036:修羅道にご招待② もっとがんばれダルシス君
――ダルシス・ウォーレス少年の朝は早い。
バシャアァ!
「ごぶぁ?!」
ベッドの上で泥のように眠っていた少年は突然に桶いっぱいの水をぶっ掛けられて起床。何事かと身を起こして見回す。
「あらあら、もう朝日が顔を出していますわ。一体いつまで寝ているつもりなのかしら?」
「い、いきなり何すんだこのクソ女っ!」
目の前では鋼色髪のすんげぇ美少女が仁王立ちしており、その足下に転がっている桶を見なくとも誰が自分を水浸しにしたのかすぐに分かる。
ルナ・ベル・ディザーク。
とんでもねえクソ女だ。
ダルシス少年は激昂してベッドから飛び出すと無謀にも殴り掛かっていく。
ゴスッ!
「おごぅ?!」
しかし振りかぶった拳が相手の頬を殴りつける前に鳩尾に膝を叩き込まれて体をくの字に折って空っぽの胃の中身をそれでも吐き出そうと蹲った。
「あらあら、随分と元気ね。昨日はしごき足りなかったかしら?」
悠長な物言いで微笑む。
少年には悪魔の微笑みにしか思われなかった。
「ち、ちきしょうっ!」
ダルシスには同い年の婚約者クリスティーヌちゃんがいる。
儚げで繊細で、ちょっと気の弱いところもあるけれど、それが逆に守ってあげなきゃっていう庇護欲を掻き立てる。
ダルシスはクリスが好きで、ずっと一緒にいられると思っていた。
家同士が取り決めた事ではあっても、それ以上に個人的に彼女に惚れているからだと幼いながらも理解している。
そして彼女にしたってダルシスを好いてくれていると態度で分かっていた。
それなのに。
クリスの気持ちが、ある日を境に少年から離れていくのが分かった。
何をしても上の空で、時々切なげな溜息を吐く。
あれはまさしく、恋する乙女の風体だ。
そして彼女の中に芽生えたのであろう恋心は間違い無くダルシスには向けられていなかった。
『ルナお姉様はこういったお花が好きかしら?』『ルナお姉様は気に入って下さるかしら?』『ルナお姉様は……』『ルナお姉様♡』。
口を開けばいつだってその名前が口を突いて出る。
そうか。あいつが。
あの女がクリスを誑かし虜にした諸悪の根源か!
僻み根性丸出しでルナ侯爵令嬢の住まう家へと押し掛けていったのは、過去のデビュタント・パーティーにて招待されているとも取れる事を言われたから、この機に乗じて糾弾し、腹いせに虐めてやろうと思っていたからだ。
なのにこの状況は一体何なのか?!
朝になったら水をぶっ掛けられて起こされて、無理矢理にでもメシを食えとせっつかれ、痙攣しがちな胃袋にどうにか物を詰め込んだかと思えば胴着に着替えさせられ修練場へと引きずっていかれ、地獄のような修練が始まる。
ひたすら走って筋力トレーニング。
胃の中身を吐いて、意識を失って地面に倒れても桶に入った水をぶっ掛けられて走らされる。
「世にある全ての武術において基礎は最も重要な行程だ。基礎を蔑ろにする武人は絶対に大成などせん。ほら、分かったら走れ。このウスノロ!」
「ちっきしょぅ!」
涼しい顔で汗一つ掻かずに併走するクソ女からそんなことを言われてしまった。
頭に血が上るのは分かったが、それでも息も絶え絶えに吠えて足を前に出す。
午前中、二時間ほど走った頃合いでぶち切れて伴走するルナ嬢に殴り掛かった。
けれど突き出した拳は簡単にいなされ、足払い一つで簡単に転がされたかと思えば頭を踏みつけられ囁かれてしまった。
「小僧。随分と余裕じゃないか。くくっ。良い事を教えてやろう。儂の趣味はな、お前のような無能の癖にプライドだけは一丁前の甘ったれたクソガキをとことんまで追い込んで一端の漢に矯正することさ。だからしょーもない真似してっと今度は生きるか死ぬかのギリギリまで追い込むことになんぜ?」
言葉遣いは既に由緒正しい家柄のご令嬢とは思えない粗暴な代物になっていた。
グリグリと側頭部を踏みにじられつつ、少年は「なんで俺がこんな目に」と半泣きでぼやく。
すると彼女はこう言った。
「儂は過去にこう言った。ウチに来れば百倍は強くなれるってな。そんな場所に来た以上はタダで帰れるワケねーだろ。つーか、甘やかされて育ったお坊ちゃんを百倍強くするなんて普通にやったんじゃ無理だろうから、ちょ~っぴりキツい修行になるなんて考えなくても分かんだろーが。嫌だというなら儂を倒してみろ。それができたら勘弁してやる」
ルナお嬢様は悪辣だった。
ダルシス少年は既に折れかかっている気持ちを奮い立たせて「くそったれ!」と連呼しつつ走り続けるのだった。
そういったトレーニング諸々が一区切りしたかと思えば今度は訓練用の木剣を握らされての打ち合い稽古。
