そしてキミへと続く物語
電車に飛び込むと、たくさんの人に迷惑がかかる。
海や川で死んでも、遺体を回収する人が大変だろう。
さて、一体どうしたものか。
「あ、ごめんなさい」
ぶつかった相手にきつく睨まれて、小声で謝る。
急ぐ足は止めないままで。
早く、早く、もっと早く、急いで、だけど――どこへ?
登校する生徒たちの波を、逆流する。
何人かの生徒が、私を見て、いぶかしげな表情をする。
そりゃそうだろう。
朝のこの時間に、学校とは逆方向へ走る生徒なんて、私しかいない。
早く、早く、もっと早く――。
行くあてなんて、無いけれど。
ダメだったんだ。
正門まで行ったけど、ダメだったんだ。
足がすくんで、それ以上先へは進めなかった。
進めないんだから、
戻るしか、ない。
――今日は二学期の始業式。
正門から先へ進めなかった私は、そのままデタラメに街を歩いた。
大通りを渡って、小さな公園を通りすぎて、
何度も何度も角を曲がって、入り組んだ細い路地裏の先に、薄汚れた雑居ビルを見つけた。
急に高い所から景色を眺めたくなった私は、錆びた非常階段を上った。
6階くらいの高さまで上ったところに設置されてある鉄製の扉を開けると、屋上へ出ることができた。
「こんな簡単に、屋上に入れていいのかな……」
セキュリティとか、どうなってんだろ、このビル。
もしかしたらこのビルは、もう誰も使っていないのかも知れない。
でもそんなことは、今の私にとってはどうでもいい。
「――いいお天気だなあ」
屋上の柵にもたれて、青い空を見上げる。
まだまだ暑いけれど、どこか少し、秋のにおいがした。
「もう終わったかな、始業式……」
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
一体どこで、間違えてしまったんだろう。
そうだ、あの日だ。
私の世界が一変したのは、忘れもしない、あの日。
とてもとても、ささいなことだった。
私が、愛莉華にハンカチをプレゼントしたんだ。
「そのハンカチ、かわいいね」
今から四ヶ月ほど前。
高校に入学したばかりで、まだクラスになじめていなかった頃。
後ろの席の、愛莉華が話しかけてきた。
愛莉華はクラスで一番オシャレな女子だった。
その愛莉華にハンカチを褒められたことが嬉しくて、とてもドキドキしたのをよく覚えている。
それから愛莉華は、何かと私に話しかけてくれた。
気がつけば私たちは、いつも一緒に行動するようになった。
六月を少し過ぎた頃。
愛莉華が誕生日だということを別の友達から聞いた私は、プレゼントを用意しようと思いたった。
何がいいか悩んだ末、ハンカチに決めた。
愛莉華が可愛いと褒めてくれたあのハンカチの、色違いを購入した。
彼女が褒めてくれたんだ、きっと喜んでくれるに決まってる。
大好きな親友とおそろいのハンカチを持つということに、私は一人勝手に浮かれて舞い上がっていた。
だけど――
「なにコレ、どういうつもり?」
彼女の反応は、予想していないものだった。
「愛莉華の誕生日プレゼントなんだけど……イヤだった?」
「イヤとか、そういう問題じゃない」
「どういうこと?」
「ハンカチを贈るのって、別れたい時でしょ」
そんなの、初めて聞いた。
知らなかった。
「私とお別れしたいんだ?」
「そんなワケないじゃん」
「なんでヘラヘラ笑ってるの?」
知らなかったんだよ。
そんなつもりじゃなかったんだよ。
カンチガイだよ。
それを伝えるために、できるだけ笑顔で、できるだけ軽い口調で、話した。
だけどそれがかえって逆効果だったと理解したのは、ずっと後だった。
翌日から、私は一人になった。
休み時間も、お昼の時も、放課後も、ずっと一人。
でも、私は恵まれていると思った。
だってニュースとかで報じているイジメって、
暴力を受けたり、金銭を要求されたり、それはそれはひどい仕打ちを受けている。
だけど私は、何もされていない。
ただ、誰も話しかけてこない、というだけだ。
考えようによっては、この上なく気楽なんじゃないか。
無視も立派なイジメだと言われるかも知れないけれど。
無視されているかどうかも、よく分からない。
だって無視というのは、こちらから話しかけても答えてもらえない、というヤツでしょう?
私の場合は、話しかけていない。
私の方から誰かに話しかけるということを、一切しなくなったんだ。
だから、無視されているかどうかも分からないんだ。
私は小説を書き始めた。
休み時間にやることがないから。
書いてみると、これがなかなか面白い。
自分にこんな才能があったとは驚きだ。
ノートに架空の物語を、ひたすら書き殴る。
クラスメイトたちの騒がしい声を聞きながら。
私は、周りからはどんな風に見えているのだろう。
小説家志望の、孤独な女子生徒?
