039:教皇② その手に刃を
夜の帳が降りる頃、森の中を国境を越えて前進する影の群れがあった。
鉄の擦り合わされる音を響かせる人間どもは、列を成す兵士達。
或いはそれは死に臨む火葬行列。
息遣いにはもうじき訪れるであろう鉄火場に充満する死の臭いを嗅ぎ取ってか幾ばくかの熱量が籠もっていた。
槍を持つ手にも、馬の手綱を握る指先にも、否応なく力が込められる。
吐く息は微かに白く、外気の低さを物語っていた。
今は兵士の一員として歩く男達。しかし大半は平時であれば集落の民家の傍にある畑を耕す農夫である。
もしかしたら農夫なのだからほったらかしにしてきた畑が気になって戦に集中できないのではなかろうかと、そう危惧するかも知れない。
だが事実は違うのだ。
貧しい農夫であれば尚のこと殺戮に狂う瞬間に期待し、或いは略奪し女を陵辱する妄想にイチモツをいきり立たせている。
なぜなら戦働きは金になるし、戦火に焼け落ちた農村で行われる非道な行為ともなれば誰も咎めることをしないから。
殺したいように殺し、犯したいように犯し、奪いたいよう奪い尽くす。
これが許されるのが戦場であり、戦時下においては正義の蹂躙なのだ。
彼らが信仰する聖導の教えでは、異教徒は例外なく地獄の苦しみを与えて殺さなければならない。
だから殺す。
殺して殺して殺し尽くす。
正義のために殺す。
男も女も、老人も赤ん坊でさえ、容赦無く弓で射り、槍を突き立て、剣を振り下ろす。
人間は正義の御旗を掲げてさえいれば際限なく残忍になれる生き物で。
倫理とか情とか遵法精神なんてものは、為政者の曰う大義を前にすればたちまち色褪せ意味を失う。
兵士は戦場に到着する頃にはもう狂っているのだ。
行軍する中には、或いは殺伐とした真っ赤な世界に怯え厭う者だってあるやも知れぬ。
しかしそれだって突撃の号令が発せられ我が足を前に出した瞬間には綺麗さっぱり掻き消えて、獰猛な殺意に背中を押されて駆けるばかりであろう。
戦争とはそういったものだから。
殺されてしまうのが嫌なら殺すしか無い。
例えそれら有象無象の衆の生き死にが、国を動かす一部の権力者達の欲望に根ざしたものであったとしても、それらに己が戦う理由を委ねてしまっている底無しの馬鹿どもなれば、もはや言われるままに殺し、望まれるままに人的資源として消費されるしか手立てが無い。
国の言いなりになって死ぬも、国の命に背き逆賊として殺されてしまうにしたって、己が死には何ら違いなど無いというのに。
「もうじき村が見えてくるはずだ。まずはそこで……」
集団の先頭にて馬に跨がる鉄鎧が舌舐めずりしながら声に出す。
若い娘は陵辱して殺す。老人と男は五体を切り刻んで殺す。
年端もいかない子供であれば後で奴隷として売る事もあるだろうから殺さないでおいてやろう。
金品と食料は全て収奪する。一人として生きていない集落にそういった物は必要ないだろうから。
指揮官はそんなことを考えながら馬を前へと追いやっていく。
アルフィリア王国の北側と隣接するピジアン王国が派兵を決定したのはつい先月のこと。
国王バーカライト・ウェンダルソンは聖導教の熱心な信者でもあり、他三国が兵を出し渋りするのを尻目にいち早く教皇に命令されるまま一万もの兵を編成、王都パルーを出発した。
進軍しているのは2000名からなる先鋒部隊で威力偵察を主任務としている。
それは言い換えるなら、進路上にある集落は奪略し放題といった意味でもある。
指揮官となる男は、だからこそ自ら志願し軍を率いているのだ。
「……ん?」
