エルフは人妻
「土乃日さーん」
ここは東京都八王子市の外れ、こじゃれたアパート「しじむら荘」。
夏のミンミンとうるさいセミの声を背に、俺はアパートの一室に向けて呼びかけていた。
「土乃日さーん」
「いい加減インターホン取り付けてよね」
隣に立つジャージ姿のエルフ──ミステルがじと目で睨んでくる。
この暑さにくわえて長い髪をしているせいで、俺より汗だくだった。視線にくわえて湿気がすごい。
「かよわい女の一人暮らしなんだから、カメラつきのインターホンにしてくれないと不安だって、ずっと言ってるでしょ」
「うるせー予算がないんだよ」
爺さんから相続したボロアパートを、とにかく人が住めるようにして、若者ウケするよう内装をリフォームして──
やっとこさ立派なアパートになってきたが、細かいところはまだ手がまわってないのだ。
今日もそんなボロ部分の修繕の仕事でやってきた。
「土乃日さーん」
返事はない。
「……留守か」
「そんなわけないでしょ。あんたの呼びかけが悪いのよ。名前で呼べって言ってるでしょ」
いや、そうは言っても。
「照れないでくれる? 気持ち悪いんだけど」
「う、うるせー!」
「はぁ……いいわよ、あたしが呼ぶから」
ミステルはぞんざいにドアを叩いて呼びかけた。
「アイシエルさーん、開けてくれるー?」
……トタトタトタ。ガチャリ。
「す、すみません、呼んでましたね──おはようございます」
ドアを開けて出てきたのは、エルフの女性だった。
緑の髪をふわりとなびかせて、頭を下げる。
「おはようございます、土乃日さん」
「はい、大家さんもおはようございます。今日も暑いですね」
にこりと微笑む。
涼やかで淑やかな声。すらりとした体型。慈しみの精神。
すばらしい。
彼女こそ、エルフの中のエルフだ。
隣に立っているずぼらずさんな残念エルフとは格が違う。
──たとえ、高尾山から来たのだとしても。
「ところで、できれば大家さんも名前で呼んでいただけませんか」
彼女は頬と耳の先を赤く染める。
思わずこちらもドキリとする──
「まだ、新しい名字には慣れなくて」
──土乃日アイシエルさん。
高尾山から来たエルフで──人妻だ。
──既婚者だ。
ちなみにダンナは人間で、昨年入籍したばかりの新婚さんだ。
ちくしょう、どうしてこの理想的なエルフがすでに他人の嫁なんだ。
「ね、大家さん」
「あ──ええ、そ、そうですね」
こほん、と俺は咳払いする。
「──あいして──ごほっ。あ、アイシエルさん、おはようございます」
アイシエルと愛してるは似ている。
名前を呼ぶたびに告白している気分で、ヤバい。
「にやけてないで、さっさと仕事始めるわよ」
「わ、わぁーってるよ!」
先に立ってズカズカとあがりこむミステルのあとを、あわてて追いかける。
「まったく、チャキチャキ動きなさいよね」
「お前、雇い主は俺の方なんだが」
「だから何よ? ひとんちの匂いとか嗅いでないで、仕事に集中しなさいよ変態」
「かっ、嗅いでねーよ!」
どうして同じアパートなのに匂いが違うのかとか、アイシエルさんの家はいい香りがするとか、そんなこと考えてねーし!