ドラマとかマンガとかでも、そういうキャラいるよね。
集団行動が苦手で、クールで。
休み時間はいつも一人で過ごしている。
そんな風に考えれば、なんてことはない。
なんてことは、ないのだ。
うん、違う。
違うな。
自分の意志で一人になるのと、
誰にも話しかけてもらえないのとは、
全然違う。
「――あの子、いつも何書いてるの?」
その日は突然やってきた。
かろうじて保っていた、私の緊張の糸が、ぷつりと切れる日が。
「あの子ってさあ、休み時間にいつも何か書いてるよね」
「だよね。すごい必死でさ」
「前にチラッと見えたんだけど、なんか小説っぽい」
「マジで?」
七月に入ってすぐの、暑い日だった。
教室の後ろの方からそんな会話が聞こえてきた。
全身から、ザッと血の気が引いた。
「へえー、小説書いてるんだ、あの子」
「書いてどうするんだろ。どっかに応募するのかな」
「違うでしょ、ドージンシってのにするんでしょ」
「ああ、あの、オタクがやってるヤツ?」
「とにかく、プロにはなれないワケだ」
「なんか、かわいそー」
ぱたぱたとノートに水が落ちて、文字がにじんでしまった。
自分が泣いてるということに、気づくまでに、数分かかった。
それから私は、小説が書けなくなった。
〝なんか、かわいそー〟
あのコトバが、耳にこびりついて、離れない。
一学期をなんとかやり過ごして、夏休みになった。
せっかくの休みだというのに、中学時代の友達はみんな、部活動で忙しくて会えない。
こんなことなら、私も何か部活をすれば良かった。
ああ、違う、また言い訳だ。
中学時代の友達には、会おうと思えば、会えた。
だけどそうしなかったのは、
みんなの、充実した輝かしい顔を見るのが辛かったから。
私の、今のこの状況を、知られたくなかったから。
「――これから、どうしようかな……」
二学期の始業式をサボって、雑居ビルの屋上で、空を仰ぐ。
まさかこんなことになるなんて。
数ヶ月前の入学式の時には、想像もしていなかったなあ。
これからどうしたらいいのだろう。
なんだかもう、疲れてしまった。
これ以上は、頑張れそうにない。
何もしたくないし、何も考えたくない。
人はこんな時に、自殺をするのだろうか。
自殺か。
死ぬなら、どうやって死のうか。
電車に飛び込むと、たくさんの人に迷惑がかかる。
海や川で死んでも、遺体を回収する人が大変だろう。
さて、一体どうしたものか。
柵から身を乗り出して、真下をのぞいてみる。
はるか眼下に、乗り捨てられた自転車が小さく見える。
これなら、きっと死ねる。
人通りも少ないから、遺体はすぐには発見されないだろう。
願わくば私の遺体は、カラスのエサにでもなってくれればいいんだけど。
薄汚れた柵を乗り越えて、わずかな足場に立つ。
目の前には、何もない。
ほんの一歩、前に進めば、まっさかさまに落ちるだけ。
全身が軽くなったように感じる。
私は、自由だ。
私を縛るものは、何も無い。
ああ、なんて気分が良いんだろう。
「――お前がそっから落ちたら、死ぬんじゃねえ?」
ふり返ると、男が一人、屋上に立っていた。
いつの間に。
さっきまで、誰もいなかったはずだ。
男はにっこり笑って、「俺ならたぶん大丈夫だけど」と、つけ加えた。
年は二十歳くらいだろうか。
すらりと背が高い。
サラサラと風になびく、金色の髪。
空のように青い瞳。
勝気そうな笑顔。
明らかに外国の人間と思われる髪と瞳だが、顔立ちは日本人に見えなくもなく、なんだかとても不思議な感じがする。
いや不思議なのは顔立ちだけではない。
服装だ。
白い衣を身に纏い、青いマントを羽織っている。
腰に、剣らしき物もたずさえている。
これはアレだ、どっからどう見ても、ファンタジ―系のゲームとか、映画に出てくる勇者だろう。
何者なんだ一体。
コスプレイヤーなのかな?
「お前、小野スミレだろ?」
驚いた。
男が、私の名前を口にした。
「……どうして私の名前を知っているの?」
「そりゃ知ってるさ。バルバデンスの人間は、みんなお前を知ってる」
「バ……」
……なんですって?
