馬鹿にするのもいい加減に
「軽食なんか用意しちゃいけなかったのね。もっとがっつりにするべきでした」
「だね。俺は無駄飯ぐらいなんだ」
伯爵家で用意したバスケットの中身は一瞬にして消え去り、レティシアは美貌の騎士の健啖ぶりに感嘆するばかりである。
レティシアは軽くと厨房に頼んだが、伯爵家の料理人は彼女の父も兄達のこともよくわかっているし、王都に上京した時のダーレンなど他のドラゴネシアの胃袋具合も知っている。
結果、バスケットの中にはかなりの食料が入っていたにもかかわらず、それらはあっという間にギランの胃の中に消費されてしまったのだ。
「あ、ああ。君は食べられなかった、かな?」
「食べるのを忘れていたわ。あなたって美味しそうに食べるのね」
ギランが顔を真っ赤にした。
その顔も可愛らしいとレティシアは笑う。
ギランが肉を挟んだパンに齧りつく姿は、幼い頃の兄達や従兄達の姿を思い出させ、レティシアからギランへの好感度を無条件で上げたのだ。
そのために彼女は無防備にもなっていた。
ギランの頬についた小さなジャムの雫を、兄の子供にしてあげるようにして、レティシアは指先で拭ってしまったのだ。
ギランの肌は柔らかかった。
繊細な筋肉と張りのある男性の肌は固いはずだと思い込んでいたため、レティシアはその感触に驚き、そしてのめり込んでしまった。
レティシアは、ギランの頬をそのまま指先でなぞってしまったのだ。
ギランこそ、レティシアに触れられたそこで、うっとりと両目を瞑る。
彼は瞼を閉じただけでなく、自分の頬をなぞるレティシアの手をぎゅっと握り、さらに自分の頬にレティシアの手を押しつけた。
ギランはゆっくりと瞼をあけてレティシアを見つめる。
そして、見つめながらレティシアの手を自分の口元へと持っていく。
「はふっ」
手の平に柔らかなギランの唇を感じた。
レティシアはギランの行為を破廉恥だと止めるべきなのに、もっと受け入れたい感じたいと思うばかりで、両目を瞑ってしまった。
暗闇の中で、今度はギランの唇を指先に感じる。
びくっと震えるほどに感じた。
指先を軽く齧られたのだ。
その瞬間、レティシアの瞼の裏に白いスパークがパッと散った。
びっくりした彼女は、ぱっと両目を見開く。
ギランの顔はほんの少し傾けられ、すでに彼女の顔のすぐ前にある。
彼が顔を傾けているのは、レティシアの唇に自分の唇を重ねるためだ。
レティシアは両目を瞑った。
「取り返しのつかないことをするな。ジュリアーノ・ギラン」
レティシアは兄の声に瞼をあけた。
双子の兄は王都の端までダーレンの馬車の護衛をする予定だったのでは無いのかと振り向けば、声の通りにレティシアの兄がそこにいた。
そしてレティシアは目の前の兄に対して、彼がルーファスなのかレンフォードなのか悩み、兄に呼びかけることを躊躇ってしまった。
「どちらのお兄さん?」
「ごめんなさい。私も今考えてます。二人並んだ方がわかりやすくて」
「ルーファスだ!!お前ら、今すぐに離れろ!!」
ルーファスに離れろと叫ばれ、レティシアはようやく自分の状態に気が付いて、びくっと体を震わせた。
彼女の右手がギランの左手に掴まれたままなのはレティシアも知っていたことだが、ギランの右腕が彼女の腰に回されているという、目を瞑る前よりも親密度が高くなっているとは知らなかったのである。
「どうして離れない」
ギランがレティシアを離さないからだ。
彼はレティシアを抱く手も、握る手にも、力を込めた。
「妹を守れるものを何も持たない男が何をしている?」
ルーファスが出す声は、レティシアが今まで聞いた事など無い声だった。
人を見下し、そのまま踏みつけてしまいそうな、冷たくて高慢な声であった。
レティシアはぞっとして、左手に拳を握る。
握った手の平は固い布地をさらに掴み、レティシアは自分こそ瞼を閉じてからギランのジャケットの前立てを握っていたのだと知った。
けれど、破廉恥、などとは全く思わなかった。
なぜか、これが正しい、としか思えないのである。
「お兄様」
「お前は何度同じような男に騙されれば気がつく?我が家の財産狙いの男ばかりではないか」
「この方は違います!!ジーノは、ギランは財産狙いじゃ無いわ」
「ええ。そうです。この振る舞いは確かにレティシアに対して軽率でした。ですが、俺は財産など一度も考えておりません」
「では、遊びか?リカエルの言う通りだ。俺一人でも引き返してきて良かった。華々しい死を望む?そんなおかしな美学でドラゴネシアを利用しようとする奴に妹を好きにさせるか!!」
ルーファスは数歩でレティシアとギランのもとに辿り着くと、レティシアの襟元を掴み持ち上げながら、彼女を抱くギランに蹴り込んだ。
「ジーノ!!」
「我が家に二度と近づくな!!妹を食いものになど二度とさせん!!」
「ひどい!!お兄様はひどいわ!!ジーノ!!ジーノ!!大丈夫なの!!」
「――申し訳ありませんでした」
兄の腕の中で暴れていたレティシアは、ギランの悲痛な声に動きを止めた。
ギランはルーファスに蹴られてレティシアを奪われたその後は、地面に両手をついて額を地面に擦り付ける勢いで頭を下げているのである。
騎士ならば屈辱だろう姿だ。
「ジーノ。あなたがそんな姿になる必要など無いの」
だって、一生経験できない夢みたいなピクニックを、誰にも愛されない私に味合わせてくれたのよ?
「私はあなたに感謝ばかりよ」
「人の目のある所でキスをしようとした男に?こいつはプロポーズも無しにお前との結婚を成立させようとしたんだ。ちゃんとプロポーズしてきたアランの方がその点は評価できる」
ルーファスはさらにレティシアを引き寄せ、この場を去るために動き出す。
ギランは、レティシアの中では愛称のジーノでしかなくなった彼は、平伏した姿のまま、レティシアの兄に向かって謝罪の言葉を吐き出した。
「申し訳ありませんでした」
ギランの謝罪の声は、血反吐を吐いてしまいそうな、普段のギランとは違い過ぎる苦悶に満ちたものだった。
「これがこいつの真実だ。お前に愛など無いくせに――」
「夢でした。何も無い俺です。一日だけ夢を見たかっただけです」
ギランから吐き出された夢と言う単語に、レティシアから力が抜ける。
しかしそれが兄の腕からレティシアが抜け出すきっかけとなれた。
踏ん張ったのならばルーファスは対応できたが、レティシアが脱力した為に、妹を心配する兄の気持ちで手が緩んだのだ。さらにそこにかかった彼女の全体重に、ルーファスは対応できなかった。
レティシアはずどんと地面に尻餅をつく。そして兄に再び捕まえられる前に、彼女は兄から離れてギランへと飛び掛かっていた。
「レティシア!!」
「結婚します。私は彼と結婚します」
彼が自分を愛していなくとも、家族を得たいという同じ夢を持つ同士ならば、私は彼と結婚したい。
彼が私を愛していなくとも、私が彼を愛してしまったのだから。




