ルイスの愛
僕は僕の体が生まれた日を知らない。
人間のように母子手帳をつけてくれるわけでも鑑定書をつけてくれるわけでもない。
ただ後に聞いた話によると気難しい老宝石職人が僕を原石からカットしたらしい。
生まれた時は綺麗な銀色で、僕は一人きりで最高に輝いていた。
有名な貴族の娘のために特別にあつらえられた僕は、カットされてすぐに大きな銀製のペンダントに収められて鎖で繋がれた。
今でもそれは変わっていない。
意匠を凝らした台座の銀盤はもうくすんでしまって何が描かれていたか判別がつかないけれど、太陽が描かれていたようだ。
燦然と輝く太陽のシンボル。
なぜよりによって太陽のシンボルなのか。僕は産みの親であるその宝石職人に会って話を聞きたかったけれど今となっては多分もう遅い。
絶対死んでいると思うから。
あれは、そういつだったか。
少なくとも僕という存在が生まれてから何百年経った頃であった
僕は退屈していた。
だって今僕は誰の持ち物でもなかったんだもの。
窮屈なガラスに四方を囲まれ、下には人間の胸よりも座り心地の悪いシルクのベッド。
裏側だけ見えるプレートには「希少な32カラットのブルーダイアモンド:ピオニオットの審判石」と書かれているらしい。(頼まれもしないのに古代語の読めるお客が得意げにそう話していた)
つまり博物館の持ち物だったのだ。他の宝石たちにとってはそれは名誉職らしいけど、僕はいやでいやでたまらなかった。
毎日ガラス越しに僕をじろじろ見物してくる人々。ガラス板に顔を押し付けてじっと見つめてくる子どもたち。
本物かどうか訝しげに見下ろしてくる宝石商。
薄暗い博物館。日の光が差さないかびくさいショーケース。
僕を照らすのは無愛想なライト。
やめてくれ!僕は見世物じゃないんだ!
僕は誰かの胸にあってこそはじめて僕が生きていることの実感を得る。こんな無機質なシルクの上なんて僕がいるべき場所じゃないんだ。
日増しに元気がなくなっていく僕。それと共に僕の青さは色あせていく。
博物館の管理人はしきりに僕を眺めて、色が違うな、おかしいなと思ってるみたいだけど、なぜかは分からないようだ。
わからずやめ!僕をこんなとこに閉じ込めておくからいけないんだ!
激昂しても、その声は聞こえない。僕の声は本当の持ち主にしか聞こえない。
しだいに薄らいでいく意識。もうこのまま誰の手にも渡ることなく僕は死ぬんだ。
あきらめにも似た空虚さが僕の胸を満たしていた毎日。
そんな日の中、ふと僕はあることに気づいた。
この博物館におさめられてこのかた、必ず毎日同じ人間が来ていたのだ。
冴えない若者だ。金髪のなりそこないみたいなくすんだ茶髪。とがった鼻梁に薄い唇。
すりきれたTシャツに着古したダッフルコート。穴のあいた手袋からあかぎれの指がのぞいている。
若者は来るたびに子どものようにガラス板にへばりついて、妙にぎらぎらとした目を僕に向ける。
血走った目だ。
来る日も来る日も彼は僕を見つめている。見つめ続けている。
それは妙に胸騒ぎがする、クリスマスの日。
深夜の町はお祭り騒ぎ。博物館は休館日。
いつもならば巡回する警備員が今日だけは早々と帰宅してしまい、広々とした博物館だけがぽつんと置き去りにされていた。
スピリッツァのオルゴールが自分勝手に歌うのをぼんやりと聞いていた。どっかの饗宴の絵画がいつにも増してどんちゃん騒いでいて歌声をかき乱す。
突然歌声ばかりか宴の声までもがざわめいた。ざわめいて、そして静まり返った。
不気味なほどの静けさの中、ひたひたひたと忍ぶ足音が大理石の床に波紋のように広がる。
やがて僕の視界にちらちらと光が見える。
小さな懐中電灯。
その光は迷うことなく一直線に僕を射すとまっすぐに近づいてきた。
暗がりに浮かび上がる男の顔。
間違えなくそいつは僕を毎日見ていたあの男だった。
青白い肌をさらに白くさせて、肩で大きく息を吸っている。
