最終話 これから
✳︎
つい数日まえまで、ぶるりとした寒さを運んできていた夕暮れの風が、今日はかすかな春の匂いに変わる。
街の通りに、ランタンの光がひとつふたつ、灯り始めた。また、この街はどこかの誰かのお祝いを始めたようだ。
ドアのガラスの向こう、集まり始めるたくさんの光。
きっと明日の朝はまた、たっくさんのランタンの成れの果てがその辺に転がるんだろう。わたしは苦笑いをしながら、カウンターに座って光の列を眺めていた。
台の上には、同じランタンがひとつ。リエルさんもおいで、とお客さんが置いていってくれた。広場にこれがたくさん集まると、すごく綺麗なのよとうっとりした顔で誘われて、ちょっと嬉しかった。街の中に少しずつ、溶け込めている気がして。
けれどやっぱり。そんなに素敵なものは、あの人と一緒に見たい。ひとりだったら、綺麗なものほど悲しくみえてしまう。わたしのなかにぽっかりと空いた穴を埋めているのは、思い出してきた家族の記憶と、生真面目なカイリさんの姿だ。会いたい。けど、会えないたくさんの人たち。
ランタンを置いたまま、二階へ上がろうとエプロンを外す。こつこつ、とガラスを叩く音に、ドアへと顔を向ける。見慣れた大きなシルエット。
駆け出そうとして、またバランスを崩してしまう。ほんとに、なかなか慣れないんだから!よろめきながらドアを開けると、がっしりとした腕に身体を支えられた。
「店のなかでそんなに走ったら、危ない」
「…はい。ごめんなさ」
謝るより早く、厚くがっしりとした胸に抱きこまれる。不思議な動物のブローチピンがきらりと光った。
「求人の件…なんだが」
まだ募集しているか、と聞く懐かしい響き。だいすきな、カイリさんのこえ。
「はい。はい!まだまだ、ずっと募集しています」
「……よかった。店長」
ぽろぽろ、どころか、ぼろぼろぼろぼろ、あとからあとから溢れて止まらない涙を、何度もなんども優しく指で拭ってくれる。無骨な、大きな、大好きなカイリさんの手。
「店長、笑ってくれないか?」
紫の瞳を懇願するように揺らして、わたしの顎にそっと、指をかけた。
「店長はいやです。なまえ、よんで」
りえる、リエル。
額にそっと口づけを落としながら、囁く。鼻すじへ、頬へ。何度も。
小さな街の、小さなパン屋。
片羽と傷のあるツノ。少しだけ欠けたもの同士の二人を、いくつも行き交う橙のランタンが柔らかく照らしていた。
fin
✳︎✳︎✳︎
2.24
アフターストーリーを追加しています。完結済みの作品にどう追加していいか分からなくて、最終話に続けました。お楽しみいただけたら嬉しいです。
after story ぬくもりの星空
人間界。とある王国のどこかの街。
昼下がりののんびりとした空気が街の通りを包んでいる。店のガラス窓を丁寧に拭いていると、気持ちのいい風が頬を撫でていく。すこし手を止めて、青空を見上げ息を吸い込んだ。
「あ、ちょっとずれてる」
呟いて、ドアにかかるプレートのチェーンに手を伸ばす。『Boulangerie bleu』の文字をそっと指でなぞった。自然と笑顔になっていることに気づき、そのことにまた嬉しくなってさらに笑みが深まっていく。
パン屋さんなのに、パンがないんだね、と言われたのはもう一月も前だ。今ならあのお使いの子に、好きなパンを選んでねと胸を張ってトレイを差し出すんだけどな。
もちろん、私が作るのは家で食べる用だけど。
小さなお店の奥から流れてくる香ばしい香りと熱気に、頼もしさと愛しさを感じながらガラスを拭く作業に戻った。
「うわ、掃除なんかしてる。王女が聞いて呆れるね」
背中をちくりと突き刺す、冷たくも聞き覚えのある声。思わず身を固くしてしまう。まさか。息を潜めるように
ゆっくりと振り返って、声の主を見つめた。
「ロウル」
「…、王子をつけるの、忘れてる」
「……ロウル、王子。なにかご用ですか」
できるだけ平静を装うつもりで、背すじをぴんと伸ばした。なんだか背中がちくちくとする。折れてしまった羽の根元が気持ち悪い。
「べつに?用なんてない。くたばりぞこないの元精霊族の女なんかに」
彼は相変わらず、美しかった。前よりもすこし地味めな服装ではあるが、亜麻色の髪は陽を受けてさらさらと輝いているし、なめらかな白い肌に薔薇色の頬。端正な顔は数ヶ月前に会ったときとなにも変わっていない。切れ長の瞳に浮かぶ侮蔑の色も。いや、今はそれに憐憫のかけらまで浮かんでいる。いったい何しにきたっていうんだろう?用がないって、なに?