「とにかくこっちへ来いよ。お前がそこから落ちて死んだりしたら、俺らが困る」
「あなたは一体、誰なの?」
「何言ってんの、お前」
男が、さもおかしそうに噴き出した。
「俺は、ナギだよ」
お前が俺を作ったんだろーが、と言いながら、男は私の腕をつかんだ。
――そうだ。
私がノートに書きためた小説の主人公の名前は、ナギ。
「これ知ってるぞ。歌を歌うんだろ。これがマイクだ」
ナギと名乗る男と一緒に、雑居ビルのすぐ近くにあったカラオケ店に入った。
言っておくが私は、知らない人とカラオケに来るスキルなんて持ち合わせていない。
そんな私がここへ来たのには理由がある。
「こっちの世界の人間は歌うのが好きだってじっちゃんが言ってたけど、本当だったんだなー。会話の途中でいきなり歌い出す芝居があるんだろ?」
ナギは物珍しそうに、マイクやカラオケ機材を眺めている。
本当は喫茶店のような場所に行きたかったのだが、あいにくカラオケしかなかったのだ。
でもこれで良かったかも知れない。
彼の服装で喫茶店なんて入ったら、目立って仕方がない。
「どうしたスミレ、元気ないな?」
ナギが、向かい側のソファに座り、屈託のない笑顔で私を見つめる。
すごいな。
見れば見るほど、私が書いた小説の主人公のイメージにぴったりだ。
私の小説は、負の魔法に支配された架空の国・バルバデンスが舞台となっている。
主人公の名前は、ナギ。
赤ん坊の頃に、ナギの木の下に捨てられていたから、「ナギ」と名づけられた。
戦闘民族に拾われた彼はたくましく育ち、負の魔法に立ち向かうべく、大冒険をするのだ。
「……で、あなたはその、私の書いた小説の主人公……なのよね?」
「そうだってさっきから何度も言ってるだろー」
ナギが子供のように口を尖らせる。
そうは言われても、そんな夢みたいな話、信じられるワケがない。
だけど私がこうして彼とカラオケ店に入った理由は、――ノートだ。
ちらりと、見えたのだ。
彼の背中の、ベルト部分に、一冊の小さなノートが挟まれている。
普通に立っていれば、マントに覆われていて見えない。
だけど私はすぐに分かった。
それが、私の小説のノートであることが。
試しに、コッソリと自分の鞄の中を探った。
いつも入れてあるはずの、小説ノートが無い。
たぶんどこかで落としてしまったのだろう。
それをこの男が拾って、中の小説を読んだ。
そして、ビルの屋上から飛び降りようとする私を見て、自殺を思いとどまらせるために主人公のふりをした。
ノートの表紙には私の名前が書いてあるから、いきなり名指しされたのも納得できる。
きっとこの男は、どこかの劇団員とかで、……こんな衣装を早急にどうやって用意したのかは分からないけど。
とにかく彼は、「ナギ」を演じているのだ。
――そういうことなら、彼の演技につき合ってあげても構わない。
「分かったわよ。あなたが私の小説の主人公だっていうことは、信じるわ」
なんだかちょっと面白いじゃないか。
彼がどこまで「ナギ」になりきれるか、見せてもらおう。
「本当かっ!? やっと俺のこと信じてくれるのか!」
花が咲いたように、ナギが笑った。
ま、まぶしい……。
なんて明るい笑顔なんだ。
そういうところも、ナギそっくりだ。
陽の光のような金色の髪が、まぶしさをさらに倍増させている。
ナギは戦闘民族の長に拾われ、山の中で育てられたせいで、良く言えば天真爛漫、悪く言えば常識知らずの野蛮人というキャラ設定なのだ。
「ねえ、ナギ、質問してもいい?」
「いいぞ! なんでも俺に聞け!」
堂々としているけれど、彼は一体どこまで私の小説を読んでいるのだろう。
「初めて王族の女性のドレスを見た時、あなたはどうしたんだっけ?」
「めくった」
「……なんで?」
「ふわふわで、面白そうだったから」
「その後、あなたはどうなったんだっけ?」
「牢屋にブチこまれた」
うん、正解。
では質問を変えて、小説には書かれていないことを質問してみよう。
「あのさ、ナギ」
「なんだスミレ」
「例えばの話なんだけど、目の前に盗賊が現れたらどうする?」
「殴る」
「巨大な岩が転がってきたらどうする?」
「殴る」
「とても美しい城を見つけたらどうする?」
「殴る」
「道で人が倒れていたらどうする?」
「食いモン持ってないか探す」
……すごい。
今聞いたことは全部、小説の中には書いていない。
だけど全てナギが言いそうな答えばかりだ。
この男、なかなか読み込んでいるじゃないか。
私の小説が実写化することになったら、主演は彼にお願いしよう。
まあ、実写化なんて可能性は、万に一つも無いのだけれど。
「――なあ、スミレ。死ぬなよ」
突如、ナギが真剣なまなざしになった。
「……な、なによ突然」
「お前、死のうとしてたんだろ。あそこから飛び下りて」
ナギが悲しいような、怒ってるような複雑な顔をした。
どうなんだろう。
この男が来なかったら、私は飛び下りていたのだろうか?
