魔王城 E
別に問題が解決したわけでも、人生観が変わる程の名言を言われたわけでもない。
だけど、自分自身を少し客観視してもらうだけで人は変われるのだ。
カルマは気を取りなおして階段をあがっていき、城のホールへの扉を開けた。
瞬時にその顔が疲労感に襲われていた。
城の食堂を覗いている者がいたのだ。
背中が開いたスリットの深い黒のドレス。透き通るような白い肌と肩から臀部にかけてのなだらかな曲線美。背中から生えた羽や頭にある角を見るまでもない。後ろ姿からでも十分にわかる美貌。この城の最高権力者が被膜に覆われた羽をパタパタと揺らしながら、食堂の扉を少しだけ開けて中を覗いているのだ。
魔物の王だったらこんなところで様子窺ってんじゃねぇよ。透視とか千里眼ぐらいやってみせろってんだ。
カルマは口の中でそうぼやく。
とはえいえ、彼女がそんな器用なことをできないことぐらいはカルマも知っている。
このまま、後ろを素通りすることも考える。なにせ彼女とは喧嘩中なのだ。だが、カルマはその食堂に用がある。腹が減っていた。昼飯を抜いてこの魔王と口論したのが今になってこたえてきていた。
そして、食べ物のある場所に辿りつくには魔王という障害が立ちふさがっていた。
カルマは小さくため息を吹き出し、その背中に声をかけた。
「・・・・・・なにやってんだ?」
極めてぶっきらぼうな声が出た。
「え?あっ!か、カルマ!な、なんでそっちから出てきたのよ!」
慌てふためくマリー。
なんでこいつが魔王と呼ばれているのかが不思議でならない。まぁ、威厳を保つ努力をしている間は多少は『らしい』とは思うが。
「俺がどっから出てこようと勝手だろ」
「そうね。わ、私もこの城の全ての配下の行動を制限するつもりはない。好きにしなさい」
強引に威厳を保とうとしているのが見え見えである。今更取り繕っても、もはや何の意味もないのだが、これも彼女の練習の一環なのだと割り切ることにした。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
お互い会話が途切れた。カルマは目を逸らして顔の右側に巻いた包帯の上から顔をかく。マリーもまた目線を逸らして自分の髪をいじっていた。
『気まずい』
今二人が同時に思っていることはそれであった。
そして同時に思っていることがもう一つ。
『謝らなければ』
喧嘩をして、仲直り。
カルマが子供の頃なら簡単にできたそれが今となっては何事にも代えがたい難しさを持っている。
間にあるのは『矜持』とか『建前』とか『立場』とか。多分、他人からしたらどうでもいいけど、本人からしたらとても大切なものだ。
結局、黙りこくったまま時間だけが過ぎていく。
カルマとしてはあんまり自分から謝りたくはない。自分はこの城の維持の為に必要なことを言ったわけで、それで雑言を叩きつけられたのだ。そりゃ、宝物庫という安直な案に飛びついていたんだが、これでも色々考えている。
『意地でも謝ってたまるか』
そんな思考を遮って、割り込んでくるものがあった。二人の友人からの助言だった。
『魔王様とはさっさと仲直りしてきなさい。どこまで行っても並行線なのは昔からでしょ』
ターニャの白い猫頭がそう言っていた。
『他者のことを理解するには必ず努力と相応のエネルギーがいるのだ』
ダンデールがモノクルを光らせながらそう言っていた。
そんな二人に今更ながら口の中だけで毒づく。
『ふざけんな』
二人共、気楽に言ってくれるものだ。誰かに謝る時のエネルギーは普通にコミュニケーションを取るよりも何倍もの力を必要とする。魔族はどうだか知らないが、人間はそういう生き物だ。そんな皮肉が頭を駆けた。
「人間・・・か・・・」
カルマは砂を吐くような重いで口を開いた。
「・・・・・さっきは悪かったよ。言い過ぎた」
「そ、そう?私は別に気にしてないけど。下賤な人間程度にどうこう言われた程度で揺らぐ神経は持ち合わせてはいなくてよ」
マリーが無理やり平静を装っているのがよくわかる。
証拠は指先だ。真っ白になっていた。血の気が引いて白くなるのは人間も魔族も同じ。彼女もまた緊張しているらしい。
