019:レイナと試練の洞窟⑧ ダルシスくんの場合
巨大な円柱状の空間、どちらかと言えば闘技場を思わせる玄室で、ダルシスは大きく息を吐き出すと片膝付いた格好から立ち上がる。
(くくっ……やっぱ俺は弱えんだな)
やるせない気持ちが腹の奥底に渦巻いていた。
二年前より青年はルナを師として修行に打ち込む事としている。
父の名はベレイ・ウォーレス。家格は子爵だが、代々の当主は国王陛下直轄の近衛騎士団を取り纏める騎士団長の任に就いており、故にダルシスも将来的には父の跡を継ぐ事になるだろうとタカを括っていた。
けれど、師としたルナの圧倒的な強さを実感するにつれて、同時に己が非力さ矮小さを思い知るほどに自分如きに近衛騎士など務まる筈が無いと思うようになっていた。
現に今しがた存在していた痕跡さえ残さずに消え失せた年の頃10やそこらの幼女を前にして全身が金縛りにでも遭ったように硬直し、脂汗を垂れ流すといった醜態を晒していたじゃあないか。
二年間の修行は、それはもう強烈な代物だった。
経験積みと称してダンジョンに放り込まれた時なんて本気で死を覚悟した程だし。
また幼馴染みで婚約者でもあるクリスティーヌの方が自分などより余程筋が良いとか言われてしまえばもう絶望感に打ち拉がれるしか無かった。
(でも、でもよぉ……、だからといって逃げ出すなんてガラじゃあないんだわ)
ダルシスは得物としている剣を正眼に構える。
仰ぎ見る先に佇むのは身の丈3メートルはあろうかという巨大な黒狼。
そいつは瞳孔の無い真っ赤な眼で四人を見つめ、ニタァ、と大きく裂けた口を歪めている。
どこからどう見たって邪悪という言葉を形にしたような代物だ。
ヤツから放たれている凄まじいまでの敵意と殺意が男に全身の毛が逆立つが如き感覚を想起させている。
「いいぜぇ、戦ってやんよ!」
苦しい時ほどニヤリと嗤え。
命の続く限り立ち続け抗い続けろ。
そうすりゃ気付けば生き残ってるもんさ。
ルナ老師から教わった言葉が脳裏を掠める。
だから青年はニヤリと笑んで見せた。
「いくぜオラァ!!」
得物としている剣は通常の片手剣よりも長くて肉厚。両手でも扱えるよう持ち手の部分が長くなっており、それは防御よりも攻撃を主体とする戦闘スタイルを如実に言い表している。
そして本来のウォーレス子爵家に伝わる剣術に桜心流氣術を加えた闘法はダルシス独自の物と言えた。
――桜心流剣術、功刃斬っ!
刀身に氣を纏わせて振るう。
それは技と言えるほど込み入ったものではないのだけれども“桜心流剣術”を名乗りたいが故に命名したに過ぎない。
“氣”を纏った刃は強度も切れ味も増す。
厳密に言えば似て非なるものなのだが一種の魔法剣なのだから当然と言えばその通り。
原理的には氣によって標的を切り裂くのだから実体の無い悪霊だって斬れるし武装しただけの普通の人間が相手なら盾ごと剣ごと切り裂く事ができた。
ガキャンッ!
「くっ……!?」
だが青年の身の丈など優に超えている巨狼の肉体は傷つかない。
獣の全身を覆う真っ黒な体毛の一本すら切り裂く事ができず、簡単に弾かれてしまう。
『ガウッ』
ズシャッ!