自分でもちょっとよく分からない。
ただ、全てを終わらせたい気持ちになっていたのは、事実だ。
「聞いてくれスミレ。黒の魔女の力が、どんどん大きくなってるんだ。このままじゃ、国が滅びる」
黒の魔女というのは、小説に出てくる敵キャラだ。
平和だったバルバデンスに突如として現れ、魔法の力で国を支配しようと民を苦しめるのだ。
「どうして、黒の魔女の力が大きくなってるの?」
「お前が死のうとしたからだろーが」
ほう、なるほど。
そういう設定で来るのか。
「死ぬなよスミレ。お前が死んだら、俺たちは黒の魔女に征服されちまう」
ふむ。そうか。
その流れで私の自殺をやめさせようという魂胆ね。
うーん。
全て信じることができたらなあ。
きっと、「じゃあみんなのために頑張って生きるわ!」ってなるんだろうけど。
あいにく、もうそんなピュアな年齢ではない。
あと5つほど若ければ信じただろうか。
いや5つじゃ足りないかな。
「元気出せよ。何があったんだ?」
ナギが、私の顔を心配そうに覗き込んできた。
彼の目を近くで見て気づいた。
澄み切った空のように、青い。
こんなきれいな瞳は見たことがない。
「気に入らないヤツがいるなら、俺がぶっ飛ばしてやろうか?」
気に入らないヤツ。
それなら、
「じゃあ、私をぶっ飛ばして」
私は、私がキライ。
大キライ。
私なんか、いなくなっちゃえばいい。
「分かった」
ナギが、すっくと立ち上がった。
「……ちょ、ちょっと何するつもり?」
「え? お前をぶっ飛ばせばいいんだろ」
「ま、ままま待って、とりあえず待って、座って!」
なんだよー、と不満そうにソファに再び座った。
危ない危ない。
確かにナギなら、やりそうだけど。
役になりきり過ぎるのも、考えものだわ。
「お前、さっきからずっと下ばっか向いてるな」
言われて、ハッと顔を上げる。
ナギの青い目と視線が合った。
この人は一体、本当はどういう人間なのだろう。
役者だとしたら、相当演技力が高いんじゃないかな。
まるで嘘を言っているように見えない。
「……ナギは、人の目をまっすぐ見れるのね」
「目を見なきゃ、相手のことが分からないだろ」
「いいね、そういうのすごく、ナギっぽい」
「そうか」
「ナギはね、私の憧れなんだ」
いつも自由で、強くて、優しくて。
ナギには私の理想をたっぷり詰め込んで書いた。
「私もナギみたいに、生きたい」
「そりゃ無理だろ」
あっさりと否定されて、少し拍子抜けした。
「な、なんでそんなにサクッと否定するのよ……」
「だってお前、ちっせえもん。そんな細い腕でゴブリン捕まえたり、ケガしたじっちゃん背負ってガケを登ったりとか、できねーだろ。どう考えても俺みたいには無理だろ」
……いや、うん、そうなんだけど。
「そうじゃなくて、性格というか、ナギみたいにやりたいように好き勝手したいなあと……」
「好き勝手やればいいじゃねーか」
「そう簡単にはいかないよ。ここは、現実世界だもの」
人間関係とか、
学校の成績とか、
家族とか、
将来のこととか、
色々いっぱいあるから、
やりたいようにはできないんだよ。
自分の生きたいように生きられる人なんて、ほんの一握りなんだよ。
みんなみんな、ガマンしなきゃいけないんだよ。
小説の中とは違うんだよ。
私の愚痴を、ナギは黙って聞いていた。
「何もかも忘れて、どこかへ逃げたい」
私がそう言うと、ナギはきょとんとした。
「なんで? スミレはいつも逃げてるじゃねえか」
「え?」
「物語の中に逃げ込んでるだろ」
ほらコレ、と言ってナギがノートを差し出してきた。
〈1年3組6番 小野スミレ〉と表紙に小さく書かれたノート。
やっぱり私のノートだったのね。
この中に、ナギの物語が書いてある。
まだ未完だけど。
「大事なモン、落とすなよ。拾ったのが俺だったから良かったけど、黒の魔女に拾われてたらきっと悪用されてた」
その設定は、まだ続けるんだ?
てっきり「中の小説を読んで主人公を演じてみました」ってカミングアウトするのかと思ったのに。
まあいいや。
そっちがその気なら、最後まで私もつき合おう。
「そうだね。拾ってくれてありがとう、ナギ」
ノートを受け取り、パラパラとページをめくってみる。
私にとって、小説を書くことが現実逃避だった。
書いている時だけは、自由だった。
何にでもなれたし、どこへでも行けた。
「続き書けよ、スミレ」
ナギが、真面目な声で言った。
「逃げたいんだろ? だったら、とことん逃げればいい」
「……立ち向かえって、言わないのね」
「ヤバイと思ったら、逃げるしかないだろ」
「それもそうだね」
「でもスミレが立ち向かうと決めた時には、俺が必ず力になってやる」
演技だと分かっているのに。
彼はナギを演じているだけなのに。
それなのに、胸が熱くなってしまうのはどうしてなんだろう。
彼の言葉ひとつひとつに、何か不思議な力が込められているとしか思えない。
嘘なのに。
ただの芝居なのに。
彼と一緒なら、どんな困難も越えられると思う自分がいる。
彼の物語の続きが見たい、書きたい、そう思った。
ナギの木の下に捨てられていた不幸な子供が、悪しき魔法に立ち向かう冒険物語。
そう言えばナギの木は、第一話にしか登場させなかったけど。
名前の由来になるくらいだから、後半にも登場させた方が、全体のバランスが良いかも知れない。
ナギの木で作った武器を使うとか……。
いや、それよりお守りの方がいいかな。
ナギの幼なじみの美少女・エイレンあたりに作らせるか。
彼の身を案じたエイレンが、ナギの木でお守りを作り、最終決戦の前夜にナギにプレゼントする。
ああ、それいいな。
第一話と最終話に、繋がりを持たせた方が読者も……。
「……ふふっ」
思わず噴き出した私を見て、ナギが首を傾げている。
「何笑ってんだスミレ?」
「ああ、ごめん、だって、だって私……」
――私、頭の中が小説のネタでいっぱいになっている。
「……続きを、書いてみようかな」
小説の続きを書く。
ただそれだけを目標に、毎日を生きてみる。
そんなことが、許されるだろうか?
