人を増やす余裕はないだろうから、やれる事はリュシエンヌがやればいい。
幸いリュシエンヌは体力があり、身体を動かす事が好きだった。
貴族付き合いよりも余程向いているという自負さえある。
──こうして、初日に子爵夫人は料理などしないと使用人に言われた件を力技で有耶無耶にし、リュシエンヌはバリバリと家の事をこなしていったのだった。
その間、夫と顔を合わせる事は殆ど無かったが、毎食使用人に運んで貰っている彼の分の料理は全て完食されて食器が返ってきているので、それだけでリュシエンヌは満足だった。
率先して掃除や炊事をこなし、庭の雑草を引っこ抜き、取れたボタンを付け直し、一人で市場に買い出しにまで行ってしまうリュシエンヌに、次第に使用人達も感化されたらしく、今では夜の厨房でリュシエンヌが一心不乱に鍋を磨いていても全く驚かなくなっていた。
そんな生活がしばらく続いたある日の事、リュシエンヌは子爵付きの若い侍従が顔を青くしているのに気が付いて、何気なく声を掛けた。
「どうなさったの。お腹でも痛いの?」
声を掛けられた侍従は、ほとんど泣きそうになりながらも、夫妻が夜会で着るはずの衣装の仕立てが予定の日に間に合わないと連絡が来た事を教えてくれた。
その夜会は珍しくリュシエンヌも同行を求められたもので、夫がひどく苦い顔をしていたから、きっと貴族の『お呼び出し』の類だろう。
それにしても貴族御用達の仕立て屋が納期を守らないとは、あまりにもわかりやす過ぎる嫌がらせである。
リュシエンヌはふむと小さく一度頷いて侍従を見た。
「そう。新しいものが間に合わないのね。私は夜会に出た事はないから手持ちでどうにかなるとして、旦那様の夜会服って、前に着たものはここにあるの?」
「えぇ、でも……」
頷いた侍従の顔色はやはり優れなかった。
夜会に同じ衣装で出席するのはマナー違反。白い目で見られる事は避けられない。
そんな事は貧乏過ぎて夜会と縁の無かった自分でも何となく知っている。
だが、要は同じに見えなければ良いのだ。
「私ね、小遣い稼ぎで刺繍小物を売っていた事があるの。だからお針は結構得意よ。大丈夫、夜会までに仕上げてみせるわ」
そしてリュシエンヌは侍従らと共に手持ちの衣装を確認した後、今月の食費分と決めた中から少し拝借して夫の運営する商会に赴くと幾つかの刺繍糸を購入し、帰宅するなり猛然と針を動かし続けた。
家事は他の使用人に任せ(本来正しい姿である)、数日間ほぼ徹夜の勢いで刺繍を続けたある日の夕方。
「君、一体何をしているんだ!」
ついに夫が異変に気付いて乗り込んできた。
結婚後、夫からの初のアプローチである。
その勢いと声量に、リュシエンヌは連日仕事漬けの割には夫が元気そうで良かったなと心から思った。
元気があるのは大変よろしい。
リュシエンヌは徹夜テンションのまま、たった今仕上がったばかりの夫の夜会服を掲げて刺繍よと明るく答えた。
「見て下さいな。この渾身の作品。旦那様に絶対にお似合いになりますわ」
「な……。君、ちゃんと寝ているのか? 隈が……」
「あら、一日二日寝なくても死にませんし、隈は化粧で隠せます。それよりも私はねぇ、もう、腹が立って仕方がないんです」
糸の始末をして裁縫箱に針をしまったリュシエンヌの目は、これ以上なく据わっていた。
目元の隈も相俟って、もう視線だけで人でも殺せそうな凶悪な顔だった。
美しい顔立ちのリュシエンヌの怒りを讃えた表情は静かな迫力がある。
そんなリュシエンヌに夫は狼狽え、申し訳なさそうに俯いた。
「……君にこのような仕事をさせた事はすまないと思っている。これも偏に私の不徳の致すところで……」
「いいえ。そんな事は全く何の問題でもありません。そうではなくて、仕立て屋が納期守らないって何です⁉︎ 先払いでっていうからちゃんと全額払ったのに! それなのにこの仕打ち! 許せるもんですか。見てらっしゃい。あの仕立て屋の夜会服など無くったって、うちの旦那様は夜会で誰よりも見栄えがするんですからね!」
「はぁ?」
吠えるリュシエンヌを見て夫はしばらく呆然としていたが、ハッと何かに気が付くと慌てた様子で部屋を出て行ってしまった。
そして出て行った時の勢いそのままに再び部屋に戻って来る。
その手には毛布が抱えられていた。
「君、気を鎮めたまえ」
「もう! 私、こういうのが一番嫌なんです。どうせ出来上がった夜会服だって、どうでも良いような時期に仕立て上がりましたよとか言ってしれっと持って来るんですよ。やつら、そういう生き物なんです。全くもう、腐った卵でも店に投げ込んでやりたい」
「それは法に触れるからやめるべきだ」
「でも!」
「良いから。私は気にしていない」
「旦那様、こういうのはほっといちゃあいけないんですよ! 右の頬を殴られたら、倍の力で左の頬を殴り返して倒れたところを蹴り飛ばして思い切り背中を踏み付けてやらなきゃ!」
「それは流石にやり過ぎだ。気持ちはよくわかった。だがそもそも暴力はいけない」
そんな会話の間に、夫は粛々と持って来た毛布でリュシエンヌを簀巻きにして、そっとソファに横たえた。
「良い子だから落ち着くんだ」
ポンポンと一定間隔で背中を叩かれ、毛布で簀巻きにされたリュシエンヌの瞼が次第に閉じていく。
元々寝不足であった事もあり、リュシエンヌが健やかな寝息を立てるまで然程の時間を要さなかった。
眠りに落ちたリュシエンヌ(簀巻きの姿)を何とも言えない表情で見詰め、夫である子爵ことレクスター・ルクスは盛大な溜め息を吐いた。
「……義母上より頂いた『リュシエンヌ取扱説明書』がこんなところで役に立つとは……」
言いながらレクスターはリュシエンヌの母が持参金がわりにと送ってくれた手帳サイズの『リュシエンヌ取扱説明書』をジャケットの内ポケットにしまい込み、ソファに横たわる妻へと視線を向けた。
すぅすぅと規則正しい寝息を立てて健やかに眠るリュシエンヌは、御伽話に出て来る魔女に呪いを掛けられて眠る姫君のように美しい。
リュシエンヌの長い睫毛と白い頬、ふっくらとした唇。そしてその美貌には不釣り合いな目元の濃い隈。
レクスターは日々の暮らしがリュシエンヌに負担を掛けているのだろうと、盛大に誤解をしたまま深く溜め息を吐いたのだった。
(己の体裁のために彼女を無理に妻に据えてしまった。私は最低の人間だ……)
そんな事を思いながら一頻り自分の至らなさを反省し、レクスターはリュシエンヌの寝顔を少しの間見つめてから再び仕事へと戻った。
平民相手の仕事はようやく軌道に乗りつつあり、賠償金の支払いも今のところ滞りはない。
もうしばらくすれば屋敷の皆にもっと良い暮らしをさせてやれるはずだ。
それだけがレクスターの心の支えだった。
翌朝。ぐっすりと眠ってここ数日の睡眠不足を解消し、すっきりと気分良く目覚めたリュシエンヌは、自分が寝室のベッドの上にいる事にはてと首を傾げた。
私はソファで眠ってしまったのではなかったのかしら。
不思議に思いつつ身支度を済ませて朝食の支度の為に厨房へ向かえば、既に竈門の準備をしていた使用人の一人が気付いておはようございますと顔を上げた。