──考えてないからな。
まったく、これだから駄エルフは。
だいいち、態度がでかいのだ。修繕の手伝いをするかわりに家賃を値引くという約束なんだから、もっとしおらしくしてほしいものだ。
──まあ、そういう約束を持ち出してきたときからこんな感じではあったが。
「それで、水漏れってどこなの?」
「こちらです。この、ええと、水のところの下なんですけど」
アイシエルさんが台所のシンク下の扉を開く。すでに中は片付けられていて、状況が一目瞭然だ。
「上から水を流すと漏れてしまって。それで洗い物ができてなくて……は、恥ずかしいです」
「す、すんません、すぐ直すんで!」
おそらく連絡をもらった昨日の夜からの洗い物がシンクにたまっていた。
俺はそれをなるべく見ないようにして、シンク下に首を突っ込む。
「ああ、やっぱりパッキンとホースの劣化か……大丈夫、これなら簡単に直りますよ。交換用のやつ持ってきたんで」
「そうなのですか、助かります」
アイシエルさんがほっとして手を合わせる。
可憐だ。──人妻だが。
「それで……費用はいくらぐらいになるでしょうか」
「いやいや! そんな、お金を貰うわけにはいきませんよ!」
もともとそんな予感はしていたのだ。交換用の部材も、別の空き部屋のリフォームに取りかかったときに気づいて買っておいたものだし。
なによりこんな可憐なアイシエルさんからお金を貰うなんて、できるわけがない。
「でも……」
「いいのよ、アイシエルさん、気にしなくて。だいたいこのアパートを業者使わずにケチって自分でリフォームしてるやつが見逃しているのが悪いのよ、自業自得よ、アイシエルさんがお金を払う理由なんてないわ」
「………」
ぐうの音もでない、完璧な正論だった。
「そうよ、こんなボロアパート、家賃を払う価値だって……」
「わかった、わかったから、いいからやるぞ! ドライバー取ってくれ!」
余計な話をし始めるまえに修繕を終わらせようと、俺はシンク下により深く頭を突っ込むのだった。
◇ ◇ ◇
「あー、おわったー」
八王子市は今日も午前中から真夏日になり、修繕がおわった頃には汗がシャツから滴っていた。
「お疲れ様です」
アイシエルさんから受け取った麦茶を飲み干し、扇風機の風を浴びてようやく人心地がつく。
「やっぱ、エアコンがないと辛いな」
リフォームで取り付けるかどうか迷ったのだが、その時は他に予算を回す必要があって断念したのだ。よって、管理人室たる俺の部屋を含めて、どの部屋にもエアコンはない。
「次の部屋からはエアコンつけて冷暖房完備ってことにするかなあ。セールスポイントになるし」
「それならあたしの部屋にもつけてよ」
「自分で買えよ。取り付け工事の許可ぐらいいくらでも出すぞ」
「なんでよ! 同じ部屋なのに不公平じゃない!」
さほど汗をかかなかったミステルが、ずうずうしく主張する。
「うるせーな、もう客が住んでる部屋にこれ以上投資する必要はないだろ。釣られた魚はおとなしくしてろよ。とにかく俺は空き部屋をなくしたいんだよ」
「もしかして家賃同じで売る気? ならあたしその部屋に引っ越すから」
「ふざけんな契約違反だ!」
「なによこの横暴オオヤ!」
ミステルとにらみ合いになる。
と、それを見ていたアイシエルさんがクスッと上品に笑った。
「お二人は本当に仲がよろしいんですね」
「「どこが!」」
──ハモッてしまった。気まずくなって顔をそらす。
「私にはそんな風に意見をぶつけ合える友人はいませんから」
「アイシエルさん──」
「──旦那さんは?」
「勇者様は別です」
頬を赤く染めて照れるアイシエルさんは──人妻だ。
なぜかダンナのことを勇者と呼んでいる。
だがそれもいい。実に──エルフらしい。人妻だが。
「ていうか、あたしは? 友達だと思ってるんだけど」
「ミステルさん──! ええ、ええ、私なんかでよければ、ぜひ友人に!」
「水くさいわね、もちろんいいに決まってるじゃない」
「じゃあ、俺も──」
「あんたはダメ」
「なんでだよ! ほ、ほら、アイシエルさんがお前の友達なら、その友達の俺も──」
「いや、あんたは大家だし、友達じゃないから」
この駄エルフ、ひどいことを言う。
俺はさすがに抗議の声を──
「それとも旦那さんに、アイシエルさんに男友達ができたって報告されたい?」
「なッ──」
「あと、友達ってことなら」
ミステルの瞳が野獣のように輝く。
「家賃も友達価格にしてくれる? っていうか友達ならタダでいいわよね?」
「俺にエルフの友達はいない」
ここはこじゃれたアパート「しじむら荘」。
俺は大家で、高尾山からやってきたエルフは、たとえ悪魔だろうと人妻だろうと──
家賃を払うべき、店子でしかない。