「ごっ、は……!!」
行われた反撃は前足による薙ぎ払いだった。
ダルシスの体は真横に吹っ飛ばされ、宙を舞っては床へと墜ちる。
咄嗟に氣でガードした筈なのに意識が飛んで白目を剥いていた。
「ダルシス様!!」
視界の奥で金髪少女が叫んでいるのが見える。
(ヤベぇ、気絶しちまった)
現実に引き戻された青年は次の攻撃に備えて立ち上がろうとする。
けれど全身が痺れて指の一本を動かすのがせいぜい。
人間に限らず生き物というものは体の芯の部分に衝撃を受けると直ぐさま反応することが出来なくなる。
だから防御するときはまず頭頂部から股間に掛けての急所が密集する中核部分を守る事を第一としなければいけない。と、これはルナ老師の教えである。
(こりゃあ後で地獄の特訓コースだな、っと)
受け身も取れずに意識を失うなどは論外。三下のドサンピンと嘲笑されても文句言えない。
一撃の下に地ベタを這いつくばる格好にさせられた我が身の無力さに内心で毒づきながら、それでもダルシスは気合いを入れ直し立ち上がろうとする。
この時になって気付いたが、自分の手はまだ剣の柄を握り絞めたままだった。
(俺ぁ弱いけど、それでも見下げ果てるにゃまだ早いって事か)
心がどうであれ体はまだ戦意を失っていない。
思った事を口に出そうとするものの言葉にならない。
喉元に熱いモノが迫り上がってきて、吐き出せば赤い液体だったからだ。
どうにか立ち上がって、ガクガクと痙攣している膝もそのままに駆け寄ろうかと逡巡している様子のレイナを手で制して、ダルシスは剣を肩に担ぐ。
紅髪の青年は口端から赤い筋を垂らしながら、それでもニヤリと笑んで見せた。
「ちったぁ格好つけさせろよ」
仲間達に向けて言葉を振り絞ると追撃するでもなくこちらの様子を窺っている黒狼へと向き直り腰を落とした。
「テメエは強え。俺じゃあどう足掻いたって太刀打ちできねえ。でもなあ、俺にだって意地ってもんがあンだよ!!」
ボンッ。
青年の全身から闘気が溢れ出す。
氣を巡らせた体は限界以上の膂力を絞り出す。
これこそが氣術の基本。
「おおおぉぉおおおおっ!!!!」
腹の底から吐き出した雄叫び。
双眸にギラリと殺意の光が宿る。
かつて弟子入りを志願した少年に老師は言った。
征くは修羅の道であると。
名もなき鬼となるまで、戦って戦って戦い尽くすしかできない化け物になるのだと。
「ああ、なってやるよ。修羅ってヤツになあ!!」
様々な思いが胸に去来する。
それらを併せ呑んで腹の底に沈める。
一瞬だけで良い。修羅の領域に足を踏み入れれば、ただそれだけで寿命を持って行かれるだろう。
それでも構わない。
足りないぶんは命を魂を雑巾みたいに力一杯に絞って補えば良い。
「ぃくぞぉぉっ!!!」
駆け出した。
凄まじい勢いで、体の限界なんざ簡単に超えた速度で、弦から放たれた矢の如く疾駆する。
黒狼が口から何かを吐き出すのが感じられて咄嗟に真横に跳ぶ。
瞬き一つの時間差で青年が足を踏み締めた床がボコリと陥没した。
ダルシスは回り込むように駆ける。
床の陥没が追い掛けてくる。
ここで一気に方向転換、黒狼へと一直線にカッ飛んでいく。
線の動きを急に点の動きへと変えれば脳が混乱して目で追うのにワンテンポ遅れる。
しかし高レベルの戦いである程、その一瞬は致命的になる。
弱者が強者を狩ろうと思うなら相手の隙を突かなければいけない。真正面から突っ込んでいくなどは考え無しの大馬鹿者の所業だと。
老師の教えを忠実に再現した時、ダルシスが持つ得物の切っ先の圏内に巨狼の体躯があった。
「ぜあぁぁっ!!!」
――桜心流剣術、掬い打ち!
肩に担いだ長剣を体全部を捻って床スレスレまで下げると一気に跳ね上げる。
切っ先が狼の顎を捉え、ガツンッと手応えを得るのと同時に割り開く。
狼の顎が縦に裂けて真っ黒な体液が盛大に飛び散る。
瞳孔の無い真っ赤な眼が驚愕に見開かれていた。
(チィッ……!!)
だが浅い。
あともう一寸、足の半歩分だけでも前に出ていれば結果は違ったかも知れない。
フェンリルなどと銘打たれた怪物は激痛に身を仰け反らせ、しかし死に至るダメージを負った様子も無く、高々と振り上げた前足にて力一杯に叩き付けた。
ベキャアッ!!
床が割れて陥没する。
叩いた前足と床に挟まれる格好のダルシスは、今度こそ全身の骨を砕かれ血液を撒き散らして動かなくなった。
「ダルシス様!!」
大魔導士の卵であると自身を評する少女が悲痛な声をあげても、今まさに死の国へと旅立たんとする青年の耳には届いていなかった。