恋人みたいな夢の体験
「ザーベイン湖を眺められる場所が良いかな。それとも君は花に囲まれる場所が良いかな」
ギランはピクニックの目的地をどこにしようかとレティシアに尋ねたが、彼女は答えられずにはにかむしかできなくなった。
クラヴィス王立植物公園の案内板を前に、ギランの横にレティシアは立つ。
二人の立ち位置だけでも親密と言えるのに、ギランがレティシアにかける言葉はどれも気安く飾らない声で、レティシアはかえって反応してしまうのだ。
まるで恋人同士みたいだわ、と。
恋人と連れ立ってクラヴィス王立植物公園に行くことは乙女の夢だ。
もちろんレティシアとギランは婚約者でも恋人でもないが、レティシアは乙女の夢を体験していると感じていた。
公園の前までドラゴネシア伯爵家の馬車で来たので、二人で歩いている時間は入場口から真っ直ぐ歩くと園内案内板という、まだほんの十数歩分だけだが。
「じ、ジーノ」
「呼び難かったら、君が好きな名前を俺につけてくれ」
違う男性がこのようなセリフを言えば単に軽薄だと感じるが、レティシアは馬車の中でギランから聞いた彼の生い立ち話から、ギランを想って胸が痛んだ。
庶子である彼は、愛人である母の実家でひっそりと生まれたそうだ。
しかし彼女は出産時に亡くなり、誰も彼に名前を付けなかった事に彼の洗礼の日まで気が付かなかった。そこで洗礼に来た神父が、ジュリアーノと彼に名前をつけたのだという。
ギランの母親の名はジュリア・ギラン。
ジュリアーノはそのままジュリアの子という意味になるじゃないの。
現王だって先代王妃が国民に人気が高かったアルマだからアルマーノと名付けられたけれど、ギランにはなんて不幸な名付けなのかしら。
レティシアはギランを想うと辛いばかりだ。
「レティシア。俺が君に話したのは、君に同情されたり君を悲しませたりする目的じゃ無い。君に自分が誰なのか知って欲しいだけだ」
「ごめんなさい」
「君が謝ることじゃない。それから、君は自分を卑下するが、俺は君が目立たない事で救われたんだ。俺は君に話しかけたかった。君にだけに話しかけたかった。だが俺は一人で寂しそうにしている令嬢にしか声をかけてはいけない職務だ」
レティシアは顔を上げる。
ギランは少々悪そうに笑って見せる。
「君が似合わないドレスを着てくれていて良かったって思った。どうしようも無い男だろ?」
レティシアは吹き出していた。
みっともないドレスを着ていて嬉しかった、なんて国一番の人気者の人に言われるとは思っていなかったわ。
「光栄だわ。でも、ごめんなさい。王宮のパーティでは無いのに、今の私はやっぱり目立たない恰好のレティシアだわ」
セシリアによるレティシアの外出着の新作の完成は二週間後になる。
そこでまだ手つかずの「陰謀メイドによるみっともない服」の外出着しかレティシアのクローゼットには入っていなかったのである。
「確かに今朝のあのドレスの君は君として輝いていた。だけどね、今日の俺は君が今の君の姿でいてくれた方が助かるんだ。君にドキドキして言葉を失ったら、君の最悪なドレスを見て頭を冷静に戻せる」
「酷いわね。そうね、そんな酷い男を沈めてしまえるように、湖にするわ」
「いいね。君は湖のヌシ様に会った事があるかな。蛇みたいな顔をした黒い大きな魚だよ」
「まあ!!ヌシ様なんているの?知らなかったわ」
「三年前から出現したからね、知る人ぞ知るって奴だ。あの異国の動物コレクターのポロン男爵が、飼いきれなくなったとザーベイン湖に放流しちゃったのさ」
「あら、まあ。あの大富豪がそんなことをしちゃったの?」
「そう。こっそりと、この王立という王家管轄の敷地の湖にペットを放つ大罪を犯してしまったんだよ。君は釣りが好きかな?俺達は公益のためにヌシ様を吊り上げよう。ヌシ様を捕まえたら報奨金が出る」
「そうなの?」
「ああ。俺達に金を寄こすかヌシを引き取るか決めろって、ポロンを脅す」
「それは脅迫だわ!!」
レティシアは悪辣な冗談に口元を押さえて笑い出す。
ギランも彼女に合わせるように笑い声を立てる。
湖に向かって歩き出した二人は、その後も会話に花が咲き、そのせいか二人が気付いた頃には二人は仲の良い子供みたいにして手を繋いでいた。
それに気が付いた時、レティシアは紳士の腕に貴婦人が手を添える恰好よりも親密に思えるのはなぜだろうと考えた。
それどころか、この手を離したくないと思ってしまうのはなぜだろう、と自分自身に自問してしまった。
本当は理由は分かるが、彼女は自分の気持ちなど認めたくない。
婚約破棄が確定した当日に、誰が見ても美男子の騎士に恋をした、それは淑女として慎みが無さ過ぎるのではないだろうかと思うのだ。
それだけでない。
誰かを愛している人に恋をしたら苦しむのは自分だと、苦い経験の記憶が自分に言い聞かせてくるのである。
「疲れた、かな?」
「いいえ。疲れるはず無いわ。浮かれすぎて足元がフワフワしているほど」
「残念」
「どうして?」
「君が疲れてたら、俺が君を抱き上げて運べるって期待した」
レティシアは自分の顔が真っ赤になってると思った。
自分の顔に当てた両手の手の平から、比喩でなく頬が熱いと感じるのだ。
絶対に真っ赤になっている。
「ごめん。また失敗したみたいだ。俺は口説き文句は苦手なんだ」
「それはきっとあなたが朝ご飯を食べていなかったからよ。急いで敷物を敷ける場所を探しましょう」
「だな。急いで飯を喰うは大事だ。そのために、では姫君、失礼しますよ」
「え?」
レティシアはギランに抱き上げられた。
そして、右腕にピクニックセットを持っているはずの男は、レティシアを抱え上げた途端に走り出した。
「え、ええ、きゃああああああ」
公園の中にレティシアの悲鳴が響く。
一緒に楽しそうな男性の素晴らしい笑い声も。