そういえばこの数日は全て使用人に任せていた。
リュシエンヌが何も言わなかったから、今朝もこうして使用人が朝食の支度に来てくれたのだろう(※使用人らは本来の役目を果たしているだけである)
「おはよう。ごめんなさいね。朝食は私が作るからあなたは旦那様のお支度をお願い」
「かしこまりました。それにしても旦那様は力持ちでいらっしゃいますねぇ」
「そうなの?」
「あぁ、奥様はお眠りでしたものね。旦那様はソファでお眠りの奥様をこう抱えて、寝室まで運ばれたんですよ。何とも安定感のある、そう、危なげないご様子で……」
こうですよ、こう、と使用人は、興奮気味に腕を動かして、夫がリュシエンヌを横抱きにして運んだ様を再現してくれた。
「まぁ。何だか恥ずかしいわ」
あの夫が自分を寝室まで運んでくれただなんて。
リュシエンヌは気恥ずかしくて思わず目を伏せ、殊更丁寧に朝食用のスープを作ったのだった。
そしていつもと同じように使用人が朝食を夫の部屋に運び、リュシエンヌは一人で朝食をとる。
そのはずだった。
「リュシエンヌ」
「あら、旦那様」
何とも珍しい事に、レクスターが食堂に顔を出したのである。
しかも使用人は持って行った食事のトレイをそのまま持って、神妙な顔でレクスターの後に控えている。
どうなさったのと尋ねる前に使用人は、トレイに置いた食事を食堂のテーブルにセットし直した。
どうやら結婚してから初めて、リュシエンヌは夫と朝食をとる栄誉を与えられたらしい。
「スープが冷めましたでしょ。温めなおしましょうか」
「いや、このままで構わない。それより君は大丈夫なのか。まだ寝ていた方が良いのではないか」
「これ以上ないくらいぐっすり眠りましたから平気です。それに、夜会の支度もしなくてはいけませんし」
「……そうか」
途端に発生する沈黙。
どちらからともなくもそもそと食事を再開し、それ以外の夫婦らしい会話もなく朝食は静かに終了した。
「あぁ、そうだ。旦那様」
食事を終え、ナプキンで軽く口許を拭ってリュシエンヌはレクスターに声を掛けた。
レクスターは既に食後のお茶も飲み終えて新聞を開こうとしていたが、その手を止めてリュシエンヌを見る。
「何だ?」
「今朝の朝食、お口に合いましたかしら」
「朝食? いつも通り美味しく頂いたが……」
それが何だと言う夫に、リュシエンヌはにこりと笑って告げた。
「ここに嫁いでから、ほとんど毎日お食事を作ってますのよ。一度くらい直接感想を聞いてみたいと思って」
リュシエンヌの美しい笑顔と共に告げられた言葉を、レクスターは三秒ほど脳内で反芻し、そしてギョッとした顔になってリュシエンヌを見詰めた。
「食事はいつも君が?」
「えぇ。予定があれば代わってもらう事もありますけど、そうでなければ私が作っています」
絹糸を思わせる美しい金の髪と、陶器のような白い肌。
慈愛に満ちた女神の微笑を湛えてリュシエンヌは言った。
「私、お料理は得意なんです」
リュシエンヌの言葉に嘘はない。
けれどレクスターは妻にそんな事までさせていたのかとショックを受けた様子で、読もうとしていた新聞をテーブルに置いてふらふらと今日の仕事を行うべく商会へと出掛けてしまった。
今夜は夜会であるから早目に切り上げて戻ってくるはずだが、こんな日まで熱心な事だとリュシエンヌは夫の勤労ぶりにやれやれと困ったように笑い、自分も夜会までにやるべき事を済ませてしまおうと立ち上がる。
(今日は夜会だけど食事の暇なんてあるかしら。昼にお腹に溜まるものを用意するべき?)
どうせ貴族連中の嫌がらせの嵐に放り込まれるのだから、期待などしない方が賢明だ。
けれどリュシエンヌは別の意味で浮かれる心を押さえつけることが出来ずにいた。
何故なら。
(とにかく旦那様と一緒の初めての夜会よ!)
今までだって縁がなかっただけで、興味がなかった訳ではない。
一度くらい夜会というものに参加しておきたかったのだ。
もしかしたらダンスのチャンスも巡ってくるかもしれない。
「こんな時でなければお会い出来ないような方もいらっしゃるのよね。気合い入れなきゃ!」
夜会に行くならとにかく化粧とヘアセットだ。
使用人にも手伝ってもらい、リュシエンヌは時間を掛けて夜会の支度に勤しむのだった。
***
そうして挑んだ夜会は、概ねリュシエンヌの予想通りのものであった。
煌びやかに着飾った貴族達が、自分達を見てひそひそと何やら話しては時に嘲り笑う。
彼らがレクスターを見せ物のように扱っている事は明白だった。
それを見て、見た目こそ美しいが、貴族の嫌なところを煮詰めたような場所だなとリュシエンヌは一人冷静に考えていた。
中には自分達が現れた際、少なからず驚いた顔をした者もいた。反応からして夜会服の仕立てを遅らせた者達に違いない。
きっと、以前と同じ夜会服を着て来るとでも思ったのだろう。そうは問屋が卸すものか。
同じ夜会服でも、今夜のレクスターはリュシエンヌが刺繍した夜会服を纏っている。
流行りの柄で刺繍したから、きっと新しいものに見えたのだ。
ザマァ見ろとニヤける口許を隠すのに必死になっていたら、レクスターが心配そうに声を掛けてきた。
「すまない。大丈夫か」
「あら、こんなの何でもありません。お気遣いありがとう」
夫の言葉によそ行きの笑顔で答えてエスコートの腕を取る。
しかし周りの貴族の冷ややかな視線を感じてか、レクスターはリュシエンヌを隠すようにして歩き始めた。
リュシエンヌはそれを嫌がって、レクスターの腕に自らの腕をギュッと絡めて堂々と隣を歩いて見せる。
見たいのならば幾らでも見れば良い。多少見られたところで曇る美貌など、リュシエンヌには端から持ち合わせがない。
リュシエンヌは触れたら壊れてしまう繊細なガラス細工のような外見に反して、実に豪胆な女性であった。
「ねぇ、あなた。ここにいる人達は皆、別に噛み付いたり殴りかかってくるような相手ではないんですもの。そんな心配しなくても大丈夫でしょう」
夫にだけ聞こえるようにこそりと囁いて微笑む。
リュシエンヌが笑みを浮かべるだけで周りの紳士達がざわめき、その連れの淑女達の視線が厳しくなる。
嫌な場所ではあるが、これは実にわかりやすい。
此処でも自分の美しさは通用するのだと知って、リュシエンヌは胸の中でこれは今後使えるかもしれないとほくそ笑んだ。
それからしばらくして、慣例通りに夜会でのダンスを終えた二人は夜会に招かれた者のマナーに則り、主催者への挨拶を済ませてしばしの休憩をとっていた。
他の貴族の前で散々揶揄されたり嘲笑されたりしたものの、リュシエンヌは初めての夜会で何もわからないという無垢な顔をして全てを乗り切っていたのだが、流石に全く疲れない訳ではない。
「疲れただろう。何か飲み物を持って来るから、此処に座って休んでいると良い」
「まぁ、ありがとう」
レクスターが広間の隅にある長椅子にリュシエンヌを座らせて、飲み物を取りに行く為に早足でその場を離れる。
すると途端に今まで遠巻きにしかしてこなかった貴婦人達が、意味ありげに目を細めながらリュシエンヌに近づいてきた。
