001:聖女マリア
――世の中というものは、ひどく残酷で、それでいて端から見れば随分と滑稽な代物である。
私の記憶にある最後の光景と言えば、深夜につき終電もない会社で今日も泊まり込みかぁ、なんて思いつつ書類の束を運んでいる日常的な風景。
急に視界が回転して床の上に倒れていても、せめて残業代くらい出して下さいなんて考えるばっかりで、自分が過労死する直前だって事さえ理解できなかった。
そして次に目を覚ました時にはもう異世界。剣と魔法の中世的ファンタジー世界。
当時7歳にして走っていた廊下で盛大にスッ転んだ拍子に前世の記憶を思い出すとかいうどこのラノベかとツッコミ入れたくなる現象のあと、許容量超過した頭がパンクしてそのまま丸一昼夜寝込むことになった。
「――よしっ、今日も私は可愛い……はず!」
そんな私も本日付けで12歳。
時が経つのは早いものだと元アラサーが少女の顔かたちで鏡を前にニッコリ笑顔を作ってみる。
瑠璃色をした髪は子供特有の細さと柔らかさがあって、その滑らかな触り心地は今でもお気に入り。
目元はちょっと垂れ気味で、それが優しげな面立ちを形作っていると言えなくもない。
やっぱり子供って言うのは可愛らしい生き物だよね、なんて鏡の向こうに居る自分を褒め称えてみた。
「パパ、いってらっしゃい!」
「ああ、行ってくるよマリア」
こぢんまりとした家で、パパはママと抱擁とキスを交わし、次に私とも同様の所作を行う。
私の新しい家族はなんとお貴族様である。
とはいっても男爵家なので貴族社会のピラミッドで言えば底辺なんだろうけれど。
爵位というのは公・侯・伯・子・男。
王族と血の交わりがある言わば準王族となる公爵家は省くとして、一般的な貴族家がどれだけ功績を立てても成り上がれるのは侯爵まで。
その侯爵家に男爵家ごときが成り上がろうと思うなら国を滅亡から救うような大偉業をそれこそ何度もやってのけるくらいしなきゃダメだとは夕食時にパパの口から出た言葉だ。
まあ有り体に言えば男爵家なんて一流企業に勤める平社員みたいなもので、会社の威を借りる事はあっても吹けば飛んで行っちゃうような懐事情も相まってウン十億円の商取引に絡んだりはできないって事なんでしょうよ。
私は、まあ、ごくごく普通の、一般庶民に毛が生えたくらいの生活が丁度良い、身の丈に合ってると思う。
組織の重役には責任ってものが重くのし掛かるし、もしもパパがお偉様に昇格したら、きっと家に帰ってくる頻度もめっきり減るに違いない。
女はいつでも傍に居てくれるからこそ安心できる生き物で。
逆に言えば旦那様と会えない時間が増えると不安が募って、それであれやこれやで家庭崩壊まっしぐら。
そういった男女の機微は現代日本だろうと、中世ヨーロッパ風の文化を持つここアルフィリア王国でもそう大して変わらないはずだった。
うん、アルフィリア王国。
私はこの国名をマリアとして生まれ変わる前から知っている。
それは当時寝る間も惜しんでドハマリしていた乙女ゲームに出てくるのと同じ名前。
タイトルは“蒼い竜と紅い月”。
一番最初にリリースされた通称“無印”は据え置き型ゲーム機のソフトだった。
昨今の先細りしたゲーム事情なんて知ったことかと超特大のメガヒットを記録したこのゲームは、それから10年間の間に2本の続編と、ジャンルを違えた全く新しいシリーズの計5本を世に送り出している。
無印はありがちな紙芝居形式で簡単な選択肢を選んでいってエンディングを迎えるといったものだったけれど、これがRPGになるとやり込み要素が多すぎて本編シナリオがオマケに感じるほど重厚な物語に仕上がっていたし、またSLGともなると某歴史シミュレーションみたく武将を調略したり合戦したりで全国統一するとかいう、それって蒼紅でやる必要あったの?と言いたくなるような色物に仕上がっていた。
で、こういった話がどうしたのかと疑問に思われる方のために、説明しておこう。
無印のヒロインは「マリア」という。私の名前もマリアという。
物語によって主人公は違えども、稀少と言われる光属性魔法を操ったことで王家に召し上げられ“聖女”と呼ばれるって所は共通で、と言いながら実はこの“聖女”っていうのがクセ者で、シリーズごとに意味合いとか性質がちょっとずつ違うのです。
どういうことかと言えば。
無印では単なる回復役みたいな役どころ――というか王子様たちに囲まれていて魔物相手であっても攻撃なんてさせて貰えない――なんだけど他のタイトルだと何人も居る聖女候補がバトルして優勝者が大聖女の称号を得る、だとか。
はたまた女神様そのものを自分の身体に宿すことで天変地異を引き起こしてみちゃったりだとか、それってもう人間じゃないよね?って言いたくなるような進化を遂げてしまうのですよ。
いや、私普通の人間ですからっ!
