021:盗賊殲滅戦⑤ (魔王軍四天王ベリアル)
ルナの可憐な唇が僅かに笑む。
視界いっぱいに迫るのは巨大なる拳。
見上げるばかりの巨躯から放たれた拳ともなれば、全身を甲冑で覆った騎士でさえ一撃のもとに粉砕されるだろう。
しかし拳が打ち貫いたのは少女の残像だけだった。
轟音と共に割り砕かれる石床。
鰐の顎門から漏れ出る荒い息。
――ああ、これこそが戦いというものだ。
少女は愉悦を覚えていた。
ほんの僅かでもミスしたら自分の身体など粉々になるに違いない身の毛もよだつ戦闘風景。
――ああ、戦いとはこうでなくてはいけない。
悦びが込み上げてくる。
腹の底から湧き上がるのは途方も無い殺戮への欲求。
強者を打ち倒す瞬間の、あの何物にも代えがたい達成感。
かつて魔王と一対一で殺し合った時の高揚感を思い出す。
「今日は良い日だ。儂はなんとツイているのか」
空中で鋼色の艶髪を靡かせ少女は着地するなり真横に跳ぶ。
コンマ数秒の時間差で巨大な拳が飛んできて誰も居なくなった床を叩き砕いた。
前世で魔王と戦った折には、舞台は魔王城で、仲間達はどれも最初の一撃で半死半生にされていた。
だから男は長きに渡って会得した技を駆使してどうにか魔王と渡り合ったのだ。
あの時の思いが蘇る。
激しく打ち鳴らされる鼓動は、女を抱くことなどとは比べものにならないほどの快楽をもたらしている。
全身の細胞の全てが生を求めて足掻く瞬間。
一瞬ごとに更新されていく場面。
目に見える世界が切り替わる。
まるで生まれて初めて垣間見るかのような色鮮やかな景色。
少女は舞うように踊るように、異形の怪物が繰り出す攻撃を躱し潜り抜ける。
「小娘がっ! ちょこまかと!!」
「なあ、ベリアルとやら、儂は……俺は今めちゃくちゃ愉しいんだけどよ、アンタはそうじゃないのかい?」
怒りに任せて咆吼する怪物に少女は問い掛ける。
またもや拳が飛んできてルナの残像を打ち貫いた。
「ぬかせぇ!!!」
「そうか楽しくないのか。だったらアンタにも楽しんで貰えるよう、頑張らなきゃなあ」
――桜心流氣術、獅子吼っ!!
再び振り上げ打ち下ろされた拳を紙一重で躱すと床が破壊されるかどうかのタイミングで腕関節めがけて併せた両手を押し出した。
バクンッ、と派手な音と共に本来曲がるはずの無い角度に折れた腕。
ベリアルの口から絶叫が迸る。
激痛に仰け反る体躯は、しかし息を整える間も与えられない。
逆向きに捻れた腕を伝い駆け上がる少女。
肩口で跳躍して大きな頭部に舞い降りたところで、ルナは己が拳を手合いの眉間へと押し当てた。
――桜心流氣術、虎砲っ!!
ゴッ!!
瞬間的に発生した数百トンの衝撃が異形の頭部を陥没させ、体ごと仰向けにひっくり返る。
ズズンッ、と音を立てた奴の五体。濛々舞い上がる埃。
一方で少女は自らの放った拳の勢いを逃がすように遙か後方へと自ら跳び、それから再びの強襲。床を蹴って倒れている怪物の頭部へとカッ飛んでいく。
「ぬかったな!!」
「なにぃ!?」
ベリアルは鰐の如き顎門を大開きして待ち構えていた。
喉奥から漏れ出す青白い光。
「死ねぇ!!」
キュバッ!!
