048:昏い処にて
地響きらしき音が微かに鼓膜を震わせている。
何時の事なのか、或いは何処の風景なのか定かではない。
見上げるばかりの天井は薄暗く、しかし床一面に隙間無く敷き詰められた石床は光沢と共に淡く微かに光を放っている。
それは縦に長い空間だった。
フロアの奥は数段高い小上がりになっており、上に飾り気の無い、そのくせ異様な存在感を放つ石造りの玉座が据え付けられている。
玉座にはスーツ姿に漆黒マントを纏った黒髪の男が腰掛け足を組んでいるが目元を覆う黒い面具により頬から下の輪郭しか分からない。
そんな男の元へ、一人の女が靴音を響かせ歩いてくる。
瑠璃色の髪と純白ドレスその上に羽織った黒マントが特長ではあるが、男と同じ面具により目元を隠しているため美醜の程は分からない。
「ヘルート様、ただいま戻りました」
「ああ、お帰りフィアナ」
ドレスの女が僅かに腰を落として帰還を告げれば玉座の男が素っ気なく返す。
言葉は少なくとも互いの間に極めて強い信頼関係があることは漂う空気から容易に察する事ができた。
「報告を聞こうか」
「はい、十二神将の一人、“司馬”の捕縛に成功しました。また、その仲間である“轟鬼”は取り逃がし、現在捜索中です」
「そうか。では司馬……確か報告では老人だったか。彼と面会するとしよう」
「わかりました、ではその様に」
玉座の男は腰を上げようともしない。
即ち彼の言う面会とは「ここへ連れてこい」といった意味だ。
女は慇懃に頭を下げると「ここへ」と短く告げる。
するとフロアの奥からひょろ長い体型の面を被った男達に両脇を挟まれる格好で手を後ろで縛られた老人が進み出てきた。
老人は頭を剃り上げており、ボロ布と見紛うばかりの衣服を身につけている。
瑠璃色髪の女が小さく頷くと面具の徒は老人の手を封じている縄を解いた。
「まずは手荒な招待となった事を詫びよう。私は“ヘルート”、イルミナティを束ねる者だ。……貴様は?」
「ふんっ、極星十二神将が一柱、司馬じゃ」
老人は双眸に光を宿したまま、クワリと玉座を睨む。一瞬だけ玉座の上を仰ぎ見れば、最奥の壁に掛けられたタペストリーとそこに描かれた三角形の中に目のあるシンボルマークを発見する。
「……一つ、聞いておきたいのだが」
「む?」
そんな司馬の視線を強制的に戻させようとでも言うのか、玉座の上で足を組む男が己が指を立てる。
「貴様は今、“一柱”と自身を指して呼ばわった。だが柱とは本来“神”を数える時の言葉だ。これを己が身に対して使用すると言う事は、自分が神であると宣言しているにも等しい。……司馬よ、貴様は神なのか?」
まるで禅問答でもするかの如く、興味津々といった音色が響く。
そこには怒りなどは微塵も感じられず、ただ単純に疑問を口にしているだけといった様子である。
「ふんっ、儂如きが神であろう筈がなかろう。慣例じゃよ」
すると老人は面白くも無さそうに鼻を鳴らした。
黒面の男は何が面白いのか微かに口角を上げる。
「ああそうか、貴様らの主だった男、教皇ギゼル・ハイラントは神の座に手を伸ばしたもののなり損なった“欠陥品”だったな。欠陥品の部下ともなるとやはり尊大で傲慢だったということか」
納得したように嘯いたヘルートに、老人のこめかみに血管が浮く。
「ぬかせ!」
飛び出したのは老人だった。
激情に駆られた、と断ずるにしては動きが洗練されていた。
「イルミナティなどと言うから如何なる益荒男かと期待もしたが、茶番はもう止めじゃ! うぬは今ここで処断する!」
極星十二神将は神を守りその敵となる者を打ち倒すことを第一目的とした武術集団である。
老人は差し向けられてきた組織の人間達が恐るべき実力を持つ武道家である事を察した瞬間にはもう、直接首領のツラを拝み討ち取ることを考えていたのだ。
「ほう」
なのに男は玉座の上から感心したような声を出すばかり。
老人の動きは恐ろしく俊敏で、あっという間にヘルートのすぐ前まで迫った。
「ぬりゃああぁぁ!!」
――光明真拳、蛇貫節!
貫手にした手を突き出せば、腕が蛇のようにうねる。
光明真拳は教皇ギゼルが継承した白鳳流闘仙術の派生流派で、ある種の天才にしか修められない仙術をそこまで才能が無くても扱えるよう簡略化した武術と言える。
これだけ聞けば大した事が無いように思われるが、そうではない。
極めて難しい氣や聖神力の操作を後回しにして突きや蹴りといった攻撃手法に特化させているから単純な肉弾戦、暴力という意味ではこちらにこそ軍配が上がるのだ。
(殺った!!)