「続き書くのか! やったあ! やっぱりスミレはスゲーな! 天才だな!」
ナギが、泣きそうな顔で笑った。
まるで自分のことのように喜んでくれている。
そうだ。
小説を書こう。
自分のためにも、
目の前の「ナギ」のためにも。
私が書かないと、ナギは悪い魔女に支配されてしまうのだ。
彼がそう言うなら、きっとそうだ。
だから書こう。
ガサツで強引で、優しさと勇気に満ち溢れたナギの物語を、途中で終わらせてなるものか。
私をこんな気持ちをさせてくれるなんて。
目の前にいるこの男は、本当に「ナギ」そのものだ。
「――いけねえ、そろそろ戻らねえと」
ナギがソファから立ち上がったので、私も鞄を持って立った。
夢のような時間は、これでおしまい。
きっと彼にも、もう二度と会うことはないだろう。
だけど、これで充分。
だって私は、明日からの生きる目標を見つけられたんだから。
「ねえ、ナギ」
ドアを開けて通路に出たところで、彼に声をかけた。
少しだけ、ワガママを言ってもいいだろうか。
もう充分だと思ったけれど。
どうか一つだけ、ワガママを……。
「どうした、スミレ」
「あのね、迷惑でなければなんだけど」
「うん」
「私が、この小説の続きを書いたら……」
ぜひ読んで欲しい、と言おうとした時、カランと音を立てて何かが床に落ちた。
「やべー、エイレンに怒られる」
ナギが慌てて拾い上げたそれは、手の平に納まるくらいの小さな、木彫りの人形のような物だった。
「それ、なあに?」
「ああ、エイレンがくれたんだ。ナギの木で作ったお守りだって」
ドクリと心臓が脈打った。
まさか。
そんなはずは。
「……今、なんて言った?」
「え?」
「もう一度言って」
「どうしたんだよ、スミレ」
だって、
だってそれは、
さっき思いついた設定で。
まだ、
ノートには書いていない。
私の頭の中にしか、ない。
それなのに、なぜ。
ふっ、と視界が真っ暗になった。
停電?
いや、停電じゃない。
なんだか様子がおかしい。
だって、――床が無い。
浮いてるみたいな、
沈んでいくみたいな、
今まで味わったことのない感覚だ。
「逃げろスミレ!」
ナギの怒鳴り声に、思わずビクリとした。
だけど姿が見えない。
上も下も真っ暗だ。
「ナギ? どこにいるの? 何も見えないよ!」
「俺は身動きが取れねえ! とにかく逃げるんだ!」
「逃げるってどこに!?」
「ヤツの言葉に耳を傾けるな!」
ヤツって、誰のこと!?
ざわり、と全身を何か嫌な物が走り抜けた。
いやだ。
すごくいやだ。
何かが私に近づいてくる。
真っ暗で見えないのに、気配を感じる。
ゆっくりと、
ゆっくりと近づいてきたそれは、やがて姿を見せた。
「――初めまして、小野スミレさん」
分かる。
この女性は、「黒の魔女」だ。
黒の魔女は、小説の中ではまだ一度も顔出し登場させていない。
だけど分かる。
だって私の頭の中には、あるんだもの。
黒の魔女の、細かなビジュアル設定が。
そしてその設定と寸分たがわぬ女性が、今、目の前にいる。
黒のロングドレスを身に纏い、
長い黒髪に、赤い瞳、赤い唇。
ああそうだ。
これこそが、
バルバデンスを恐怖に陥れた、黒の魔女だ。
「かわいそうにね」
黒の魔女が、私の頬に手を伸ばした。
ねっとりと頬を撫でられる。
ゾッとするほど冷たい手だ。
「あなたはただ、ハンカチをプレゼントしただけなのにね」
私は目を見開いた。
なぜそれを知っている。
「かわいそうな子。ひとりぼっちで、さぞ辛かったことでしょう。あなたは何も悪くないわ」
黒の魔女が、甘い声で囁いた。
私はただ、立ちすくむことしかできない。
「――ひどい友人ね」
魔女の声が、低いものに変わった。
「最初から企んでいたのかも知れないわ。こうなることを予想して、あなたのハンカチを褒めたのよ。全てあなたを陥れるための罠だったのよ。あなたは優しいから騙されてしまったんだわ。なんてひどい友人なのかしらね」
どうしてバレてしまったのだろう。
もしかしたら、そうかも知れないと。
一番初めに声をかけられた時から、仕組まれていたのかも知れないと。
考えたことがあるのを、この魔女はなぜ知っているのだろう。
「大丈夫よ、ここにいれば大丈夫。もう傷つくこともないわ。ずっとここにいればいいのよ」
魔女の言う「ここ」というのは、今いるこの真っ暗な空間のことなのか。
ここは一体どこなんだろう。
「ここがどこであろうと、あなたはもう、ここにいるしかないのよ」
私の心の中を見透かしたように魔女が言う。
「元の世界に、あなたの居場所は無いのだから」
ああ、そうだ。
その言葉を待ってたんだ。
肩の力がだんだん抜けていく。
私の居場所は無い。
誰かにはっきりと、そう言って欲しかったような気がする。
それでやっと、あきらめがつくんだ。
それでやっと、全てを捨てることができる。
私の居場所はどこにも無い。
だからもう、頑張らなくていいんだ。
あきらめると、とても心地良い。
ズブズブと身体が重く沈んでいく。
深い深い、真っ暗な海の底に、吸い込まれていくような感覚だ。
「いい子ね。そのまま眠っておしまいなさい。これでやっと自由になれる」
そうよ、私は、自由になるんだ。
やっと自由に。
「原作者のあなたを殺せば、私は自由になれる!」
魔女の笑い声が響いた。
自由になるの?