ジッと値踏みするようなその不躾な視線に耐え、逆に何か御用と微笑んで見せれば、貴婦人達はリュシエンヌを心配する風を装ってレクスターに関する悪評の数々を喋るだけ喋って最後にこう言った。
「こう言っては悪いけど、『あの』元伯爵子息とご結婚なさるなんて、貴女はとても度胸がおありなのね」
私なら御免だわと含み笑いと共に告げられた言葉を聞いて、リュシエンヌは表面上困ったように笑いながら「これが貴族の十八番である『あの』か」と内心呆れていた。
夫の悪評を妻に吹き込んで、この人達は何が楽しいのだろう。
それらが真っ赤な嘘であることをリュシエンヌはもう知っているし、そもそもリュシエンヌが出入りしていた下町では女同士のキャットファイトすら日常であったので、今更この程度の事でリュシエンヌは臆さない。
(深窓のご令嬢ならこういう時に羞恥に震えて涙したりするのかしら。貴族女の喧嘩って思っていたより生ぬるいのね)
言うだけ言って満足したのか、笑いながら去って行く女性達は結局一人もリュシエンヌに名乗らなかったし、挨拶すらしなかった。
幾ら立場の弱すぎる子爵夫人相手と言えど、あまりに無礼な態度にリュシエンヌはすっかり憤慨して相手を敵認定してしまっていた。
「リュシエンヌ? 何かあったのか」
「いいえ、何も。ご婦人方が挨拶に来て下さっただけですわ」
「そうか」
戻って来たレクスターから手渡された飲み物は、酒ではなく子供用に用意されていたレモネードだった。
彼はリュシエンヌが賞金目当てに下町の酒場で開催される飲み比べ大会で殿堂入りを果たしている事など知らないので、初めての夜会で悪酔いしないようにと気を遣ってくれたに違いなかった。
(こんなに気遣いの出来る優しい人を散々好き勝手言って……! 全員その顔覚えたわよ)
リュシエンヌは殴られたら倍の力で殴り返す事をモットーとする女性であった。
彼女がニコニコと微笑む様は傍目には絵画のようでも、その胸中は歯茎を剥き出しにして威嚇する野犬のような凶暴さを秘めているのである。
美しい薔薇には棘があるどころの話ではない。
(さてと、夜会というものも大体わかったし、念願の旦那様とのダンスも出来たし、もういつ帰宅しても良いように私も動くとしましょうか)
そして今、リュシエンヌは胸の中の狂犬をいざ解き放たんと、白百合を思わせる清廉な笑顔でもって夫に挨拶回りをしてくると告げ、ゆったりとした足取りで広間へと戻るのだった。
(まずはあの仕立て屋からよ。貴族の誰かの差し金だろうけれど、それはそれとして旦那様の夜会服の恨み、晴らさせて頂くわ)
リュシエンヌは広間に入るなり、ぐるりと辺りを見回した。
今回の夜会はそこそこの規模であるらしく、広間だけでもそれなりの人数がいる。
その中でリュシエンヌは数名に目を付けて淑やかに近付いていった。
「おや、君は……」
「お久しぶりでございます、伯爵様。ルクス子爵の妻、リュシエンヌでございます」
「そうか、君はあの子爵に嫁いだのかね」
「えぇ、色々ありまして。でもこうしてまた伯爵様にご挨拶出来る日が来るだなんて、結婚もしてみるものですわね」
意識して最上級の笑みを浮かべ、リュシエンヌは優雅に礼をした。
しつこいようだがリュシエンヌの生家は貧しかった。
故に、家事などの雑務に加えてリュシエンヌ自身が働きに出る事も多々あった。
見目良い使用人は雇い主のステータスである。
貴族出身で顔が良いというのはそれだけで上級使用人の働き口に困らないので、リュシエンヌは数々の貴族家を転々としながら使用人として勤めていた。
今目の前にいる伯爵も元雇い主の一人である。
給金の分だけしっかり働く事をモットーにしていたリュシエンヌの勤務態度は至って真面目で、同僚からも雇い主からも評価が高かった。
だからこそ、紹介状にもそれなりに良い事を書いて貰えていたのだ。
つまり、リュシエンヌは社交活動はしていなくとも、既に幾つかの貴族家からの信頼を勝ち得ていたのである。
その中には勿論、上流貴族の家門もあった。
──そう、この伯爵のように。
貧しい貴族家の生まれで、自らも働き家計を支える健気な娘という背景を知っている雇い主らは、貴族と言えどもリュシエンヌが社交界に明るくない事を知っている。
それを逆手に取って、リュシエンヌは今夜の夜会の為に仕立て屋に衣装を頼んだが間に合わなかったのだと、何も事情を知らない風を装って苦笑して見せたのである。
儚げなリュシエンヌの容姿はこの場において効果覿面であった。
「前払いでと言われて全額お支払いしておりましたのに、仕立て屋というのも忙しいのですね。私、何にも知らなくて……。他で衣装が用意出来なければ旦那様に恥をかかせてしまうところでしたの」
「それは災難だった。それにしても……子爵家相手に事前に全額支払わせるか……」
この国において、貴族相手の商売、特に宝飾品や衣装の類は一定期間毎にまとめて支払うという庶民で言うところの『付け払い』が一般的であった。
にもかかわらず、先に全額を支払わせ、更には納期も守らない。
子爵の背景を加味して考えれば、それが貴族の誰かが嫌がらせの為に手を回したのだとすぐにわかるが、それを実行する仕立て屋となるとまた付き合い方を考えなければならない。
そんな相手では、いつ誰の飼い犬になってこちらに牙を剥くかも知れないからだ。
一瞬難しい顔になった伯爵に、どこの仕立て屋かを尋ねられ、リュシエンヌは胸の中で勝利を確信しつつ極めてにこやかに仕立て屋の名を告げるのだった。
勿論、貴族の中にはこの件を「仕立て屋ごときに侮られた」と笑う者もいるだろう。
だからリュシエンヌは話す内容と相手に特に気をつけたのだ。
ただ夫が仕立て屋に侮られたと笑うだけの間抜けに用はない。必要なのは事の本質を見抜ける有力貴族である。
有力貴族に警戒されたとあれば今後碌に仕事も回って来ないだろう。
どこかの貴族の差し金とはいえ、夫に害をなしたあの仕立て屋は許せない。
手口はただの告げ口であるが、リュシエンヌは目的の為なら手段を選ばない女性である。
じわじわ困窮すれば良いのだと彼女はにっこりと美しく微笑んだ。
(最近は腕の良い仕立て屋が新しく出てきたというし、あっちの仕立て屋の方はこれで勝手に自滅するでしょうね。まぁ、私が何もしなくてもその内淘汰されたかもしれないけど、やっぱり自分でやり返したいものね)
他にも何人かの元雇い主相手に同じ事を繰り返して件の仕立て屋に対する信用をごっそり削り取ったリュシエンヌは、次なる目標を探して再び広間を見回した。
(旦那様と合流する前に終わらせなくちゃ)
とにかく人が多かったので、目標の人物を探すのに少し時間が掛かったが、それでも天はリュシエンヌの味方をした。
(……いた! しかも一人だわ)
踊り疲れたらしく飲み物片手に椅子に座る人物を見つけ、リュシエンヌは獲物を狙う肉食獣のように静かに距離を詰めていく。
目標の人物とは、来春に結婚を控えたとある令嬢であった。
とはいえ、令嬢はあくまで目標の内の一人である。
(旦那様は復讐なんて望まないとわかっているけれど、それはそれとして私が頭に来たから勝手にやり返すわ!)