輝く息。
轟音と共に放たれた光の束が天井を破壊し、その上にあった廃教会さえ粉々にする。
ブレスが治まったときには天井に巨大な穴が開いていた。
「くくくっ! ふはははっ!! どうだ小娘!! 我を愚弄した罪は万死に値するのだ!!」
異形の哄笑がこだまする。
しかし魔物の笑い声は、他の笑い声を聞きつけたところで鳴り止んだ。
「あっはっはっはっ!! 凄いなお前! ブレスか! 見ろよ天井にでかい穴が開いてんじゃねえか!!」
「きっ、きさまぁぁ!!!」
倒れた格好のベリアルの胸の上で、鋼色の髪を乱して大笑いする少女。
天井を仰ぎ見ていた目がギロリとベリアルを見た。
「なあ、愉しいだろ? こうやって殺し合いしてる瞬間が、すっげえ愉しいよなあ?」
「貴様……何者だ……」
「見たまんま、7歳の小娘さ」
ベリアルが呻く。
この瞬間、魔物の目に映ったのは、人間の形をしただけの“なにか”だった。
腹の底から湧き上がる未知の感情が、全力で逃亡を促している。
しかし四天王の一角を担っているという自負と矜恃により、ベリアルは己が感情を無視する。
「それで、次は一体何をみせてくれるんだい?」
「ぬかせぇ!!!」
余裕綽々の音色が逆鱗に触れたかのように、背にあったコウモリのような翼をバンバンッとばたつかせて起き上がる。
少女は慌てて飛び退き床に着地する。
「小娘ぇ! もはや貴様を人間とは思わん! 全身全霊を賭けて葬ってくれる!!」
ベリアルは拉げた顔面もそのままに、起き上がった途端に翼で大きく宙を掻きその巨体を浮き上がらせた。
「お?」
ブレスを浴びて崩落し始める天井。
魔物は開いた穴へと我が身を踊らせ、地下空間から脱出する。
直上からブレスを吐けば逃げ道は無かろうと踏んで。
「させるかよ」
――桜心流氣術、雷甲!
ドギャアァァ!
地下に開いた風穴から、ベリアルを追い掛けるようにして紫電を纏いし一筋の光がやってきて、振り返ろうと身を捻った魔物の脇腹に突き刺さる。
「ぐほばぁ?!」
鰐の顎門から大量の体液が吹きこぼれる。
脇腹に吸い込まれた光の刃が貫通して肩口へと抜けていった。
「あ……ごぁ……」
声にならない悲鳴と共に墜落。地面に叩き付けられたベリアル。
そこではまだ騎士達が黒輪郭どもと戦っており、しかし頭上から降ってきた巨体に驚いて動きを止めていた。
「ああ、悪いな、手加減したつもりだったんだが、お前さんがあまりに脆弱すぎて貫通しちまったよ」
悪びれた様子もなく数メートル離れた位置に降り立ったルナ。
髪を括っていた紐が解けてハラリと背に流れ落ちる。
「さてと、そろそろ終いにしないか? 俺としちゃあ、お前の実力も分かってきたし、弱い者虐めは趣味じゃないんだ」
7歳の少女が、小っちゃくて可愛らしい手をグッパッと開いてみせる。
痛恨の一撃を貰ったベリアルはしかし、怨嗟に塗れた唸り声と共に身を起こし、まだ己が体液が止まっていない大口を開いた。
「またそれか。じゃあ、折角だし付き合ってやるよ」
少女は告げて己が両手を組んで胸の前にかざし、それから腰を落とすのと同時に後ろへと振り回す。
――桜心流氣術、
ブンッ、とルナの両掌の内側に光が灯った。
青白い光は周囲からも同様の光の粒子を呼び集め大きくなる。
「功ぅおぉぉ……」
ブゥゥゥ……ン。
青白い光が更に更にと巨大になっていく。
「龍うぅぅぅ…………」
ズゴゴゴゴゴゴ――。
光が天井知らずに膨れ上がっていく。
青白い光はある時点を境に黄金色をした光へと色合いを変えた。
――“氣”とは人体から発せられる動的エネルギー。
このエネルギーには臨界点があって、越えた時点から物質化が行われ、更に膨張すると今度は核分裂反応にも似た超高密度にして超高温のエネルギー体へと性質変化する。
ならばこのエネルギーに方向を決めて押し出せばどうなるのか。
答えは明白、指向性により破壊力の増した特大の熱線が発生、標的に向けて撃ち出される結果になる。
それはまさしく、神も悪魔も区別なく容赦なく討ち滅ぼす破壊の矢。
かつて魔王でさえも一撃の下に葬り去った極大の攻撃力が、目一杯に開いた顎門より熱線を吐き出そうとするベリアルを標的として狙い定めていた。
「――波ああぁあぁあああああっ!!!!!」
全ての音が轟音に掻き消された。
少女の開いた掌から放たれた黄金色をした光の柱。
異形の放った光線など瞬時に消し飛ばし、人間なんぞ踏み潰して終わるに違いない体躯すら根こそぎ砕き塵芥と帰してゆく。
魔王軍の四天王。
そんな肩書きを持っていたはずの魔物が、為す術なく、蘇生も再生も許されぬまま、この世から消滅した瞬間である。
――そして光を撃ち終えた少女は、余韻に浸るように暫しそのまま虚空を見つめていた。