神様のいない世界で
世界は中々に腐っている。
会社へ向かう途中。電車に揺られるスーツの群れを眺めながら、私はそう思った。
時刻は05:30、言うまでもない。
仕事は憂鬱だった。
特に四月のこの時期は自殺者も多い。更に憂鬱が背にのし掛かり、足取りは重くなるのだ。
「うわ。里江、何その睡眠薬……夜大変なの?」
「いや違うのー。ちょっと仕事で沢山ねぇ。一個要る?」
「いや誰に使うのよ暗殺者かよ。つかいらないから渡さないで単位がおかしい、一瓶はないでしょ普通一粒でしょ」
社員食堂ではよく女子グループが背後のテーブルで和気藹々と会話する姿が見受けられる。さて今日は何やら変な話題で盛り上がっている所、気にせず私は朝食を胃に収めていた。
正直、私はあの周囲にはあまり関わりを持とうとは思わない。
しかしあれは上司に当たる人物。ならば触れないように立ち去るのが無難だろう。
私は席を立ち、業務に戻ろうと歩き出す。
「君、今日回ってくるよ。頑張ってねー」
通り抜けた瞬間、そんな台詞が横から耳に入る。
ただ名前呼びではないし、他にも社員は山ほど席に座っている。私は気が付かないフリをしてもいいだろうと判断し、仕事机が待つ上階の職場へ逃げていった。
その職場は、朝礼から一日が始まる。
まずは定型文の挨拶、各種業務連絡、昨日の申し送りが済むと、夜勤組の社員は皆一様に帰宅の準備をしていく。
その中、私は自身の机のPCで資料を纏める作業をしていた。簡単な資料整理とは言え大事な業務の一つである。目を通して記憶に留めておくためにも、私はこれをサボることはない。
「よっ、おはようさん。今日も精が出てんな」
同僚が隣の席に着いたようだ。五分遅刻、まあいつものことなので誰も気にはしないが。
「そういやニュース見たか? 今月自殺者一位だってよ」
「若者の死亡率か。今朝見た」
見慣れたニュースだ。
毎年恒例、この月は多い。
「なんか、なんとも言えねえよなぁ。なんとか救えねぇもんかと思うんだがね」
「君に救えた試しがあるのか? 行動に起こしたことすらないだろうに」
「いや、馬鹿お前。現場に出くわしゃ全力よ」
「若い女だけが目当てじゃないのか」
「そりゃ当然だろ、男なんざ助けてどうすんだ。アドレス聞いて女紹介して貰う? ないね」
「君は思考回路から女という文字を省いた方がいい」
彼の戯言を適当に流しつつ、私は少しだけ中断していた作業に取り掛かることに。資料をデータに纏めるだけ、単純作業に流れ作業。
今日はそれで一日が潰れるだろう――私のその予想は、大きく外れることになった。
「お前に仕事、回ったってよ」
「……どんな風に?」
聞き返す。全く、資料整理はお預けだ。
資料整理中のエクセルに上書き保存をし、一度PCはデスクトップ画面に戻しておく。
私はちら、と彼へ首を向けた。
彼はあまり笑っていなかった。
「上司のおこぼれ、いや尻拭いさ。いつものこったろ? 後でまた通達があるからさ、まあ適当にやれよ」
私はやや間を置いて小さく首を横に振る。
「頑張るよ。仕事だから」
そうしてから、小さく呟いた。
「話は聞いているかな? 里江主任が君を評価していて、仕事の一つを君に任せたいと言ってるんだ。どう?」
少しだけ豪華な机と椅子。本部長の前に立った私は適当に「はい」と答えつつ、思い出す。
里江……ああ。頷く。私が好いていない、いや嫌ってさえいるあの上司――数字だけを稼ぐ怠け者――やはり彼女の尻拭いをするのは、私か。
私は本部長から仕事の資料を受け取る。それは今朝私が整理をしていたものと同じものだ。
右上に決定と判を押された下に、氏名が記載されている。名前は【斎藤 大地】。年齢は二十四歳。甲子園出場経験あり、有名大学卒業、商社に勤める会社員で、そこで一年間勤務。実家から離れて独り暮らし、未婚、また付き合いは無し、趣味は酒とパチンコ――など、様々なパーソナル情報を流し見ていくと。
その下に一番大事な情報が書いてある。
それが私の業務内容に関わることだ。
私は見る。
死因――【自殺】。
明日、四月六日に上司と揉め、終業後自宅にて睡眠薬を過剰摂取し風呂場にて溺死。
私は全て読んでから、資料を二つ折りにした。
「里江主任がこの前延命させたんだけど、また出ちゃってね。本来は確定判を押すつもりだったんだけど、君ならやれる、との太鼓判を貰ったんだ」
「そうなのですか。ありがとうございます」
「いやぁ、私も君を推していたんだよ。君だけが毎日報告書をきちんと纏めてくれていて、その精度も実に高い。真面目な君だから、是非とも私は君にと思うんだ」
「ご期待に添えましたようで何よりです」
「それで、これには私が未確定処理をしておいたからね。全権を主任から君に移すから、是非頑張ってくれたまえ」
「……はい。頑張ります」
これだから四月は憂鬱なのだ。