司馬の繰り出した貫手が黒面男の顔面を直撃する刹那。
或いは老夫が勝利を確信した瞬間に、急に視界が変わる。
「……な……に?!」
司馬は腕を突き出す格好のまま、小上がりの下に佇んでいた。
ハッとして見上げれば、やはり玉座に腰掛けた男が足を組みふんぞり返った姿勢で老人を見下ろしている。
何をされたのか理解が追いつかない。
「貴様、一体なにを……?!」
「おやおや、そんなところで何を一人で踊っているのかね?」
自然と口を突いた疑問には答えず、男は愉しげに口を歪める。
「それとも、我が従僕になりたいと懇願でもしているのか?」
「ひぃっ!?」
声は真後ろからあった。
超高速で動いたとしても司馬には目で追える自信があった。
だがそうじゃない。瞬きすらせずに彼の動向を注視していたにも関わらず、背中を取られたのだ。
ワケが分からない。気が触れてしまいそうだった。
「お前は慣例として柱と呼ばわると、そう言ったが。本物の神の前ではお前など小蠅と変わらんという事を教えてやろう」
ゴゴゴゴゴゴゴ――。
背中から聞こえる男の言葉。
深淵から這い出してくるような、背筋が凍るかと錯覚する音色。
老人は全身から汗が噴き出すのを感じた。
「例えば、こんなふうに」
「ぬあぁ?!」
トンッ、と肩を叩かれる感触。
同時に腕の感覚が根こそぎ失われた。
慌てて目を向ければ、自分の左肩から先が消失しているではないか。
なのに、それなのに、全く痛みを感じない。
更に身を捻って男の姿を視界に捉えようとした矢先に、別の方から声を聞くことになった。
「何処を見ている。私はお前の目の前にいるのだぞ?」
真後ろにいた筈の輪郭が真正面にて佇んでいた。
その手が掴んでいるのは紛れもなく自身の腕。
腕の切り口は赤いが血が一滴も零れていない。
ゾワッと司馬の背中一面が粟立つ。
「くくくっ、……羽虫の分際で私の前に立つなど不敬だ。膝を付き頭を垂れよ」
ズンッ。
何か途轍もない重圧が上から降り注いできて、司馬は思わず床石の上に膝を付き這いつくばる格好になってしまう。
「貴様……妖しげな術を……」
「羽虫の鳴き声は不快だ。その口を閉じろ」
「むぐぅ?!」
面具の穴から見える双眸が恐ろしいまでの冷たさを帯びた。
途端に老人は言葉を発することができなくなっていた。
逃げ出す事も助けを呼ぶことも出来なくなっていた老人は、それでも目を上げ睨み付けようとする。
その瞳孔にハラリと黒い羽根が映り込んだ。
「……っ!!」
男の背に十二対25枚の漆黒の翼が生えだしていた。
その頭上に十枚の真っ黒な輪っかが浮かんでいる。
男の瞳から血のように真っ赤な光が漏れ出ていた。
「傲慢にして欲深き虫けらよ。本当なら我が前に立つことすら万死に値する。しかし私は寛大だ。お前の器と魂その全てを捧げるのであれば赦してやろう」
老人は声を発することも出来ないまま、ただ我が身を震わせることしかできない。
恐怖しかなかった。絶望しか見当たらなかった。
これは人が触れて良いものではない。
本能が己が死を予見しているかに思われた。
黒翼の男は手を伸ばし、床に這っている老人の額に指先で触れる。
ヌルリと感触があって、指が根元まで埋まった。
「司馬よ。たった今から貴様は私の傀儡だ。せいぜい楽しませろ」
「ぁ……がっ!!」
男の手が離れる。しかし指は四本しか無かった。
一本は自分の脳みその中へと滑り込んでいったのだ。
喉から声にならない悲鳴が絞り出され。
目がグルリと回った。
老人の意識はここで途絶えた。
やがて起き上がった老人は、もうそれまでとは別人になっていた。
「いと尊き暗黒の神よ。どうぞ卑しくも憐れなるこの身にお言葉を賜りたく存じまする」
老人は傅く姿勢で謳う。
再び玉座に腰を落とした男は愉快そうに唇を歪めて言葉を発する。
「ならば虫けらよ、貴様に命令をしてやろう。グランスヴェール魔法学園に赴き、女神を、我が伴侶とすべき少女を捕らえ、私の前に連れてくるのだ。貴様はその為に生き、その為に死ね」
「仰せのままに。我が神よ」
足を組みふんぞり返る男が告げれば老夫は床に額を打ち付ける勢いで頭を下げ、それから立ち上がり踵を返す。
「フィアナ」
男は一連の遣り取りを静かに見守っていた白ドレス黒マントの女にも目を向ける。
「君も付いていけ。ジジイだけでは心許ない」
「畏まりました、我が君」
女は会釈ほどだけ頭を下げ、先行する老人を追うように玉座から遠退いていく。
彼女が如何なる思惑であるかなど誰にも分からない。
「神が娶るべきは神。ならば我が妻とすべきは一柱をおいて他にはなかろう?」
問い掛けなのか、或いは確信しているのか。
他に誰も居なくなった堂内の空気を、微かな言葉が震わせていた。
――13歳編・完――
なお、司馬と轟鬼は7歳編の11話冒頭で出てきた三人組の内の二人です。
あと一人の女については次章で登場します。
というワケで次章は15歳編つまり学園生活一年目編です。