ただし音を立てずに深く大きく。
「やっと、これで」
唇が声にならない白い息を吐く。
彼は慎重にセキュリティを外すと手袋をとり、僕をその手に取った。
彼のかさかさに乾いた手の中でシャランと澄んだ鎖音を立てる僕。
カンテラの光に燃え上がるような青に僕は輝いた。
彼は丁重に僕を首にかけた。
そして幾重にもマフラーやコートを巻くと足早に立ち去る。
僕としては久々の持ち主にすぐにでも話しかけたい気分だったが、彼の隠密行動の邪魔をしてはいけないと思いしばらく黙っていた。
彼は浮かれ騒ぐ街を避け、貧民街のあばら屋のひとつに身を寄せるとはじめてほうと息をついた。
それでもなお周囲をはばかるようにトトトトトトトとすぐそばの心音が僕に響く。
僕は頃合を見計らって囁いた。
「ねぇご主人。なぜそんなに怖がっているんだい?」
若者はいきなり心臓を鷲づかみにされたかのように「ぎゃっ」と悲鳴をあげ、体中の毛を逆立てているのを感じとった。
「落ち着いて。ご主人に害なそうってわけじゃないんだ」
「誰だ!」
「僕はご主人の胸のブルーダイアモンドだよ」
しばらく早鐘のような心臓の音ばかりが響き渡った。
ようやく僕の目の前のヴェールが一枚一枚はがされていく。
そして彼は上方から僕を見下ろして、呆けたように僕を見下ろしている。
燦然と青く輝く僕を。
「あの陰気くさいところから救い出してくれてありがとう。お礼を言いたかったんだ」
「どうやら俺は疲れすぎて夢でもみてるんだろうか」
若者は陰鬱な表情であばら屋の腐った木の天井を見上げた。
わずかに街明かりで薄明るい夜がのぞける。
「なぁ夢でもいいか。お前、俺の話を聞いてくれるか」
「なんなりとご主人様」
「今まで誰にも打ち明けられなかった。夢ならば話してもいいのだろう」
若者はその年齢にはふさわしくない重々しい嘆息をして、床に腰を下ろした。
「俺はしごく平凡な、なんの取り柄もない人間で、ただ平和に日々の糧を得ながら暮らしていればよかったのに。そうすれば一生何をも残すことなく、平凡にありきたりに死ぬことだってできただろうに。俺はよりによって最悪で、最高のくじをひいちまった。ご領主のお嬢さんと恋仲になっちまったんだよ」
「ははぁ」
長年生きていると色んな話を聞く。
若者の話はそうした雑音の中でとびきり耳を大きくしなくても聞こえるような話だ。
よくある、そして切実な話。
身分違いの恋。
「俺はしがない農民だ。だけどお嬢さんはご領収の娘。真っ正直に結婚させてくださいなんて言っても門前で殺されるのがオチだろう?だから俺は金でお嬢さんに釣り合う身分を手に入れたい。そのために、各地をまわってきた」
「ご資金繰りで」
「ただの資金ぐりならこうして告白する必要もねぇだろう。俺は神の背徳者だ。他人の物を盗み、それを換金する。盗賊に成り下がった」
淡々と若者は言う。まるで他人事のように。
「時に見つかり、人を殺しもした。後悔もした。だけどもう後戻りはできない。お前をもって俺はご領主にお嬢さんの結婚を申し込むんだ」
「それは僥倖で」
「ああ、なんていうギョウコウだ!」
若者は大の字になって床に寝そべり、皮肉げな笑みを浮かべた。
「なんていう人生!最悪のくじだ!」
彼は大きな両手を、顔面に押し付けて叫んだ。
「だけど愛してるんだ!どうしようもなく愛しているんだ!」
嗚咽が混じる。
それは魂の叫びだった。
身内にいくつかの魂を抱えている僕には分かる。
僕の中の魂がそれに共鳴してしくしくと泣いた。
やがて若者は静かに起き上がるとまた僕を注意深く隠して闇夜にまぎれた。
だいぶ時間がたって僕はすえた臭いのする室内にいた。
暗がりの明かりに出された僕。
そして眼前の小汚い男。商売人特有の鋭い目。値踏みされているようだ。
すぐ近くのランプの火に照らされてもなお僕は若い主人のために青く輝かせた。
「こりゃ本物だな。ピオニオットの審判石。冴えるような青だ。お前さんコイツの由来、知ってるかね?」
