アヒルと家鴨
第一節 箱庭
私は気付くと見知らぬ庭にポツンと立たされていた。はっきりと見えるがまるでその全てが幻のような、私自身の体もそこには存在していないような感覚。
(ああ、これは夢だ。)
実に感覚的だが確信が持てた。
この庭は実によく手入れされたものだ。目に入る植物一つひとつが生き生きとしている。そんなことを考えながら歩いていると少し開けたところに出た。そこでは一人のこれまた見知らぬ女性が室外用のテーブルにティーカップをのせ、椅子に腰掛け庭を見ていた。とりあえずその女性に話しかけてみようと近付く、するとあちらも私に気付いたようで「フフ、会いたかったわ。さぁさぁこちらへ」と微笑みながら自身の向かいの席に掛けるよう私に促した。
本当に私はこの女性に見覚えが無かった。私の夢の中の住人なのだから私の中のなにかが人間の姿をもって現れたはずなのだが…。
第二節 疑念
私は女性が何者なのか気になってしょうがなかった。この女性を最初に見たとき私は源氏物語を読んだ際の浮舟や夕顔と同じような幸薄な、それでいて若紫のような無邪気な印象をもった。しかし本当に誰、いや何なのだろう?自分の理想の女性像とか近頃読んだ小説の登場人物など考えてみたものの答えが見つからない。
そんなこんなで女性に出された紅茶をすすりながら考え込んでいると女性が急に意味不明な声を発した。
「クワッグゥワ!」
急なことで驚き、口に含んでいた紅茶を吹き出しかけた。それを見て女性はクスクスとイタズラが上手くいった子どものように笑った。
「フフフ、ごめんなさい。あのアヒルがどうなったのか気になって。」
「アヒル、ですか?」
「そうそう、貴方のお気に入りでよくお風呂に浮かべて遊んでいたあのアヒルのオモチャのこと!」
「ああ、それなら実家から持って来ましたよ。一応思い出の品ですから。けど持ってきたものの屋根裏に箱詰めされたままですね。」
私がそう答えると女性はティーカップの中を覗き「良かった。捨てられてなくって。」と呟いた。
私はふと疑問に思った。
「何故そんなことを知っているのですか?」
女性はおもむろに立ち上がり、ジョウロを手に取り植木に水を与えながら答える。
「ちょっと、ちょっと!私は貴方の心の住人なのよ。大体のことは知っているわ。」
愚問だった。そりゃそうだ。彼女は私の中に住んでいるのだ、そう考えれば何も不思議なことは無い。
「そうですよね。私こそ変なことを。すみません。」
私が頭を掻きながら謝罪すると彼女は少し…、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
第三節 笑顔
彼女は鼻歌まじりに植木に水をやっていたかと思うと何かを思い出したかのように「あっ!」と声を上げた。
「どうかしましたか?」
「この前の誕生日会のことなんだけど……どう、だった?」
おそらく彼女は昔馴染みの友人たちが開いてくれた誕生日会のことだろう。私なんかの為に…、実に良い友を自分は持ったと思った。
「とても楽しく、嬉しかったですよ。」
そう私が答えると彼女は頬に手を当て考え込むような素振りで聞き返す。
「そう、そうよね?だけどお友だちには貴方がそう思っているようには見えていなかったみたいよ?」
はぁ、私は彼らに悪いことをした。折角祝ってくれたと言うのに…。
「貴方って昔からそうよね。恥ずかしがって自分の感情を表に出さない。私、貴方はもっと感情を表に出すべきだと思うの。」
ごもっともだ。特に感謝の言葉はもっと、ちゃんと伝えるべきだ。
「これからはもっと、ちゃんと声を出して伝えようと思います。」
彼女は持っていたジョウロを元あった場所にのどしながら呟く。
「うーん、声ねー、声だけじゃなくて全身を使って伝えるべきじゃないかしら?」
そう言いながら彼女は私の背中に回り込んだかと「そう…、例えば………こんなふうに!!!」と急に声を大きくして、私の脇に手を伸ばしくすぐり始めた。
「フフ、ハハハ、ちょ、フッ、やめ、て、アハハ、くだ、フハハ、さ、アハ、い!」
しばらくしてようやく手を止めてくれた。
「ハァハァ、本当、急にやめてくださいよ。」
私が息切れしている姿を見て彼女は笑いながら言う。
「なーんだ、やればできるじゃない。」
しかし彼女のにこやかな表情は次第に曇る。
「けど、それもこれも貴方次第なのよね………………。私ね、お引っ越しするかもしれないの。」
僕は何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。
第四節 想起
「え?それってどういうことですか?」
彼女は僕に背を向け、そっと口を開く。
「私はね、自分の意思ではここにはいれないの、全部貴方次第・・・・なの。」
「えっ!それっ――――。」
「ねぇ!目、つぶってくれない?」
言葉を遮られ、急なことに混乱したがとりあえず言われるままに目を閉じる。
肩と額に何かが触れている。おそらく彼女は僕の肩に手を置き、自身の額を僕のそれに当てているのだろう。目を閉じているのに何故かそれがはっきりと分かる。そして水滴のようなものが僕の顔を掠め、胸元におちているのも。
この時やっと僕は彼女の正体が分かった。
「ねぇ、君はもしかして――――。」
その瞬間、何か柔らかいものが僕の口をふさいだ。
「ねぇ、最後にひとつだけ……、今のを…私は、お別れのキスにしたくない。」
その彼女の言葉を聞いて僕は目覚めた。
最終節 回帰
着替えを済ませ、庭に出る。すると植木の一つに紅色の蕾がなっていた。僕はそれらに水をやりながら思った。
今夜は湯船に久しぶりにあのアヒルのオモチャを浮かべてみよう。そうすればきっと、またあの娘と会えるはずだから。もう二度と忘れない、僕の愛しき君に誓って……。