かつてレクスターに嘘を吹き込み、彼を焚き付けた令嬢の名は、全て突き止め記憶している。
リュシエンヌはその全員に地獄を見せてやると決めていた。
「ご機嫌よう」
にっこりと笑って挨拶をすると、椅子に座った令嬢は怪訝な表情を隠そうともせずに眉を顰めた。
当然だ。知人の仲介もなく、突然見も知らぬ相手から話し掛けられるだなんて、無礼以外の何者でもない。
「あなたは?」
令嬢から不機嫌な声でそう問われても、リュシエンヌはにこにこと笑みを湛えて答えた。
「私、ルクス子爵の妻でリュシエンヌと申します」
「ルクス? 知らないわ」
忙しいのよと令嬢はリュシエンヌに下がるよう手を振ったが、リュシエンヌはやはりにこにこと微笑んで更に言葉を続けた。
「貴女が陥れたレクスターの妻ですわ」
「何ですって」
「お目に掛かれて嬉しいわ。私ね、貴女が過去に何をして彼に何を言ったか、とても詳しく知っているし証人や証言も集めたし、それらを持って貴女の婚約者のおうちにお邪魔する準備はもう既に整ってるの。だってほら、おかしいでしょう? レクスターだけがあんな苦労をして、貴女が幸せに嫁ぐだなんて」
言いながら、リュシエンヌはスッと一枚の紙切れを取り出して令嬢の目の前でひらめかせた。
それを見た途端、令嬢は目を見開いて硬直する。
「どうしてそれを……。全て処分したはず……!」
それは、彼女が他の令嬢達と結託してレクスターを陥れる為の算段の一部が書かれたメモだった。
リュシエンヌは意味ありげにクスクス笑って見せるだけだったが、実際には令嬢の家の使用人がいつか金になるだろうと保管しておいたのをリュシエンヌが買い取ったに過ぎない。
重要な証拠品であるのに自分で確実に処分せずに、使用人に処分しておきなさいと渡すだけだった令嬢の落ち度である。
しかもこの令嬢の家の使用人は主人らに対しあまり忠誠心というものは無く、なかなか使い所の来ないメモを持て余していたので、お陰でリュシエンヌは大分楽をして証拠を集める事ができたのだった。
「何が目的なの」
令嬢がリュシエンヌを睨みつける。
レクスターの生家はこの令嬢の家よりも格上である。
上級貴族を虚偽によって陥れる事は、露見すれば当然家門への侮辱行為ととられ賠償問題に発展するのが定石だ。
彼の性格からして事を明らかにはすまいと令嬢ら甘く見て実行に移したのだろうが、こうして物的証拠がある以上、婚約者の家にこの証拠品を持ち込まれでもしたら、相手の家門はリスクを嫌って婚約話を白紙に戻してしまうかもしれない。
青褪める令嬢にリュシエンヌは実に軽やかな声で言った。
「目的? 貴女の破滅よ」
「そんな……! 悪いのは私だけではないわ!」
令嬢のその一言に、リュシエンヌはかかったなと口端を上げる。
「そう、そうよね。貴女の単独での行いではないのだものね。ではこうしましょう」
同じく共謀してレクスターを陥れた令嬢達を告発しろと、リュシエンヌは砂糖菓子のように甘い声音で令嬢に囁いた。
「他の悪い子を告発すれば、私はレクスターの妻として貴女を擁護して差し上げる」
「……本当ね?」
「でも急いでね。時間が掛かるとうっかりこれをお相手の屋敷に届けてしまうかもしれないわ。実はね、これはごく一部なの」
「やるわ! やるから、お願い、この事は……」
令嬢の言葉に笑顔だけを返しリュシエンヌはその場から離れた。
そして先程仕立て屋の件でやったように、他の標的としていた令嬢達にも順繰りに同じ内容を吹き込んでからレクスターの元へと戻った。
(さぁて、誰から仲間を裏切るかしら)
他の仲間を告発すればお前だけは助けてやる。
昔からある自白を引き出すテクニックだ。
使い古された手ではあるが、令嬢達のあの様子では我が身可愛さに仲間を売るまでそれ程待たなくても良さそうだ。
きっと先を争うようにして自分以外の仲間が悪いのだと告発を始めるだろう事は目に見えている。
そして、頭の軽いお嬢さん方はその行為こそが自分の首を絞める事には気が付かない。
リュシエンヌは数々の証拠品を吟味する過程で知ったが、そもそもあの令嬢達が結託してレクスターを陥れようとした理由がレクスターへの横恋慕である。
婚約者のいる彼に横恋慕して言い寄ったのは令嬢達の方で、レクスターがそれを跳ね除けた事で恥をかかされたと腹を立てたのがきっかけだった。
つまり、最初からレクスターに非など無かったのだ。
それを捏造した証拠と嘘の証言で正義感の強いレクスターを焚き付け、結果彼が婚約破棄の上で伯爵家から出されて子爵家に養子に入ればお払い箱だと言わんばかりに興味を無くすだなんて、自分達ばかり虫が良すぎる話だ。
きちんと果たすべき責任というものに向き合って貰わねば。
リュシエンヌは仕込みの結果を楽しみに、足取り軽く夫の元へと戻った。
「遅かったな。何かトラブルでも?」
「あら、旦那様」
帰って来ないリュシエンヌを心配して探しに来たらしいレクスターと合流し、リュシエンヌは肩を竦めた。
「いいえ。ただ、少し汚れが気になってお掃除を……」
「掃除? こんな所に来てまでか?」
「きっとそういう性分なんです」
夜会用の化粧で美しく輝くリュシエンヌは、レクスターの腕に自らの腕を絡めて無邪気に笑った。
「──私、お掃除は得意なんです」
そう。レクスターは商会の仕事が軌道に乗り始めた事もあり近く名誉を回復して、正式に社交界に復帰するだろう。
その際に、彼の視界にゴミが入り込むのは頂けない。
リュシエンヌが綺麗に片付けをしておくのは妻として当然の事。
そして愚かな令嬢達が自滅していくのは当然の報いである。そこに慈悲は無い。
(仕立て屋に手を回した貴族共にも丁寧に御礼をしてやらなきゃね。それからあの無礼極まりない厚化粧の女共も……)
月夜ばかりと思うなよと、楽しそうに復讐計画を練るリュシエンヌを見て、レクスターはそんなに夜会が楽しかったのだろうかと普通に誤解した。
何せリュシエンヌは見た目が良い。そして外面も良い。
しかも彼女の美しさは派手さのある美しさでは無く、儚げな美しさであるので、そんな彼女がうっそりと目を細めて微笑んでいるその理由が楽しい復讐計画だとはとても考えが及ばないのだ。
「君まで付き合わせてすまない」