もうじき森を抜ける頃合い。
指揮官はふと空を見上げて怪訝そうな声を出す。
一瞬だけ夜空に瞬く星々の光が遮られたかに思われたから。
けれど気のせいだったかと肩の力を抜いた。
与えられている事前情報によると敵アルフィリア王国軍にはまだ試験的ながら空からの攻撃を行う部隊が新設されたらしい。
だが男はその情報を眉唾物として捉えていた。
実際にこの目で見ていない物を信用して兵を動かすのは愚鈍のする事だと決めて掛かっていた節もある。
故に男は地上戦のみを考えて、森を突っ切って来た。
遮蔽物の多い森の中であれば松明で周囲を照らしても勘付かれる可能性は低い。
物音だって、余程の大きな声や鉄を打ち鳴らしでもしない限りは分からないだろう。
人馬の移動する音なんてたかが知れている。
だから指揮官は大した危機感も抱かずにここまで兵を進めてきた。
「森を抜けたか……、全軍警戒せよ!」
男は後ろに付き従う兵達に声を掛ける。
いや、この時点で奇襲を掛ける側としてはダメな動作なのだが男はそれにすら気付いていない。
森を抜ければ視界が一気に開けて何も無い草原地帯が広がっていた。
目を凝らせば視界のずっと奥の方に明かりの点々が密集する地域がある。
最寄りの集落だと思って兵達に尚も前進せよと号令を掛けた。
――ボンッ、ボボボボッ。
そんな折り、微かな爆発音と共に闇夜の奥で光が浮かんだ。
何だろうと首を傾げていると「ヒュルルルル……」なんて風切り音にしては妙な音色が辺りに響き渡って。
それから数秒の後に四方八方で耳をつんざく爆発音が炸裂する。
「な、何事だ?!」
「敵襲うぅぅぅ!!」
部隊が一瞬にして恐慌に飲まれる。
跨がっていた馬が狂ったように暴れて指揮官は振り落とされる。
視界も利かない中で兵士達は状況も分からないまま逃げ惑い森の中へと引き返そうとする。
――ズドドドドドッ!!!
しかし逃がさないとばかりに森の奥の方からも爆発音がやって来た。
ギャーとかワーとかそこかしこで悲鳴を上げている兵士達。
「馬鹿な! 回り込まれていただと?!」
有り得ない。
自分たちは来る途中で敵と遭遇なんてしていないし敵部隊を発見したなんて報告も無かった。
なのに何だこの有り様は。
前から後ろからと追い立てられるように爆発音がやって来て、ワケも分からないまま兵士達が次々飲み込まれていく。
闇夜に乗じての奇襲は、この時点で失敗していた。
情報が漏れていたのか? とか、どうやって撤退しようか、といった事を考えるにしても遅すぎる。
落馬して地面の上で藻掻く指揮官は、刻一刻と吹き消されていく部下達の命なんて見向きもせずに自分だけでも逃げ果せようとする。
アルフィリア王国軍の内情を言えば砲兵部隊――蓬莱の技術を研究、新式の大砲を試作し専門で取り扱う兵科として部隊を新設した――を航空部隊200名の運搬力で国境沿いに配備、手ぐすね引いて待ち構えていたところへ能天気に飛び込んできた野ウサギの群れを試射と称して狙い打ちしたに過ぎないのだが、未だ頭の中が中世の戦争知識で凝り固まっている男に理解などできようはずもなく。
また先行した航空戦闘部隊から榴弾砲の雨を降らされ後続の部隊がものの数分で壊滅していても闇夜にあっては推し量る術すら持たず。
こうしてあっという間に全滅に近い格好となったピジアン王国軍の先鋒部隊は潰走し、命からがら逃げ帰った幸運な兵達にしたって敵軍に関する有用な情報を持ち帰る事も出来ずじまい。
それでも8000もの本隊は進軍を取り止めること無く、ゆっくりと、だが確実に戦場を目指していた。