私じゃなくて、黒の魔女が?
「全て思い通りよ! バルバデンスも、読み手の世界とやらも! 私の魔法で全てを恐怖で覆い尽くすのよ!」
ヒステリックな笑い声と共に、何かがガラガラと壊れる音。
何が壊れているのだろう。
もしかしたら、世界そのものだろうか。
ガケ崩れのような轟音が響くが、相変わらず真っ暗で何も見えない。
身体も動かない。
どうしよう、大変だ、逃げなくちゃ。
だけど、
〝スミレはいつも逃げてたじゃねえか〟
そうだね。
私はいつも物語の中に、逃げ込んでいた。
〝へえー、小説書いてるんだ、あの子〟
〝書いてどうするんだろ。どっかに応募するのかな〟
〝違うでしょ、ドージンシってのにするんでしょ〟
〝ああ、あの、オタクがやってるヤツ?〟
〝とにかく、プロにはなれないワケだ〟
〝なんか、かわいそー〟
そうなの。
私って、かわいそうなの。
物語の中に、逃げ込むことしか、できないの。
それしか、できないの。
だから、
「うばわないで」
うばわないで。
「私の逃げ場所を」
奪わないで。
「奪わないで!」
動かない身体を、必死で起こした。
力いっぱいにもがいた。
手足をバタつかせた。
全身にまとわりつく泥のような、岩のような、おがくずのような、
私の行く手を阻む物をめいっぱい振り払った。
死に物狂いで掻き分けて、上へ上へと這い上がった。
奪わないで。
奪わないで。
返して。
私の逃げ場所は、私だけの物よ。
「アンタなんかに絶対に渡さないから!」
這い上がった先に、魔女がいた。
魔女が私を見て、大きく目を見開いた。
「愚かな子ね。あのまま楽に死ねたのに」
「私が愚かなら、あなたもそうよ!」
「何ですって?」
「だってあなたは、私なんだから!」
あなたは私よ。
黒の魔女は、私の中の、醜い私。
傲慢で、自分勝手で、臆病で、
誰のことも受け入れないくせに、
自分を受け入れてくれないと癇癪を起こして、
ひとりぼっちが怖いくせに、
ひとりぼっちが平気なふりをしている、
大っ嫌いな私そのものよ!
「――スミレ! 続きを書け!」
どこからか、ナギの声が聞こえた。
「物語の続きを書くんだ!」
物語の続き?
とっさに自分の両手を見た。
鞄が無い。
ペンもノートも無いのにどうやって!?
いや、できる。
私にはできる。
私にしかできないの。
だってこれは、私の物語だから!
「小娘のくせに随分と生意気ね。そんなに苦しんで死にたいのなら、お望み通り殺してあげるわ」
強気な発言とは裏腹に、魔女がゆっくりと後ずさった。
あなたは知らないでしょう?
あなたの弱点を。
だって書いてないもの。
魔女の弱点なんて、小説には書いていない。
「やめなさい、やめて」
魔女の目に、焦りの色が見えた。
一歩、また一歩と後ろへ下がる。
私は、一歩前に進んだ。
「やめて!」
魔女が叫んだ。
そりゃそうでしょう。
「黒の魔女の弱点は――」
全ては、私の頭の中にしか無いんだから。
「――残酷なほどまばゆい陽の光!」
突然目の前に、ナギが降って現れた。
「でかした、スミレ!」
ナギが、宝物を見つけた少年みたいな笑顔で剣を振り上げ、空間を真っ二つに斬り裂いた。
真っ暗な空間が裂けて、弾け飛ぶ。
見えたのは、金色の太陽。
突き刺すようなまぶしさに、思わず目を閉じたその時、
魔女の恐ろしい悲鳴が、私の鼓膜を直撃した。
これが断末魔というものか。
今まで聞いたことのない不気味な叫び声に、全身の毛が逆立った。
魔女の悲鳴は、どれくらい続いただろう。
数秒だった気もするし、数時間だったような気もする。
ようやく光に慣れて目を開けた時には、魔女の姿は無かった。
代わりにそこにあったのは、一面の緑。
見渡す限り、どこまでも続く草原だ。
地平線が見える。
頭上には、澄み切った青い空。
私の足元に、紫色の小さな花が咲いている。
ゆっくりとかがんで、そっと触れてみる。
本物だ。
柔らかい花びらに、ちゃんとさわることができる。
「大丈夫だったか、スミレ」
顔を上げると、ナギが優しい笑顔で立っていた。
「助けてくれてありがとう、ナギ」
「何言ってんだ。魔女をやっつけたのはスミレだろ」
「でも、私一人じゃ無理だった」
「言ったろ? スミレが立ち向かうと決めた時には、俺が必ず力になってやるって」
ナギが白い歯を見せてニカッと笑った。
そうだね。
ナギは、約束は必ず守る男だもんね。
「ナギのいる世界に行きたい」
ずっとナギと一緒に過ごせたら、どんなに素晴らしい毎日になるだろう。
「お願い。私をナギの世界に連れて行って」
こんなことを言っても、ナギを困らせるだけなのに。
どうしても気持ちを抑えられなかった。
「俺もそうしたいけど、できないんだ」
ナギが、眉を下げて微笑んだ。
うん。
分かってる
そうだよね。
私とナギは、住む世界が違うんだよね。
「スミレを連れて行くことはできねえが、繋がることはできる」
ナギが、そっと優しく私の頭を撫でた。