「あら。私は楽しかったですよ。旦那様と踊れましたし、有意義な時間を過ごせたもの」
手配していた馬車に乗り込み、レクスターはまずリュシエンヌに謝ったが、リュシエンヌは謝る必要などないと笑って見せた。
そして続けて言った。
「あなたがどう思っているかはわからないけれど、私は今とても幸せなんです」
リュシエンヌの言葉にレクスターはきょとんとした顔になり、次いで難しい顔をしてむっすりと黙り込んでしまった。
きっと、彼はもう誰も信じないなどと誓っていて、その誓いの手前どう答えて良いかわからないといったところだろう。
レクスターは嘘が苦手だからすぐわかる。
そんなところも誠実で素晴らしいなとリュシエンヌは思うのだ。
リュシエンヌは疲れて寝入ったフリをしてレクスターの肩に頭を預けたが、レクスターは何も言わずにそのまま肩を貸してくれていた。
その優しさがリュシエンヌにはとても嬉しかった。
夜会から程なくして、リュシエンヌの目論見通りに令嬢達は次々に仲間を裏切って告発を始めた。
一気にそんな事をすれば加担した全てのメンバーが割れるだけで、令嬢達がそれに気付いた時には既にリュシエンヌの王手が掛かっていた。
平民向けのゴシップ紙の記者から令嬢達の生家や婚約者の家まで、色んな所にかつて令嬢達がレクスターを陥れ、結果レクスターが社交界で冷遇されるに至った件を証拠を付けて投書し、噂好きで知られる下町の女性達にそれとなく「ここだけの話だけれど」と前置きして事の真相を伝えたのである。
下町において、ここだけの話というのは、つまり皆が知っている話という意味だ。
あっという間にレクスターは令嬢達に陥れられて誤った行動に出た結果伯爵家を追い出されたが、その原因とも言える令嬢達については騙された己の落ち度として一言も口にしなかったという話が広がり、平民の間で一躍有名人となっていた。
口が堅く、人柄通りに商売も誠実で、貴族ながらに平民にも真摯に向き合う。
レクスターの本来の性格と、これまで積み重ねてきた行動が平民に受けたのだ。
お陰でレクスターは未だ貴族からの風当たりはきついものの、平民の中でも豪商と呼ばれる人々を顧客に得て、彼の商会は飛躍的に発展し続けている。
本人は今更どうしてそんな事が明るみに出るに至ったのかと不思議そうだったが、リュシエンヌは何も言わず微笑むだけだった。
***
「……君、何をしているんだ」
「お掃除です」
今日も屋敷の窓拭きに勤しんでいたリュシエンヌは、出勤前のレクスターに声を掛けられて振り返った。
そこには不満そうな表情を隠さずに腕を組んだレクスターが立っていて、リュシエンヌはどうしたのかしらと首を傾げる。
「うちにはハウスメイドがいるはずだが」
「えぇ。色々とやって貰ってとても助かっております」
「ならば何故君が掃除をする必要があるんだ。そんなお仕着せまで着て」
「それは……」
レクスターが順調に資産を増やしたお陰で、ルクス子爵家には使用人を増やすだけの余裕が出来てきた。
食事も料理数が増えたし、以前は節約しながらパンに塗っていたバターも使える量が大分増えた。
他にも、まだ一度も袖は通していないが、リュシエンヌの訪問着と夜会用のドレスまで仕立てて貰う事が出来た。勿論例の仕立て屋とは別の仕立て屋である。
それでもリュシエンヌは今でもまだ毎日掃除をして、料理を作り、夜中には鍋を磨いている。
それを夫はよく思っていないらしい。
リュシエンヌはどうやって夫を宥めたものかと思ったが、嘘をついても仕方が無いので正直に答えた。
「趣味なんです。掃除も料理も」
「しかし」
「私は社交活動というものに疎いですし、それよりもお掃除して貴方が気持ち良く家で過ごせたり、私が作った料理を貴方に美味しいと思って貰えたら私はその方が嬉しいのです。ただ、それだけで……」
でも、とリュシエンヌは少し困ったように眉尻を下げて続けた。
「もしかして、私がこうして掃除やら何やらすると旦那様の外聞が悪くなるのかしら。ごめんなさい。私ったら気が付かなくて……」
「いや、その、趣味というのなら仕方がないが……。しかしやはり君は子爵夫人であるのだから、流石にお仕着せを着て掃除をするのは控えてくれ」
「この服動きやすくて良かったのだけど……、お料理は?」
「それは……まぁ、良いだろう」
「わかりました。そうだわ。今日の夕食は頂いた雉肉を料理する予定なんです。お腹を空かせて帰って来て下さいね」
まだ釈然としない様子のレクスターを玄関まで見送り、行ってらっしゃいと手を振ってからリュシエンヌは再び家事に戻った。
とはいえ掃除は控えるように言われてしまったので、少し早いが厨房で夕食の仕込みを始める事にする。
街の知り合いからお裾分けにと貰った雉を麻袋から取り出し、何の躊躇もなくその羽をむしり始めたリュシエンヌに使用人達は流石に引いていたが、美味しい肉料理には必要な下準備である。
血抜きはされているようだから、綺麗に羽をむしり、部位ごとに解体するのだ。
以前に働いていた屋敷でキッチンメイドから色んな手解きを受けているリュシエンヌにとってそのくらいは朝飯前だ。
元気良く雉の羽根をむしっていたリュシエンヌだったが、使用人が戸惑いがちに来客を知らせに来た事で手を止めざるを得なかった。
「お客様だなんて初めてだわ。というか、一体誰が来たのかしら」
子爵家に嫁いでから社交らしい社交など皆無であったので、当然来客にも心当たりが全くない。
まだお仕着せ姿だったリュシエンヌは慌てて雉の処理を厨房の使用人に任せると、部屋に戻って着替えを済ませ、体の何処にも雉の羽根が付いてないことをよくよく確認してから応接間へと向かった。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそお約束も無く訪問してしまった無礼をお許し下さい」
応接間で待っていたのは一人の令嬢で、初対面ではあるがリュシエンヌは彼女の名前を知っていた。
ベルティーナ・カウジオ伯爵令嬢。
レクスターの元婚約者である。
彼女はリュシエンヌの復讐リストには載っていない。
かつてカウジオ伯爵令嬢がとった対応は、伯爵令嬢として筋が通った正しいものだったからだ。
リュシエンヌは洗練された佇まいのカウジオ伯爵令嬢にソファをすすめ、自分も向かいの椅子に腰を下ろす。