若者はどうでもいいというようにかぶりを振った。小男はニタニタと笑って、僕を指差した。
「こいつが青く輝くのは持ち主の罪を告発しているんだぜ。お前さん相当やらかしたな」
「……不愉快だ。出て行く」
若者は僕をひっつかむと荒々しくその店を出た。
僕を隠すことも忘れて、ひたすら周囲に気を配る。やがて脱兎のごとく走り出した。
どうやら追っ手がかかっているようだ。
若者は駆けた。
お祭り騒ぎの街を遠巻きに、浮かれた人々には決して聞こえない叫びを胸に押し込めながら、運命をさえぎる闇の手をふりほどき走る。
背後からの威嚇射撃に傷つき倒れながらも、また立ち上がり駆ける。
「ご主人。傷だらけですよ」
事実彼は体のあちこちから生命を垂れ流し今にもその冷たい石床で人生を終えようとしてもおかしくないのに、走る。
「うるさい」
まるで闇夜に輝く一粒の宝石のような人だ。そのたった一粒のために彼の闇はより深く、そして一粒はより輝いていく。
僕は覚悟を決めた。
「ご主人。僕と契約を交わせば、僕の力でお嬢さんのところまでお送りいたしましょう。なぁに契約といっても悪魔じゃないんで魂はいりません。単に僕をもう一度盗み出してその胸においてくださればいいのです。僕は博物館が嫌いなんで」
「お嬢さんにやってもいいか」
「もちろん。人間ならば誰でも!シルクのベッドだけはもうコリゴリです」
僕はそういうといっそう青く輝かせた。
それは若者の手を通り抜けて闇すら青く染め上げる。
追っ手の警察官(中には今夜当番の警備員もいた)が驚きに立ち止まる。
彼らが見ている前で僕と若者は光と共にかききえた。
主人の思いさえあれば僕には朝飯前のことだ。
すごい先輩の中には死者を蘇らせた石もいるようだ。
僕と若者は今とても大きな屋敷の裏庭に立っていた。
とても大きい屋敷だからか、夜だからか分からなかったけれど、そこはとても静かだった。
若者はしばらく突っ立っていたがやがてゆっくりと、傷ついた体を抱えながら慣れた様子で外壁を登った。
彼にとっては日常茶飯事の行動のようだ。
やがて最上階の部屋のバルコニーが見えてきて彼は身軽にそこへ飛び乗った。
驚いたのはバルコニーにいた先客だ。
寒そうな夜着に身を包み両腕を抱え込むようにしていたのは暗闇の中でも白い肌がまぶしい美しい娘。
彼女は青い目を見張る。
「ルイス!」
「遅くなった、ごめん」
低い若者の声。
二人はかたく抱きしめあった。
本当に愛し合っていたのだと両者に挟まれた僕には分かる。
そして僕は若者の胸から外され、お嬢さんの胸元へと移される。
再度瞠目するお嬢さんに、彼は笑った。
「似合ってるよ」
だけれどもお嬢さんは僕と彼を見比べ、みるみるうちに顔をゆがめた。
目にいっぱい涙を浮かべて、ぎゅっと僕を手の中に握りしめる。
「よくないうわさを聞いたわ。あなたが人を殺して、盗んで、お金をためてるって」
「お金のためじゃない君のだめだ!」
「なぜ!他人を踏みつけてまで私は幸せになりたくない!神様を裏切ってまで!そんな幸せなどいらないっ!」
「ミリシャ!」
娘はさっとバルコニーから身をのりだした。
とっさに若者の手が伸ばされる。だけど彼の手は間に合わなかった。
「神様。罪深きあなたを許してください」
涙に慈悲深い笑顔を浮かべて彼女はふわりと闇夜に浮かぶ。
そして地面に真っ赤な花弁を咲かせて死んだ。
また僕の目の前で人が死んだのだ。
さらに彼女のあとを追うように若者もバルコニーの上で死んだようだ。僕が押しとどめていた死が青年を襲ったのだろうか。
僕は冷たくなっていく主人となり得たかもしれない骸の上で、涙を流すこともできずに、肉体と分ちた魂を呼び寄せた。
傷ついた魂たちにおやすみと囁きながら、僕は燃え上がるように青い輝きを月夜に放ち続ける。
大昔に書いた短編小説です。せっかくなので残してみたくなりました。