「じゃぁ、通り過ぎて行ったらいいでしょう?」
あの日、彼がわたしにしたことなんかより、カイリさんを怪我させたことが許せない。握りしめている布巾を投げつけてやりたい衝動をぐっと堪えて、木製のドアへと向き直った。彼に背を向けごしごしと嵌め込まれたガラスを拭きながら、どんな用事にしろこれ以上話すつもりはないと態度で伝える。
ところがロウルは、立ち去ろうとはしなかった。悔しいことに、ここからだとガラス越しに彼の立ち姿がよく見えてしまうのだ。そういえば、この緑の精霊族の王子は共の一人も連れていない。何番目だったか忘れたけれどさすがに現主流の王族がたった一人でこんな所に来るだろうか?
15分は経ったろうか、黙々と作業をするわたしと、なぜかそれを見つめるロウル。そのくせ一言も発しない彼に、だんだんと焦れてきてしまった。
な、なんなんだろ、ほんとうに。
もう一度だけと、ガラス越しに彼の姿を盗み見た。依然として王子然と立っているけど、どうやら彼は自分と闘っているようだった。何度も口を開けては閉じ、ふてくされたように唇を尖らせる。困ったように眉尻を上げ下げする様子に、敵意は感じられない。というよりも、どうしていいのか分からずにあたりに目を走らせる様子はまるで迷子みたい。一目で上質とわかる緑のマントが、午後の風にはらりと翻り、深い紅の裏地を見せた。
「ロウル」
わたしはため息をついて振り返る。
「どうしたの?本当に、用はないの?」
「な、ないって言ってるだろ…」
「じゃあ、どうしてそこにずっと立ってるの?」
彼は答えない。口をへの字に結んだままだ。
「わたし、もうお店の中に入るね」
そう伝えて、小さく会釈した。背を向け戻ろうとするわたしを見て、慌てて彼は口を開く。
「せなか、痛くないのか…?」
「え?」
思いもよらない早口での問いかけに驚いて、彼の美しい顔を見上げる。
「せなか?…って、羽のこと?」
「ほかになにがあるっていうんだ」
目を丸くして聞くわたしに、彼はますますしどろもどろになる。
「べっべつに、死に損ないの君を心配してるわけじゃない。そんなわけないだろう!ただ、その…、僕は、伝言を」
「リエル!!」
王子の言葉は、もう一人の皇子によって遮られた。振り返る間もなく、大股で店の裏手から出てきたカイリさんのたくましい腕がわたしよ肩を抱き寄せる。
「ロウル王子。せっかく訪ねて来ていただいたところ悪いが、お帰りいただこう」
肩を怒らせ、低く唸るようにしてカイリさんはロウルを睨みつけた。肩に置かれた大きな手にぎゅっと力がはいる。敵意剥き出しのカイリさんに、ロウルも瞳の色を変えた。わたしはカイリさんの手にそっと触れながら、つとめて明るい口調で話しかける。
「カイリさん、ロウル王子はちょっとお喋りしにお店に寄ってみただけなんですって」
「は?」
「なっ」
種族の違う二人は気の抜けた声を上げて目を合わせ、慌ててお互いそっぽを向いた。
「リエル、そんな、そんなわけないだろう。ロウルは君のことを殺そうとしたんだぞ」
「リエル、君って、おかしいんじゃない?」
二人は揃って似たようなことを口にしてわたしを見ていた。
✳︎✳︎
その夜、わたしは意を決してベッドを抜け出し隣の、カイリさんの部屋の扉の前に立った。
こんこんと、薄暗い闇に小さく響くノックの音。もう、寝てしまっただろうか?さっきお互いにお休みを言いあったばかりだけれど。
予想よりも数秒早く、扉が開いてカイリさんが顔を覗かせた。
「どうした?リエル」
「あの、カイリさん…。そちらへ行ってもいいですか?」
「もちろんだ。どうぞ」
彼は優しく微笑んで、扉を大きく開けてわたしを通してくれた。
「眠れないのか?」
「はい…」
彼は少し照れたように、
「では、こちらへ」
とベッドにかけてある大きなキルティングカバーをめくる。頬が急速に熱くなるのを感じながら、わたしはベッドへと素早く潜り込んだ。カイリさんはそばに腰掛け、髪をゆっくりと撫でてくれる。
「来ると思っていた。というか、俺がリエルのところに行こうと思っていたんだ」
「そう、なんですか?」