「スミレの書く言葉たちが、俺たちを繋げてくれるんだ」
遠くに大勢の人たちが見えた。
あれは、バルバデンスの村の人たちだ。
手を振ったり、こちらに向かって何かを言っている。
何を言ってるかまでは聞こえないけど。
みんなが笑顔なのは分かる。
良かった。
みんなが無事で、本当に良かった。
ナギは、あそこに帰るんだね。
私は、小説を書くよ。
私は小説を書くことで、どこへだって行けるし、何にだってなれるんだ。
「下ばっか向いてんじゃねーぞ、スミレ。俺たちの世界は、スミレの頭上にあるんだからさ」
「本当に? それって見えるの?」
「見方を少し変えればいいだけだ。俺たちはいつも繋がってる」
「分かった。きっとあなたを見つけるわ」
「スミレなら、大丈夫だ」
私は涙を必死で堪えた。
泣いてしまうと、視界がにじんでしまうから。
太陽みたいなナギの笑顔を、見つめていたかったから。
ずっとずっと、この目に焼きつけておきたかったから。
***
「よし、入れた……!」
正門をくぐったところで、私は大きく息を吐いた。
昨日はどうしても入れなかったのに、やればできるもんだ。
そりゃそうよ。
なんたって私は、黒の魔女を倒したんだから。
――昨日の、あの不思議な出来事の後、
気づけば私は、夕暮れの路地裏に一人たたずんでいた。
ナギと一緒に入ったカラオケ店は、どこを探しても見つからなかった。
そしてあの小説ノートも、鞄の中から消えていた。
でも、あれは夢なんかじゃない。
私はナギと一緒に魔女を倒したんだ。
いつかまたナギと出会った時、恥ずかしくない自分でいよう。
そう思って、今日は勇気を振り絞って学校に来た。
正門をくぐり、昇降口へと辿り着く。
ここまで来ればこっちのモンよ。
後はきっと、勢いで何とかなる。
自分にそう言い聞かせながら、下駄箱を開けて靴を履き替えていたら、
「小野スミレさん?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
セミロングヘアの女子生徒が立っていた。
見たことない子だ。
誰だろう。
上履きのラインが緑色なので、ひとつ年上の二年生だ。
「これ、小野さんのでしょう?」
差し出されたのは、一冊のノート。
表紙に、〈1年3組6番 小野スミレ〉と書いてある。
私が書いた小説のノートだ。
「……私の、です。どこにあったんですか?」
「正門のところに落ちてたらしいの」
らしい、というのは、拾ったのはこの人じゃないということか。
それに落ちてたって、いつ?
詳しく聞こうとしたら、
「ねえ小野さん、文芸部に興味ない?」
……文芸部?
突然、何の話だろう。
「あの、怒らないで聞いてね。中に書いてる小説を読ませてもらったんだけど……すごく面白かったから」
数秒間フリーズした後、顔に熱が一気に集まった。
読まれた。
私が書いた小説を、読まれてしまった。
今まで誰にも読ませたことがないので、どんな顔をすればいいのか分からない。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
「いきなりでごめんね。私、2年1組の笹原。よろしくね」
笹原センパイはにこりと微笑んだ。
「一応これでも文芸部の部長やってるんだけど、去年できたばっかりの弱小部でね。再来月にある小説コンクールも自信ないって言って誰も参加してくれそうにないし、最近はみんなマンガばっか描いてるし……」
マンガがダメって言ってるワケじゃないんだけどね、と笹原センパイが苦笑いした。
「小説コンクールの話は置いといて、とにかく本が好きな人が一人でも多く集まってくれたらすごくうれしいんだ。もちろんマンガ好きも大歓迎! 小野さんどうかなあ?」
笹原センパイが、期待に満ちた輝かしい瞳で見つめてくる。
――私が文芸部に?
ドキドキと心臓が鳴るばかりで、上手く言葉が出てこない。
「いい加減にしないか!!」
突然の怒鳴り声に、私も笹原センパイも身体を強張らせた。
声の主を探してみると、廊下の先で、男の先生が怒っている。
うちの学校で一番怖いと言われている、体育の岡本先生だ。
「何度言ったら分かるんだお前は! 学校に余計な物を持ち込むんじゃない!」
岡本先生が、一人の男子生徒に向かって説教をしている。
怒られている男子生徒は、こちらに背を向けているので顔は見えないけれど、
その後ろ姿からして、全く反省していないのは見て取れる。
「またアイツかあ」
笹原先輩が呆れた声を出した。
アイツとは、あの怒られている男子生徒のことかな。
「アイツね、夏休みの少し前にうちのクラスに転校してきたんだけど、ちょっと変わり者でさあ」
なるほど確かに。変わっているというのは、なんとなく分かる。
男子生徒の前にあるのは、農作業や土木作業などでよく見る、運搬用の手押し一輪車。
一輪車の上には、びっくりするほど大量の干し草が積んである。
なにあの干し草、どこから運んできたの?
