第33話
へなへなとその場に崩れ落ちそうになりながら、カイリさんの様子を見る。彼を覆っていた透明な光の膜はわたしが触れるとさらさらと崩れ、夜の風と一緒に流れてゆく。生まれてからずっと背中にあったものがなくなるのは、なんだか変な感じだ。バランスが取りにくい。
意識のないカイリさんのそばに膝をつき、頭を抱えて抱きよせる。後悔が押し寄せてきた。このまま、めをさまさなかったらどうしよう。
カイリさん、カイリさん。
そっと囁いて、力なくぐったりとした手を何度もさすった。
わずかに目がひらいた。紫の瞳が、ぼんやりとあたりを見回している。
「リエル……」
「っ!ここです、カイリさんっ」
目が合って、瞳の焦点もはっきりとした。途端に彼の瞳は揺れる。眉をしかめながら、
「ぶじか?」
「はい、ありがとうございます。大丈夫です」
「羽が、リエル…。すまない。俺は、本当にまだまだ未熟だ。…痛くないか?」
彼は大きな手をおそるおそるわたしの背中に回す。羽のあった場所を優しく撫でてくれた。残った片羽は、所在なげに小さく揺れる。
「大丈夫です。…わたしこそ、ごめんなさい。ほんとうに」
そっと彼のツノに触れた。大きなヒビはそのままだ。彼は微かに首を振って、こんなの何ともない、と強がる。赤黒く変色したままのツノはどんどん色が濁っていく。
「君が、殺されなくて、よかった」
「はい…」
伸ばされた手をぎゅっと握った。カイリさんはにっこり微笑む。傷だらけの顔で。
ふいに、一陣の強い風がざわざわと森を揺らした。
「よっ。王女さま。派手にやらかしてたねえ」
月を背に、私たちの前に降り立ったのは、銀髪に二本のツノを誇らしげに生やしたカイリさんの兄、イリヤさんだった。ほっとしたせいか、体中から力が抜ける。
「イリヤさん!ど、どうしてここに?」
「可愛い弟がピンチの時には、兄が現れるもんだろ?」
ええと、ピンチの時は、もっと前だった気がするんだけど…。
「ん?もっと早く来いって?んな顔すんなよ」
にかっと笑うイリヤさんは、弟の様子をちらりと見て、なっさけねえな、と呆れ顔だ。
「あ、いえ、申し訳ありません…」
「いやぁ、すぐ助けに行こうと思ったんだけどよ。ちょっと見物させてもらってた。あんたたちがどうすんのかも気になってな」
「そ、そうだったんですか…。私のことで、ほんとうに、カイリさんにはご迷惑をおかけしてしまいました。こんな、怪我までさせてしまって…」
深く頭を下げる。イリヤさんは怒って当然だ。
「カイリもあんたも互いのために身体を張った。ま、いい感じで始末ついたんじゃね?あんたも吹っ切れたみたいだし。ここじゃ羽なんてあってもなくても関係ねえよ」
俺は自分のツノは絶対守るけどな、ときらりと瞳を煌めかせた。
「ただ、こいつは連れて帰る」
さらりとそう言った。カイリさんは、驚いて声をあげる。
「なっ、何勝手に決めてるんだ。俺は帰らない」
「うるせえよ、カイリ。兄貴の言うことに従え」
そう言いながらイリヤさんは、すっと弟の懐に入る。鈍い音がして、カイリさんは崩れ落ちた。
「イ、イリヤさんっ」
「心配すんな。鳩尾くらわしただけだって」
「こいつの怪我は別にたいしたことねえ。すぐ治るが、このツノ。こうなるともう、人間界では治んねえんだ」
どす赤い色を見つめてイリヤさんは表情を曇らせた。
「申し訳、ありません…!」
「こいつの決めたことだ。俺に謝るな」
「はい…」
「こいつは自分で厄介ごとに飛び込んでいった。何かあったらアンタを守りたいとも言ってた。言葉通り、自分の望みの通り動いたんだ。そこにケチつける気はねえよ。ただ、俺としては、こいつには、自分の国で、幸せに暮らしてほしいんだよ。俺らの親父だって、仕事をみつけろとは言ったがまさか息子がこんな、他所の世界で人助けしてるとは思わねえよ」
厳しい顔で、イリヤさんはわたしを見る。わたしは、俯いてしまわないよう、お腹にぎゅっと力を込めた。
「……はい」
「なーんてな。兄のエゴだってわかってる。でもアンタも、身内の思いっての、身に染みてるだろ」
「もちろん、です…」
「ま、そういうわけだ。アンタにとっちゃ、面白くねえーかもしれねえけど」
「とんでもないです。カイリさんの、ご快復を心から、お祈りしております」
カイリさんが、元気になってくれるのが一番だ。そう心のなかで繰り返し、イリヤさんに深々と頭を下げる。行ってしまうのだ。彼は。
イリヤさんは、弟の体を右肩で担ぐ。背は弟よりも低いが、お 重てえ!と文句を言いつつも、ちっとも苦しそうじゃない。
じゃあな。店、がんばんな。
ちょっとだけ、申し訳なさそうな顔をしてから、彼は風に乗ってあっという間に走り去った。
眠りの森とよく似た北の森は、先ほどまでの騒ぎなどどこ吹く風で、月の光を受けて黒々とどこまでも続いている。
彼らの去った方へわたしは深く、深く頭を下げ続けた。
そして、待つ人のいないお店にむかって、残った片方の羽を持て余すようにひょこひょこと歩きだした。