一月ほど前から、彼はこの部屋を使っている。妖界からこの店へ帰ってきた夜に、二人で一緒に暮らすことに決めたのだけれど、なんとなく、その、気恥ずかしくて部屋は今も別々に使っている。
ひとすくい、髪をゆるく持ち上げてはそのごつごつとした指を通す。彼の手はあたたかくて、撫でてくれるだけで心がほろほろと解けてゆく。
「そう。今日は特に疲れたんじゃないかと思って」
「あ、いえ。疲れたというか、なんだか不思議な感じです」
毛布のふちをきゅ、と握りながら今日のロウルの言葉を思い浮かべる。彼は本当に伝言を持って来ていた。わたしを生かし、ここへ送り込んでくれた緑の精霊王から。
『愚息が馬鹿なことをしでかしてすまない。これからは二度とこのようなことがないよう厳しく言い置いてある。昔のように笑えるようになったと聞いた。リエル、君の幸せを心から願っているよ』
あのあと、狼狽していた彼は一呼吸おいて素の表情にもどると、平坦な口調でそう言ってから、
「これが精霊王からの言葉だ。では失礼する」
くるりと身を翻してしまう。
「え、ちょっと、ロウル」
「王子、貴方は本当にこのためだけにここへ?」
「そうだ」
後ろを向いたまま短く答える彼に、わたしとカイリさんは顔を合わせた。
「もしかして、怒られたの?」
「追放寸前になった」
「当然だろう。王に逆心を疑われても不思議じゃない」
カイリさんの吐き捨てるような言葉に、ぴくりと肩を揺らしたが、ロウル王子は振り向かない。
「僕は間違っていたとは思わない。だがこの話はこれ以上したくない。伝言は伝えた」
もう行く、と歩き出した王子にわたしは慌てて声をかけた。
「待って!あの、ありがとうございますと。心から感謝していますと、」
「伝えよう」
振り向かずに答えた彼の声は、すこし柔らかくなっていた気がした。
髪を撫でる指がふと止まる。見るとカイリさんは私を覗き込んでいた。
「なにか、王子に言われたか?」
「あ、ええと、背中は痛くないのかって…」
「…そうか」
小さくため息をついて、彼は毛布をめくりベッドの中へとその大きな身体を滑り込ませる。わたしはそんなに大きい方ではないけれど、がっしりとしたカイリさんと二人ではやっぱりこのベッドはすこし、小さい。みしりと、部屋にかすかな音が響いた。
「彼なりに、気にしていたのかもしれないな。君の、羽のこと」
「そうでしょうか…」
優しく腕を掴まれ、彼の胸にぐいっと抱きこまれた。背中に回された手がかつて羽のあったところをそっとなぞる。人間には見えないけれど、わたしの片羽も、カイリさんの角もさわれば姿を現す。
「同じ種族だから余計に衝撃を受けたんだと思う」
ぽそりと呟いてわたしの頬に指の背を滑らせた。後悔の念を滲ませて呟くカイリさん。
「すまない、本当に」
「謝ることなんてひとつもないのに。わたしが好きでしたことです」
わたしだって、彼に怪我をさせた。綺麗だった角は黒ずんで、ひびが入ったままだ。折れないだけマシだった、とイリヤさんが言っていた。
彼と同じように、角をそっと撫でる。カイリさんは心地良さそうに目を閉じ、そしてくすりと笑った。
「俺も、好きでしたことだ」
「……、先に、言わないでください…」
額どうしをこつんとあわせて互いに笑い合う。
驚くほど温かい彼の胸のなか。しなやかに引き締まった筋肉を薄い夜着は隠してはくれない。
そっと心臓の近くへ頬をあて、規則正しく緩やかにリズムを刻むそれに耳を傾ける。
「明日も、朝早い。眠れそうか?」
気遣わしげな声が落ちてくる。わたしはゆっくり頷いた。
「はい、カイリさんと一緒だから、あたたかくて」
「それは、よかった。だが」
俺は、眠れなくなった。
耳のそばで囁く言葉に、甘さが忍びこむ。どくんと心臓が音を立てた。ゆっくりと重ねられるカイリさんの唇。その熱は、わたしのくちびるを、心臓までも溶かしてしまう。
ふたりだけのぬくもりに浸されて、星空の下、この街の、小さなお店の、小さなベッドはとろりと深く満ちてゆく。
fin
ここまでおつきあいいただきありがとうございました!ふんわりした設定のお話でしたが、楽しんで頂ける方がいらっしゃいましたらとても嬉しいです。