「それで、どのような御用でしょうか」
なるべく上品に見えるよう所作に気を付けながら、リュシエンヌはカウジオ伯爵令嬢に尋ねた。
わざわざ夫の留守に訪問するくらいだ。リュシエンヌに直接用があるのだろう。
初めての来客であるにもかかわらず堂々とした態度でリュシエンヌが用向きを尋ねる一方、カウジオ伯爵令嬢は聡明さを感じさせる美しい顔に気まずさを浮かべて口を開いた。
「……私はベルティーナ・カウジオと申します。カウジオ伯爵家の娘でレクスターの元婚約者です。実は、私はレクスターを伯爵家に戻すよう、私の両親から彼の家に働きかけて貰おうと思っております」
「まぁ」
「真実が明らかになった今、彼に対する処遇は見直されるべきです。ですから」
カウジオ伯爵令嬢の言葉を笑顔で遮ってリュシエンヌが言った。
「まさか、私の夫を実家に戻して、破談になった婚約を復活させるおつもりですの? そうしたら私は一体どうなってしまうのかしら」
リュシエンヌの言葉に、カウジオ伯爵令嬢は勿論考えていますとすぐさま答えた。
「あなたにはレクスターと離縁した後も生活に困らないよう、カウジオ伯爵家から支援を致します。お望みなら他の貴族家との縁談を調えますわ」
「それは至れり尽くせりですわね」
「ですから、レクスターとは」
「嫌よ」
笑顔のままピシャリと拒絶の言葉を叩き付けたリュシエンヌは、やれやれと溜め息を吐いてカウジオ伯爵令嬢を見遣る。
「レクスターはルクス子爵として日々頑張っておりますし、大体、伯爵家にレクスターを戻すと言って、あの人が納得する訳もないでしょう」
そしてリュシエンヌはこめかみに青筋を立てながらもにっこりと笑って言った。
「あの人は私の大切な人ですのよ。今更返してなんかあげないわ」
今になってのこのこと出て来て、都合の良い事を並べてレクスターを取り戻そうなど、プライドは一体何処に置いて来たのかとリュシエンヌは呆れていた。
婚約破棄から新しい縁談を組んでいないところを見ると、もしかしたらカウジオ伯爵令嬢は本当にレクスターを愛していたのかもしれない。
だが全てはもう過去の話である。
御用は済んだかしらと笑顔で追い出しにかかるリュシエンヌに、カウジオ伯爵令嬢はめげずに言い募った。
「でも彼の幸せを考えたら……」
だが、その言葉に答えたのはリュシエンヌではなかった。
「私はもう伯爵家には戻らない」
「レクスター!」
「あら旦那様」
仕事に行ったはずのレクスターが部屋に入ってくるなり、カウジオ伯爵令嬢に向かって口を開く。
「私を気遣ってくれた事には礼を言う。だが私はもうルクス子爵なんだ」
「でもレクスター。家に戻ってきちんと話をすれば、貴方はまた伯爵家の次期当主にもなれるはずよ。よく考えてちょうだい」
「私にその資格はない。あったとしても、既に正式な手続きを経て私はここに居る以上、今の生活を放り出すような真似は出来ない」
毅然とした態度でそう言い切ったレクスターに、カウジオ伯爵令嬢は苛立ちを隠せぬ様子で叫んだ。
「こんな吹けば飛ぶような何の権力もない子爵家の、一体何がそんなに大切だというの!」
それは、つい口から漏れてしまった言葉なのだろう。
言ってしまってから伯爵令嬢はハッと口に手を当てて身体を強張らせている。
何と言う事を言ってしまったのかと青褪め狼狽える彼女の動揺が、側で見ていたリュシエンヌにも手に取るようにわかった。
(確かに、血統こそあれ、今では吹けば飛ぶような弱小貴族かもしれないけど、私の実家に比べたら何倍もマシだし、何よりレクスターが頑張ってここまで盛り立てて来たのに……)
復讐リストには入れていなかったが、これはとりあえず一発くらい殴っても許されるのではないだろうか。
レクスターは暴力はダメだと言うから、転んだフリでもしたら何とかやれないだろうか。
リュシエンヌがこっそり拳を握り力を込めたのと同時にレクスターが一歩前に出た。近付くレクスターにカウジオ伯爵令嬢の細い肩がびくりと跳ねる。
「あの、ごめんなさい。私あんな事を言うつもりではなくて、本当よ、貴方に戻って来てほしくて、それで」
震えるカウジオ伯爵令嬢に、レクスターは静かな声で言った。
「確かにルクス子爵家の序列など、君の家に比べたらちっぽけなものだろう。私は未だ社交界でも地位を確立出来ずにいるし、やっている事も平民相手の商売だけだ」
「だから、伯爵家に戻ればそのようなを事せずとも……」
「それでも私の居場所は此処なんだ。私には守るべき従業員や、大切な家族がいる。私は、今の私に誇りを持って此処にいるんだ」
その言葉に、カウジオ伯爵令嬢もこれ以上の説得は無意味だと、流石に理解したようだった。
「……ルクス子爵、突然の訪問失礼致しました」
そう深々と頭を下げて彼女は帰って行った。
最後にレクスターをルクス子爵と呼んだのは、彼女なりのけじめだったのだろう。
遠ざかる馬車の音を聞きながら、リュシエンヌが何だかんだで殴り損ねたなぁとぼんやり思っていると、隣に立っていたレクスターが糸が切れたように突然ソファに倒れ込んだ。
「旦那様! どこか体調でも悪いの?」
慌ててリュシエンヌが駆け寄れば、レクスターは何やら重々しい溜め息を吐いてソファに突っ伏している。
「いや、体調は別に……。だが……何だか急にどっと疲労感が……」
「あらまあ」
リュシエンヌがソファの傍らに膝をついてよしよしと労るようにレクスターの頭を撫で、ブランデー入りの紅茶でも用意しようかと尋ねたが、レクスターは突っ伏したまま不要だと首を振るだけだった。
(この人も突然の事で色々と思う事があるはずよね。一人にしてあげた方が良いとはわかっているけど……)
どうにも離れ難くてリュシエンヌはレクスターの頭を撫でたり、宥めるように背中を叩いてみたりなどして結局その場に留まった。
「……大切な家族と言って下さってありがとう」
そっと呟いたリュシエンヌに、レクスターはやはりソファに突っ伏したまま小さく呻き声を上げた。
二人は応接間でしばしの沈黙に身を浸していたが、その内にレクスターがもぞりと動いて体勢を整えてソファに座り直した。
「……君に話がある」
吐き出されたレクスターの言葉は非常に重かった。