私はこの月が一番、死にたくなる。
人の死に沢山触れるから。
だがこれが会社の――私の仕事。
私達会社の人間は、人の未来を視ることが出来る人間の組織で――人の未来と人生を覗くことで見つかる『決定された死』を覆し、その死を回避する仕事である。
つまり今回は資料に書いてある斎藤なる人物の【自殺】を防ぐということであり。
私はあの上司の睡眠薬が何を意味するのかを瞬時に察し、嘆息一つ。
本部長には会釈を一つ、重い足を引き摺って踵を返すのだった。
次の日のことだ。私は昼前に職場を離れ、彼が仕事をしている会社付近まで足を運んでいた。
今日の彼は業務で住宅を回る外回り。しかし現在は昼休憩で、彼はこの付近で食事を取るそうだ。
私は彼がよく足を運ぶファーストフード店に入ることにする。
この時間は仕事休憩でスーツの人間が多いが、私もその例には漏れない。
そして私は当たりを付ける。店内を見て、歩いて、カウンター席に腰を下ろした。
「彼、か」
カウンターで隣合った男性の顔を見て、私はふと独り言を吐いた。
まだ若い、二十代前半の男性。髪を丁寧に整えて、しかし深い目の隈が彼の疲れ切った様子を露わにしている。
これが恐らく彼であろう。顔写真の特徴と一致している項目が多い。
「……ん、何です?」
左隣の彼は此方を向くと、怪訝そうに首を傾げる。
うっかり言葉が伝わったわけではないらしい。私は一息吐き、安堵した。
「失礼しました。いえ、私は左利きなもので。お邪魔になっていなければと思いまして」
「? ああ……別に大丈夫です。その、僕はもう出ますんで――お気になさらず」
とりあえず会話を。
何かを言おうとすると、彼は私の言葉を遮るように何故か焦って立ち上がり、よろめいた足取りで私から離れて出口へ向かう。
挙動がおかしい。普段通り、とは思えない。注視していなければ気にも止めないが――アレは、そういう予兆がある。普通の動作ではない。
だから私は焦らず留まり、その行為をただ見て、そして、視る。
彼の人生を観測する。
「ああ、やはり」
死が決定された人物は彼で合っていた。
斎藤大地。
今日の夜、自宅で睡眠薬……か。
――未来視。
彼女、私の上司はそれを使い、彼が買うはずだった睡眠薬を自分が買い占める等の目立つ行為をし――彼に退かせ、死を延命したのだろう。
そんな単純なことでは覆せないと知っていながら、ただ仕事を済ませて実績を一つ積み上げるためだけの踏み台に、彼を選んだのだ。
だが、そのままでは本当にただ延命しただけ。その後に同じ方法で死んでしまえば大した評価には繋がらない。
そこで仕事の全権を私に移行することで、彼女の評価は上げたまま私に汚れを押し付ける、と。
そういう算段だということだ。
まぁ、大体がその程度の認識でしか人の死など見ていない。
事故なら本人を少し足止めさせるだけで回避ができる。病なら早期発見で生存確率は格段に跳ね上がる。
しかしこういった自殺の場合、完全な外部である私たちがいくら尽力した所で――覆す難度は高いのだ。だから放棄する。
だから助けもせずに確定と判を押して流し、決定され死が確定した後に紙切れは意味もなく廃棄される。
ただ、少しズル賢い上司のような人物はそれを逆手にとって『延命』措置で評価を得るのだ。死は少しでも回避された時点で評価になる。部長も分かった上でそれを容認していた。
ああそうさ。
いつだって上は腐敗していた。
それはいつどこの世界でも同じだろうし、どこへ行ってもその腐った臭いは嗅ぐことになるのだろう。
私に仕事が回らないのは、私が愚直で真面目な人間だからだ。こういう仕事が回ってくるのは、押し付ければ汚れを勝手に掃除してくれるからだ。
皆、一様にこう言う。「私たちは」「僕たちは」「俺たちは」「神様じゃない」「だから」「自分に力があると思い上がるな」「助けられないものは」
――助けることなんかできない。
――未来視だなんて、そんなもの。
でもそれは違うではないか。助けられないのではなくて、助けないのではないのか。やらない内から否定するのは、何故なんだ。どうして自分が楽することばかりを考える。自分ばかりが上に行くことを考える?
確かにこの世界に神様なんてものは存在しないけれど。
人は人の都合で助けるし、助けないし、誰も無償じゃ動いてはくれないけれど。
流石に無償では私だって動けない。
そんなことは知っている。だって私は神様ではないのだから。
だが私は――私は。
だからこそ、私くらいは、この仕事に誠実でありたかった。
誰に? 死にゆく彼に? そうでは絶対にないけれど。
未来視なんて御大層な力を、ほんの少しでも所持しているのなら――助けてやりたいと、そう思うから。
私はこれより業務を執り行う。
そう決意して、懐の資料を右手でぐちゃぐちゃに丸めたのだった。