前世の記憶を持ってるとか、ちょ~っと他と違う所もあるけど、そんな世界をどうこうできるような怪物じゃありませんからっ!
というのが私の考え。
なので、シナリオなんか完全無視で慎ましくささやかな幸せをお供に生きて孫とかひ孫に囲まれて天寿を全うするってのが目標なのです。
決して、け~っして王子様を籠絡して玉の輿に乗っかっちゃおうだとか、ハーレムエンドを目指して攻略対象全員に馴れ馴れしくしようといった事はしないのです。
だってわたしゃ多少なりとも世の中の仕組みってものを知ってますからね。
身の程を弁えない愚か者に降り掛かるのは我が身の破滅だってことも重々理解しているのよ。
というか、十代のお花畑全開の娘さんなら兎も角、私には目の前にある「ゲームっぽい」世界が巧妙な罠に見えて仕方ない。
これ絶対調子に乗ってハーレムエンド目指して公爵令嬢から「逆ざまぁ」される展開じゃないか!
重要なのは乙女ゲームっぽいってところ。
丸々そのままじゃないのよね。
しかも今の時点だと蒼紅のどのタイトルなのかも分からない。
シリーズ全体で見ればかなり世界観が違う筈なんだけど、土台になってる部分が一緒なので区別が付かない。
もしも私の生まれたこの世界が無印じゃなくてSLGだったりしたら、選択を一つ間違えたが最後、即日詰んでゲームオーバーなんて目もある。
そんなの絶対にイヤだ。
私は安心安全、慎重確実をもっとーに生きるんだっ!
パパを見送ってちょっぴり寂しそうな顔をしたママの横顔を見上げつつ、私はふんすっと鼻息も荒く可愛らしい両手を握り絞める。
前世では大した親孝行なんてしなかったし、それどころか結婚もしていないのに過労死でご臨終とかいう親不孝を致してしまった。
だから今度は、この新しくて素敵な家族を私が守るんだと。
恋愛なんて二の次三の次。地味な女の子として謙虚に生き抜くんだと固く心に誓ったものである。
――と、固く心に誓った数日後ともなると、私は馬車に揺られていた。
現実逃避で仰ぎ見れば、澄み渡る青い空に一羽の鳶がピーヒョロと鳴きながら飛んでいるのが見える。
地味に謙虚に生きようと志した途端に、何かのフラグが飛んできたのです。
『マリア、実は次の休暇で上司にお呼ばれしていてパパとママは家を空けるんだ。何でも、ご息女の誕生日を祝して領内のお屋敷でパーティーを開くのだとか。このご息女はマリアと同い年だし、仲良くなれれば後々良くして下さるかも知れない。なのでマリアも一緒に来なさい』
なんて話をされたのが一週間ほど前。
あの日の夕食で食べたママの力作シチューは美味しかったなぁ……。
などとちょっと虚ろな目で思い返す。
パパの職場は王城で、荒事よりもお金の勘定が得意なパパはそういった部署に勤務している。
夕食の際の話に時折出てくるのが上司の名前で、なので随分と目を掛けて貰ってるんだなとは思っていたけれど。
パパの口から出た次の言葉に私の心臓が跳ね上がった。
『私の上司はジル・ベル・ディザーク卿といってね、侯爵様なんだ。そのご息女はルナ様といってね。話を聞いた限り大人顔負けの利発なお嬢様らしいから粗相のないようにね』
親馬鹿ともなれば娘の魅力を十割増しで周囲に吹聴するなんてのもあり得る話。
なので優秀さとか可愛らしさを幾ら話されても、それこそ話半分で聞き流すのが正解なのである。
それよりも、私はここに重要なメッセージが隠されていることに勘付いた。
ジル侯爵? の娘さんはルナちゃんというらしい。
『ルナ・ベル・ディザーク』と言えば、乙女ゲーム“蒼い竜と紅い月”に登場する重要キャラの一人。
聖女マリアによって断罪される悪役令嬢のお名前だ。
――まさか……彼女は私と同じ転生者で、物語が始まってしまう前にヒロインである私を始末しておこうと考えて……。
私の頭の中を駆け回るのは不安と恐怖。
けれど、だからといって逃げ出すなんて許されない。
パパとママが命の危険に晒されてしまう。
こんなの、どうすりゃ良いのよ!!
元アラサーの自負なんて簡単に放り捨てて泣き喚きたい衝動に駆られる私だった。