リュシエンヌにも座るように言って、レクスターは溜め息とも深呼吸ともとれるほど深く息を吐く。
「お話ですか? 何かしら」
このように向き合って話すのは初めてだったので、リュシエンヌはレクスターとは対照的にニコニコと微笑んで続く言葉を待つ。
レクスターは眉間に皺を寄せ、ひどく難しい顔をしたまま言った。
「君との離縁を考えている」
リュシエンヌはレクスターの言葉に目を丸くして、そしてこてんと首を傾げた。
「もう一度仰って?」
「……君との離縁を考えている」
「まぁ。聞き間違いじゃなかったのね。理由をお伺いしても?」
レクスターはリュシエンヌが驚きも悲しみもしない事に戸惑いながらも、この結婚はそもそも自分が商売をする上で伴侶が必要だからと結ばれたもので、商売が軌道に乗った今では結婚を継続する意味は無い事、そして書類上の結婚であるのだから離縁は早い方が良い事を理由として並べた。
「私の事情に付き合わせてしまった君には申し訳ないと思っている。だから出来るだけ早く手続きをして……」
「あの」
「何だ」
レクスターの言葉を遮り、リュシエンヌはうーんと考え込んだ顔で言った。
「離縁したいとの事ですけど、私の事がそんなにお嫌い? ほら、結婚初日に私の事を愛する事はないって仰ってましたでしょ。商売云々は置いておいて、結婚生活を継続するのが嫌になるくらい、それこそ一秒だって私と一緒に暮らすのが苦痛というのなら、流石に私も考えますが……」
「え、いや、そういう事はないが」
反射的に答えてしまったレクスターは掌で口を覆い、見るからに「しまった」という顔をした。ここはどう見てもその通りだと返すべき場面であったのに。
このレクスター・ルクスという男、とことん嘘が吐けなかったのである。
それを知っているのであえてあのような問い掛けをしたリュシエンヌは、計算通りと胸の中でほくそ笑みながらも、表面上はにこりと可憐に笑って更に言葉を続けた。
「私の事はお嫌いではないようで良かったですわ。あの、これは確認も兼ねるのですけれど」
「確認?」
「あなた、もしかして私がこの結婚を嫌々引き受けたとでも思っていらっしゃる? 自分の都合で無理やり進めた結婚だから、早々に離縁して、離縁した後で私がまた結婚出来るように今までだって指一本すら触れなかったのかしら? 教会に白い結婚であると証明書を提出すれば実質未婚扱いになるものね」
「ぐぅう……」
よく、追い詰められた場面でぐうの音も出ないというが、人間唸り声くらいは出せるものである。
唇を噛み締めるレクスターにリュシエンヌは結婚後初めて彼の前で鼻で笑った。
下町の娘が道端の酔っ払いにするような嘲笑であった。
「あのねぇ、勝手に私の気持ちを決めないで下さいな。勝手に決めつける前にせめて聞いて頂けない?」
「だが、君を付き合わせたのは事実だ」
「あれだけ懇切丁寧に説明された上で結婚したのよ。そんなことくらい承知の上よ、お馬鹿さん」
「ば、馬鹿!?」
突然の罵倒に驚いた様子のレクスターに構わず、リュシエンヌはゆらりと立ち上がり、ドレスの裾を軽く上げたかと思うとローテーブルにどん!と片足を乗せた。
目も据わっており、完全にヤのつく自由業の人の動作だった。
「よろしいかしら? 確かにあなたは融通のきかない堅物だし、賠償金の支払いだって終わっていないし、社交界でだってまだまだ爪弾きにされてるけれど、どんなに辛い立場にあってもあなたは私に当たるような事は一度もなかったわ。むしろ私がここで快適に暮らせるようにあれこれと気を遣ってくれていたわね。これはとても素晴らしい事よ」
リュシエンヌの口調は柔らかく、口許もにっこりと笑っていたが、目が笑っていなかった。
それだけでも大変恐ろしいのだが、机に乗せた事で顕になった彼女の細くて白い足首が見えてしまい、レクスターは顔を青くしたり赤くしたりで忙しかった。
「あなたはいつだって文句も言わずに真面目に働いて、性格も誠実で優しいし、それに私が作ったご飯も全部食べてくれるし、おまけに顔だって私の好みよ! 私、離縁なんてこれっぽっちも考えた事はないの。だって私、今の生活が幸せだし、あなたの事好きなんだもの!」
「へ、あ、え……? すき……?」
完全に勢いに負けて目を回しそうになっていたレクスターは、リュシエンヌの言葉を鸚鵡のようにもごもごと口の中で繰り返し、そして我に返って目を見開いた。
「好き、だって? それは……」
「愛してるって意味よ!」
「あの、でも……」
追撃の如き勢いで言われ、今度こそレクスターは卒倒寸前だった。
突然過ぎて理解が追い付かないようだが、好きだと言われた事は理解出来たようで、その顔は真っ赤に染まっている。
一方、言いたい事を言いたいだけ言ってスッキリしたリュシエンヌは、テーブルに足を乗せたまま腕を組んだ。
姿勢といい視線の鋭さといい、完全に恫喝のスタイルだった。
「何か言いたい事でも?」
リュシエンヌの質問に、息も絶え絶えといった様子でレクスターが答えた。
「しかし、私は本当に君を愛せるかわからないんだ! その、女性はまだ怖いし……」
「怖い? 私も?」
「君については今怖くなりかけたな」
「そう。じゃあ、こうしましょう」
スンッとしたレクスターを見て、リュシエンヌはよっこらせとローテーブルを踏み越えて夫の真正面に立った。
思わず後退しようとしたレクスターだったが、ソファに座っているのでそれ以上退がる事は不可能である。
簡単に追い詰められ、そろそろ泣いてしまうかもしれないと思い始めた頃、リュシエンヌが真剣な声で言った。
「とりあえず、お友達から始めましょう」
「友、達……?」
「えぇ。結婚は済ませてるから形式上私達は夫婦だけれど、この結婚自体が急な話で未だにお互いの事をよく知らないというのもまた事実だわ。だから、お互いを知る為にもお友達から始めてみましょうよ。それでもやっぱり気が合わないってあなたが思うのなら、仕方ないから離縁を考えてあげても良いわ」
ずるい言い方だ。レクスターは反射的に思った。
リュシエンヌは離縁を考えると言っただけで、離縁するとは言わなかった。
その点を指摘することは勿論出来たのだが、レクスターは結局リュシエンヌの申し出を受けて頷いた。
何故なら『リュシエンヌ取扱説明書』によれば、彼女はとても諦めが悪いとある。