ルナは自分では「儂の得意分野は素手で、剣だの槍だのはそんな得意じゃないんだよ」なんて言いながら、剣士の家に生まれたダルシスを余裕で圧倒していた。
最初の頃などは痛めつけてやろうと本気で切り掛かったものだが、全く相手にならなかった。
躱され、いなされ、もしくは木剣の切っ先が振り抜かれる前に全身を殴打されて地面に這いつくばる。
ボロボロになったらその頃に家にやって来る聖女マリアが「心得てます」とでも言いたげな顔で駆け寄ってきて有無を言わせず癒やしの奇跡を発動し全快させる。
エンドレスで続くかと思われた稽古がひとまず終わったかと思えばまた走って筋トレ走って筋トレ走って筋トレ。
休憩だぁ! と思った次の瞬間には木剣を持たされ打ち込み稽古。
いつの間にかクリスまで参加していて、二人してボロ雑巾にされる。
もう指一本動かせないといった頃合いでの夕食ともなれば、吐き気と胃のよじれる感覚とで肉も野菜も喉を通らない。
それでも無理矢理に咀嚼し飲み下す。
そうしないと次の日にはぶっ倒れて死んでしまうに違いないと本能が理解していたからだ。
(俺、死ぬかも知れねえ……)
滞在三日目の夜、ベッドの上で意識を失う直前に思ったのはそんな事だった。
そして四日目、まだ辺りが暗い内から桶に入った水をぶっ掛けられて目を覚ます。
本日はマリア男爵令嬢とアリサ伯爵令嬢とが朝から一緒だった。
「おらー! 気合い入れて走りやがれクソザコ!」
アリサ嬢はめちゃくちゃ気が強くて喧嘩っ早いご令嬢で、知らない間に“クソザコ”なんて呼ばれるようになっていた。
ムカついたがそれでも必死で走る。突っ掛かっても秒で倒されてしまうのが分かったからだ。
一緒に走っているマリア嬢は物腰こそ柔らかく優しげに見えるけれど怒らせると本当に恐ろしいタイプの女性であると、絶対に逆らうなと本能が警鐘を鳴らしている。
そろそろ百回に到達しようかといった打ち合い稽古で三人と自分の実力差がおおよそながら把握できるようになっていた。
最初の頃こそルナとマンツーマンだったが、途中からお嬢様二人も稽古に加わるようになったのだ。
マリア嬢は単純な武力では一番弱い。けれど癒やしの奇跡などの神聖系魔法と光属性魔法を扱うから何でも有りでやり合うなら恐ろしく強い。
次にアリサ嬢は拳法使いと言いながら炎系魔法を拳に乗せてくるから油断するしないに関わらず火攻めにされてしまう。現に一回は全身を燃やされてしまった。
そしてルナ嬢は、もう魔王じゃねえかってくらいに強い。ワケが分からないレベルで強い。
パンチ一発で離れた位置にある壁が粉々になるのを見て背筋がゾゾッとしたものだ。
なんて、上から目線で三者を分析してみるものの、この三名の内の一人とも互角の戦いなんてできやしない我が身の無力さよ。
確かに自分はクソザコなのだと思い知らされる今日この頃である。
四日目が過ぎ、五日目が過ぎ、一週間が過ぎた。
全身が筋肉痛で立つのも辛いが、だからといって修行を免除して貰えるなんてワケも無く、本日も延々と走らされ、延々と筋トレし、延々と打ち込み稽古させられる。
「小僧、お前ホントに才能無いんだな。流石の儂も呆れたぞ」
稽古する中でルナに真顔で呆れられた。
なぜ彼女が呆れているのかと言えば、ダルシスよりも修行している時間が圧倒的に短いはずのクリスが一週間修行しただけで空を飛べるようになっていたからだ。
少年が死にかけながら走っている間、殆ど修練場の隅っこで座っていただけの婚約者が、どうして自分よりも先に何かを会得しているのか。
全く納得いかない。
「お、俺だって一生懸命やってるんだよ!」
なので必死に抗議する。
ダルシスの弁明はしかしルナお嬢様には全く響かない。
「一生懸命やってると言って本当に一生懸命だったヤツなんていない。やってるヤツってのは我を忘れて没頭してるから一生懸命にやってるって自覚すら無えよ!」
言論で封殺されてしまう少年。
本当に泣きそうだ。
でも予定だと明日には家に帰れる。
この地獄から解放されると思えば気は楽だった。
「……チッ。気ぃ緩めやがって」
今にも死にそうな顔を取り繕っているものの内心じゃあ少々浮かれていた。
そんなダルシスの性根を見透かしたようにルナが舌打ちする。
何とでも言いやがれクソ女。
俺は明日の今ごろともなれば帰りの馬車の中。
てめえとは金輪際関わり合いにもならねえよ!
なんて内心で舌を出すダルシス少年。
事件が起きたのは、もう何周したのかも分からない修練場で腕立て伏せをしている時のことだった。