第10話
「イリヤ!」
「イリヤ!じゃねえよ。ちゃんと兄様って呼べつってんだろ」
よっ、と長い脚を窓の桟から下ろし、なんだこのボロい部屋、と眉をしかめながらこちらにやってくる人物に、思わず興奮した声が出てしまう。イリヤは、数十人いる兄弟のうち、年の一番近い兄だった。というか、同じ日に生まれ(母は違うが)、彼の方が少しだけ生まれ時間が早いというだけなのだが。
イリヤは手を伸ばし、わしゃわしゃと頭を撫でてくる。俺より背が低いのに、イリヤはよくこうして乱暴な親愛の表現をするのだ。
「なにしに来たんだ?どうしてここがわかった?」
「俺を誰だと思ってんの?お前の兄貴なんだぜ?可愛い弟が心細くて泣いてんじゃないかって心配してみに来てやったんだろーが」
「…その点についてはいろいろ誤解がありそうだが。まず兄貴と言っても数分だ。俺は可愛くはない。泣いてなどいない。心配する必要は一切ない」
「おまえ…。冗談通じないっつうかさ。ほんと、逆に冗談なの?それ?」
苦笑いしながらイリヤは古びたベッドに近づく。
「ここ。虫とか出ねえ?俺そーゆーのヤなんだけど」
言いながら、おそるおそる腰掛けた。普段派手な生活をしている彼にはこの部屋の何もかもが異質に見えるらしい。
「いまはそういう季節ではないから。それよりイリヤ、ツノは隠さないのか?」
「あーこれ?べつに長居するつもりねえから、このままでいんだよ」
彼は自慢の美しい角に触れながら笑う。
「本当に?怖がられないのか?」
「商売相手は俺のこと、鬼だってわかってる。この季節にここに来んのは珍しいけどな」
「仕事で来たのか?」
「ま、仕事半分、お前のこと半分て感じ。俺の店の酒、この街で仕入れてんだぜ。年に何回か様子見に来てんだ」
イリヤは銀髪、紫の眼をした鬼で、俺と違いかなりのやり手だ。美丈夫で、おおらかで兄貴肌。口が悪いことさえ、彼の美点にプラスになっている。父から受け継いだ紫の眼以外、似ているところなどまるでない。妖界で大きな料亭を営んでいて、とても繁盛している。そんな彼は今、不満げに俺を睨んでいた。
「……なんでわざわざおまえ、人間界なんかに来たわけ?親父があんなこと言ったからって、本気なわけないだろ?これからがんばりますって頭下げりゃ、許してくれたはずだ」
「だが、父上の信頼を裏切っているのは間違いない。俺だってこのままではダメだと思ったんだ。もっともっと、役に立てるようになりたい」
「金を稼ぐだけが、鬼族の役目じゃないんだぞ」
イリヤは穏やかな眼をしながらそう言う。彼の優しさがすこし苦しかった。
「だが今の時代、優秀な稼ぎ手がたくさん必要だろ?」
「おまえはお前のやり方で生きていきゃいいんだよ、得意なことをすればいい」
「得意なことなんてない。仕事をしても、すこしでも笑えばすぐに怖がられてしまうんだ。笑えない者など雇わないのは当たり前だ」
「あー!すぐそうやって言う!お前とはいっつも平行線だよ」
彼は呆れたように俺を見る。融通が効かないのは百も承知で、なんでもそつなくこなす兄に憧れてもいた。お互いむすりとしたまま何もない部屋のなかを見回す。
「だが、来てくれてありがとう。嬉しかったよ」
兄貴なんだから当たり前だろ、とイリヤはため息をついて、
「……で?どうだ?いい仕事見つかりそうか?」
「いや、まだわからないが、これからだ」
「鬼族は容姿は抜きん出てんだぞ?これを使わない手はねえよ?ま、お前はちょっと武骨な感じだが。それがいいってオンナはたくさんいるんだ。そいつらから資金でも集めりゃすぐ商売始められるだろ」
「そういうやり方は好きじゃないし考えたこともない」
眉をしかめた俺に、
「あのな…!騙せとか言ってんじゃないんだぜ?一つのやり方って話だろーが。……まぁ、根っからの真面目のお前にゃ無理か。だから、今までオンナもできねえんだもんな」
「…うるさい」
イリヤは本気で弟の行く末を心配しているのだろう。それはくすぐったく、ありがたいことではあるが。ふと、リエルの店が頭に浮かぶ。今日のあの厨房での時間は、本当に楽しく有意義だった。もしああやって毎日パンを焼けたら、きっとやりがいがあるに違いない。そして隣には…。いや、昨日会ったばかりの女性だぞ?俺はいったい何を考えているんだ。
「どした?カイリ」
「あ、ああいや、なんでもない」
頬が熱くなるのを隠すように、言葉を続ける。
「そうだイリヤ、精霊界が今どうなっているか、知っているか?」
あと1話カイリ視点です。よろしくお願いします。