レクスターがどのように説得したとしても、今のレクスターの言葉ではきっとリュシエンヌの心を動かす事は難しい。
でも、せっかくなら取扱説明書に対処法も載せておいてほしかった。
取扱説明書の著者である義母にそんな事を思いつつ、頷いたレクスターはごくごく当たり前の事を言った。
「……それで、友人とは一体何からするのだろうか」
伯爵子息として早々に婚約者が決まっており、これまで女性の友人などいた事のないレクスターである。
友人になると言っても具体的に何をすれば良いのかわからない。まさか男友達と同列に扱う訳にもいかないだろう。
その言葉にリュシエンヌはにっこり微笑んで答えた。
「それを二人で考えるのも楽しいと思うわ」
どうやらリュシエンヌにも具体的なプランは無いらしい。
言い出しておいて何だそれはとレクスターは思ったが、妻の言葉通り、二人で考えて少しずつお互いを知る事が出来たら、もしかしたら自分もまた少しずつ前に進めるのではないかとも思い直す。
そして同時に、友人から始めると決まった事に自分の胸が少しばかり軽くなっている事に気が付いて内心で驚いた。
自分の都合で巻き込んでしまったリュシエンヌを一刻でも早く解放してやらねばと思っていたはずなのに、離縁を切り出した時、自分の胸には確かに憂鬱な思いがあった。
もしや、と思ったが、すぐに首を振ってその考えを打ち消す。
己とリュシエンヌは改めて友人から始めると決めたのだ。
今は余計な情報は要らない。リュシエンヌ取扱説明書もしばらくは封印しよう。
レクスターが胸の中でそう決めた時、リュシエンヌがぱちりと両手を合わせて良い事を思い付いたわと声を上げた。
「せっかくお友達から始めるんですもの。最初はお互いを名前で呼ぶところから始めるのはどうかしら」
「名前」
「えぇ。私、あなたの事を……えぇと、そうね、レックスと呼ぶわ。あなたは私を……何てお呼びになるかしら?」
「どのように呼ぶと言われても……。リュシエンヌだから、そうだな、リュシー?」
「良いわね。ぐっと親しくなれた気がするわ」
呼び方一つ決めただけだと言うのに、これ以上ない程リュシエンヌは楽しそうだ。
その様子を見て、レクスターは知らず小さく笑みを零す。
「一つ目は私が決めましたから、次はレックスが決めてちょうだいね」
「検討しておく」
これからの方針を『改めて友人から始める』と定めた二人は、互いに頷いて、そこからは再びそれぞれの日常へと戻っていった。
この後、二人は共に観劇に行ったり、散歩を楽しんだり、ピクニックへ行ったりと思いつく限りの友人らしい事を続ける事となるのである。
その間にリュシエンヌ取扱説明書の存在が本人にバレたり、彼女の暗躍がレクスターにバレて喧嘩になったりと大小様々な紆余曲折を経てちょうど一年が経った頃のある晩、レクスターは名目上妻である友人・リュシエンヌにあるプレゼントをした。
「随分と大きい箱ね。一体何が入っているの?」
「……開けてみればわかる」
「レックス、あなたどうしてそんな死にそうな顔をしているの?」
「……開けてみればわかる」
今ではすっかり気安い仲になっていたレクスターとリュシエンヌである。
プレゼントを渡すだけだという割にすっかり青ざめているレクスターの様子に、こてんと首を傾げながらも、リュシエンヌはゆっくりと丁寧に包装された箱を開けていく。
リボンを解き、丁寧に包装紙を外し、化粧箱の蓋を開ければ、そこから出て来たのは艶のある白い布地だった。
「これって」
白い布地を取り出して広げると、それはふわりと広がってリュシエンヌの知っている形になった。
「レックス、これ、このドレス。白い絹だわ」
「……そうだな」
「え、あの、これって、アレよね? 私が頂いてよろしいの?」
「あぁ。君のサイズで仕立てさせた君のドレスだからな」
「もしかして、緊張している?」
「今にも口から胃を吐きそうだ」
「まぁ大変」
ソファに座り、膝の上に真新しい絹のドレスを広げたリュシエンヌは、ぽぽぽと顔を赤く染め、難しい顔をして右手で胃のあたりを押さえている名目上夫の友人・レクスターを見てにっこりと輝く笑顔で言った。
「私、あなたのそういうところ大好きよ」
「そうか。……それで、だな」
「えぇ、なぁに」
レクスターはリュシエンヌの座るソファの真正面で片膝をついて彼女を見上げた。
ひたと二人の視線が交わる。
「リュシエンヌ。本当に今更ではあるが、私と結婚してくれないか」
「えぇ、喜んで!」
レクスターのプロポーズにそう答えたリュシエンヌは、贈られた真白のウェディングドレスを抱えたまま相手の腕の中に飛び込んで子供のようにくふくふと笑う。
既に結婚はしているのだが、この時、二人は正式に友人を卒業し、夫婦となったのだった。
──とある子爵家に嫁いだリュシエンヌの結婚式は、ごくささやかなものだった。
レクスターの商会がある町の小さな教会で行われる式に参列者はおらず、夫とたった二人きり、司祭様に婚姻の誓約をするだけのものである。
だがリュシエンヌはこれ以上なく満たされていた。
結婚式のやり直しを提案したのはレクスターだ。
これは彼なりのけじめであるのだという。
本当に真面目な人ね、と胸中で思いつつ、上等な絹のウェディングドレスに身を包んだリュシエンヌは、茎にリボンを結んだ一輪の百合の花を持って目の前の夫を見上げた。
どこか緊張した様子のレクスターはリュシエンヌの視線に気がつくと、照れたようにパッと視線を逸らしたが、すぐに視線を合わせて小さく微笑んでくれた。
一年前は婚姻の誓約書にサインをするだけの式でも十分過ぎるくらいだと思っていたのに、自分は今、ウェディングドレスを纏って愛する人の前に立っている。
「……リュシー、綺麗だ」
「ありがとう。レックス、あなたもとっても素敵よ」
二人で誓約を済ませ、誓いの口付けを交わす。
そういえば前回は誓約書にサインをしただけでキスはしなかった。
あの時はこんな瞬間がやってくるだなんて思いも寄らなかった。
あの日の自分に何かメッセージを伝えられるとしたら、リュシエンヌはきっとこう言うだろう。
子爵夫人になりましたが夫が冷遇されています。
──けれども私は世界一幸せな花嫁です。