私の身長と同じくらいの高さあるんだけど。
「保健室にね、干し草のベッドを作って昼寝するのが夢なんだってさ」
「……確かに変わってますね」
干し草も気になるけど、彼の髪の毛も気になる。
「あの髪の毛は……染めてるんですか?」
「きれいな金髪でしょ。染めてるんじゃないよ。ハーフなんだって。日本育ちだから日本語はペラペラだけど」
太陽の光のような、金の髪。
あんな生徒がこの学校にいたなんて、知らなかった。
だけど、あの金色の髪には見覚えがある。
「そうそう、小野さんのノートを拾って私のトコへ持ってきてくれたのはアイツなの。『中にすごい小説が書いてあるから、アンタんとこの部員のじゃないか』って」
ドキン、と心臓が跳ねた。
やっぱり。
間違いない、彼は……。
「ぶわっ! 何をするッ!?」
金髪の転校生は、あろうことか大量の干し草を先生にぶつけて、きびすを返した。
ものすごいスピードで私の横を走り抜ける。
一瞬だけ、目が合った。
忘れるはずがない。
昨日あんなにも見つめ合った、空のように青い瞳。
「待ちなさい!」
先生が鬼の形相で追いかけるが、彼の俊足には追いつけず。
しばらくして正門の方から、先生の怒号と、生徒たちの騒ぐ声が聞こえる。
彼はどうやら校外へ逃げてしまったようだ。
ああ本当に
バルバデンスでも、こっちの世界でも、
彼は自由すぎる。
ノートを両腕でぎゅっと抱きしめたまま、思わず笑ってしまった。
笑いすぎて、
視界がじわりとにじんだ。
ノートを拾ってくれたお礼を言わなくちゃ。
今度話しかけてみよう。
小説の感想も聞きたいな。
彼はどんな顔をするかな。
まずは名前を聞かないとね。
想像するだけでワクワクした。
「小野さん、気軽に遊びに来てね、文芸部。放課後に北校舎2階の会議室でやってるから」
そう言って笹原センパイは2年の校舎へと向かって行った。
センパイの後ろ姿を、ぼんやりと見送る。
いつもと同じ学校。
だけど、昨日までとは、何かが違う。
風のにおいも、目に映る光も、全てが変わった。
いやそうじゃない、
変わったのは、私の中の、「何か」なのだろう。
大変なことは、きっとたくさんある。
でも、
まだ見ぬ未来に不安を寄せるよりも、
早く小説の続きを書きたくて仕方がない。
「小野さん、おはよう」
教室に向かって歩いていたら、声をかけられた。
メガネをかけたロングヘアの女子生徒。
同じクラスの桃瀬さんだ。
一度も話したことはないけれど。
確か、少し大人しい感じのグループに所属してる子だ。
「小野さん、昨日の始業式休んでたよね。風邪?」
「う、うん」
「そっかあ。でも今日は来てくれて良かった」
「なんで?」
「いやあ、何て言うかその……二学期には絶対小野さんに話しかけようって決めてたから」
桃瀬さんが恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「小野さんて、いつも何か書いてるから、なかなか声かけられなくて。でもおしゃべりしたらきっと楽しい子なんだろうなあって、ずっと思っててさ」
信じられない。
そんな風に思ってくれてる子がいたなんて。
学校中の人から「ひとりぼっちのかわいそうな子」という目で見られてると思ってたのに。
ただでさえややこしい世界を、
余計にややこしくしていたのは、
私自身だったのかも知れない。
「ねえ小野さん、小説書いてるってウワサ聞いたけど、本当?」
「う、うん、まあ……」
「すごーいっ! 私、小説は書けないけど、マンガ描いてるんだ」
「そうなんだ。桃瀬さんの方がすごいよ。私は絵ヘタだからうらやましい」
「えへへ、小説の挿絵とか必要だったら描くよ! うちの学校ってなんでマンガ部が無いんだろうね。あれば絶対入るのに」
「文芸部に、マンガ描く人いるみたいだよ」
「えッ! 本当!?」
「うん。私も詳しくは知らないんだけど、放課後行ってみようかなと思ってて……」
「マジで!? 私も行きたい! 一緒につれてって!」
なんだかくすぐったいような感覚。
誰かと並んで廊下を歩くなんて、久しぶりだから。
朝から色んなことが起きすぎて、
頭がついていかない。
心臓が鳴りっぱなしだ。
桃瀬さんとおしゃべりしながら歩いていたら、廊下の向こうから愛莉華がやってきた。
すれ違う時に「おはよう」と声をかけると、愛莉華が少し驚いた顔をした。
〝下ばっか向いてんじゃねーぞ、スミレ〟
あなたの言う通りだよ。
少し顔を上げるだけで、
景色はこんなにも変わる。
さあ、物語の続きを書こう。
私だけの、物語。
秋の陽射しが、たっぷりと廊下を照らしている。
グラウンドでは、運動部員たちの元気な声が響いている。
あの青い空はきっと、どこにだって繋がっているんだ。
私は深呼吸をしてから、
顔を上げて、
教室のドアを大きく開けた。
【完】