君と歩きたい
ドラゴネシアの巨大馬車を憧れの目でひたすら見つめる美しい男。
ただし、降格されたとレティシアに昨夜告白したその証拠のように、ギランの服装は昨夜から着換えていないどころかさらに薄汚れて見えた。
左肩の部分がほつれているからだろうとレティシアは気付くと、彼女はもう居ても立っても居られない気持ちである。
寂しい人が一人寂しく自分のお洋服のほつれを直すの?
そう思ってもレティシアがすぐにギランへと駆けよらなかったのは、ギランが誰にも注目されたくないようにして馬車を眺めていたからだ。
御者台に座るリカエルの姿を眺めたいのならば邪魔しないであげよう。
レティシアはそんな気持ちだった。
彼女がアランとララを見つめていた時の気持を、今のギランの姿によって思い出したからかもしれない。
レティシアは自分の姿がいつもみっともないと笑いの種になることを知っていた。まるでそのためにパーティに参加している気持ちでもあった。それでいつも出来る限り人の視線を避けるようにして柱の影に隠れていたのだ。
なのに、世界は残酷だ。
アランとララが柱の影から出られない彼女の目の前で、彼等こそ世界の中心で光であるという風に、取り巻きに囲まれて光り輝く。
レティシアは彼等から目が離せなかった。
見つめることでさらに惨めな気持ちになっていたというのに。
「では、行くわ」
ヴェリカの声にレティシアははっともの思いから覚めた。
友人の出立、それもこれから長く会えないのに、友人以外を見つめたまま物思いに浸っていたなんて。
「レティシア様。余計かもですけど、ダーレンはリカエルと違う考えだし、私は自分の幸せが人には不幸に見えるそこにある時だってあると思うの」
「ヴェリカ様?」
ヴェリカはレティシアの手を両手で掴んだ。
いつもの凛とした顔付きではなく、その美貌を台無しにする涙顔だ。
「私と友達になってくださりありがとう。これでお別れは悲しいわ」
「お別れじゃ無いわ。私達はドラゴネシア。いつでも遊びに来て」
「ええ、ええ。来るわ。あなたもドラゴネシア砦に遊びに来て」
レティシア達は親友として左右の頬をつけ合い、そして別れた。
馬車はすぐに出発し、その馬車を警護するようにレティシアの双子の兄達の馬も後ろを走って消えていく。
あとは、と、レティシアは大きく息を吐く。
「え、あの。レティシア?」
レティシアは馬車を眺めていたギランのもとへと駆け寄り、ギランのジャケットの裾を掴んだのだ。
声をかければ逃げられる、そう彼女は確信していたから。
彼女としてはかなりの勇気で、普段は絶対に彼女がしない行為だ。
けれども彼女は、ボロボロの姿のままのギランを放ってしまった場合、それを想像したら動かざるを得なかったのである。
私は彼をそのまま帰した事を絶対に後悔し続けるわ、と。
「レティシア?」
「お、お茶はいかが?嫌でも寄って下さい。あなたのお洋服のほつれを次にあなたにお会いするまで私が気に病みそうなの」
レティシアに捕まって目を丸くするだけのギランは、思い出したように自分の左肩へと視線を動かし、初めて肩から袖が取れそうになっていることに気付いた。
「え、ああ。こんなの自分で」
「私が直します。余計な事ですか?」
ギランはレティシアに顔を向けると、レティシアの頭の中が真っ白になってしまうぐらいの素晴らしい笑顔となった。
無邪気で天使みたいな笑顔だと思ったら、レティシアの胸が痛んだ。
他人に服の繕いをしてもらえることをこんなに喜ぶなんて、どれだけ寂しい人だったのかしら。
「レティシア?」
「え、ええと。私が繕っている間、私が最近ブレンドしたお茶はいかが?昨日は騒ぎでヴェリカから感想が戴けなかったから、率直なご意見を頂けたらと思うの」
「ほつれの繕いのお礼が君のお茶を飲む事だなんて、俺は今朝死んでしまったのかな。天国にいるみたいだよ」
「そ、そう思って下さるなら、と、とても嬉しいわ」
すっと彼が着ていたジャケットがレティシアに差し出され、レティシアがそれを受け取ると、シャツだけの男性の腕が差し出された。
レティシアは何も考えずにギランの左腕に右手で触れる。
「俺は本当にろくでなしだ」
「なぜ?」
「それを言ったら君に嫌われそうだ。さあ、俺に命令してくれ。君が望むところへどこまでも俺が君をエスコートしよう」
声を失った。
心臓が胸の中で大きくジャンプしてしまったのだ。
「レティシア?」
ギランがレティシアに向ける顔は訝しそうなものではなく、自分が何かしでかしたと脅える時の顔である。
彼の視線は彼の腕にかかるレティシアの手へと動く。
しかしレティシアはギランへと顔を上げて見上げていたため、彼女の視線は彼の後ろの風景を映し出していた。
ギランの背景となった曇り空には、空を飛ぶ鳩の群れ。
「やっぱり親密すぎた。君に失礼を――」
「わたし、どれだけ外に出ていなかったかしら」
「レティシア?」
「あなたの後ろで鳩が飛んでいて、私は思い出したの。アランと婚約してから、ピクニックも、単なる公園の散策も、私はしていなかったなって」
最初は必ず直前でキャンセルされる婚約者の誘いを待って自宅に籠り、そのうちに世界からの嘲笑が怖くなって自宅から出なくなった。
曇り空を鳩が飛ぶ風景が、そんな昨日までの自分に「外に出ろ」と言ってくれた気がしたのである。
「これから行きますか?今の俺じゃ単なる公園の散策しかできませんが」
「みっともない女の子を連れている姿を見咎められたら、あなたが笑いものになってしまいますよ」
「俺こそみっともない笑いものですよ。何もできないお人形軍団。その団長です」
「そ、そんな事はありません」
「では。俺と歩いて頂けますか?」
もちろんと即答しかけて、レティシアは見つめ返したギランの姿にはっとした。
真剣すぎる顔の彼は何て血の気を失っているのだ。
昨夜から着換えていない姿ならば、彼は朝食もまだだったのかもしれない。
ご飯をお誘いするならば、外で食べるのはどうかしら?
レティシアの脳裏には、彼女が夢見て叶わなかったイメージこそ湧いた。
敷物に婚約者と座ってピクニックをするという、夢。
「あの、軽食を持って散策するのは如何ですか?あなたの服を繕っている間に公園で食べる物を用意させます。だから、あの」
「いいね!ピクニック。俺が体験したかった夢の一つだ」
「私こそそうです!!」
レティシアはギランの腕に添えていただけの手で、そのまま彼の腕を掴み直し、もともと彼女達が向かうはずの館へと引っ張った。
レティシアに無理矢理引っ張られている人は、レティシアがいつも聞いていたいと思わせる軽やかな笑い声を立てている。
居間までの廊下がずっとずっと続けばいいのに。
レティシアはギランの笑い声を聞きながらそう思った。