謝る時の心的負担ってのは人間も魔族も大した違いはないらしい。
「あっ、その『人間』と言ってもね。ぜ、全部が全部下賤と思ってるわけじゃなくて、カルマは下賤だけど、いや、下賤じゃないけど」
「無理矢理フォローしなくていいよ」
「フォローなんかしてないし!」
「してるだろうが、下手くそなフォローを」
「下手くそって何よ!私はねぇ・・・・・・」
語尾が荒くなりかける。そのマリーが途中で口を噤んだ。
カルマが頭を下げていたのだ。
「わるかった」
「・・・なにさ・・・素直になっちゃって」
魔王に向かって頭を下げる。この姿勢は魔王に向かって首を差し出しているようで人間として、生理的に極めて辛いものだった。だが、それもまた謝る時に必要なエネルギーの一部なのだと割り切る。
「なんで、カルマが謝るのさ」
「俺が謝らなきゃ・・・終わらないだろ。お前は魔王なんだから」
『魔王』
彼女をそう呼ぶと、彼女はふて腐れたように髪の先を弄りだした。
「・・・先代程じゃないわよ」
「・・・うぁ・・・」
カルマの口の奥でうめき声のようなものが漏れる。さっきの口げんかで先代と比べたことをまだ気にしているらしい。
「だから、悪かったって」
「なにが?」
「だから・・・」
カルマは少し口を渋らせる。
『先代』というワードをこちらから出すとまたエスカレートしていきそうな気がする。けど、そこを突っ込まないと話が終わらない。
「先代と・・・比べたことだよ」
「別に気にしてない」
予想以上にぶっきらぼうな声だった。どう聞いても気にしている声だ。
「悪かったよ。マリーだって頑張って魔王やってくれているのはわかってる。俺が悪かった」
それだけ言ってもあまりマリーの表情は変わらない。カルマは残りの体のエネルギーを絞り出した。
「ごめん」
もう一度頭を下げる。目の前には磨かれていない石の床。魔王様の顔どころか体の一部も見えない。本当に首を差し出している気分だった。例えば彼女がその右手を振り上げて手刀を振り下ろそうとしていても俺にはわからない。魔力を固めた炎を作り出していても俺には気づく術はない。
相手は魔族。
次の瞬間には首が落とされていてもおかしくはないのだ。
たとえ、魔王様がそんなことをする方じゃないということを理解していても、可能性という恐怖はぬぐえない。幼い頃から一緒にいるマリーを相手にしてもそう思ってしまう。それほどまでに人間と魔族の間には明確な差があるのだ。
人間は脆く、魔族は強い。
カルマは背中に一筋の汗をたらした。
「面を上げなさい」
見上げると、その魔王様の顔はほんの少し青みがかっていた。
「そこまで言うのなら許してあげる」
その一言で胸のつっかえが取れた気がした。酸素が肺を巡って広がるように、手足の先まで安堵感が広がっていった。
「でも、次は無いからね。覚悟しておきなさい」
マリーはそう言って細い指をカルマに向けた。もし自分が騎士だったら、手の甲に口づけしたり、誓いの言葉でも並べたりするのだろうか。
だが、自分はただの財政係の倉庫番である。厳粛な顔よりも笑顔の方が大事だった。
「ありがと。魔王様」
「そ、それと・・・ね」
「ん?」
ふと、彼女の顔を見るとさっきより青みが強くなっている。彼女の顔に血が上っている。
怒っている?いや、どちらかと言うと照れているような雰囲気だ。
「それで・・・お金・・・そんなにいるの?」
「まぁ・・・そうだな・・・具体的な数字はもう一回計算しようとは思ってるんだが、やっぱり苦しいと思うぞ。今から節約していかないと、本当に冬は・・・」
「カルマ!」
話を強く遮ってくるマリー。
「ど、どうした?」
「これっ!」
手のひらを差し出してくるマリー。その白い手の上に一つの指輪が乗っていた。
「これは・・・」
豪華とは言い難いが、綺麗な指輪だった。金色のリングに銀細工が施され、カルマには読めない文字が彫り込まれている。そして、リングの中央には小柄な青色の宝石が一つはめ込まれていた。さほど大きいものではないが、それゆえに静かで上品な雰囲気を醸し出していた。主張して美を振りまくのではなく、身に着けた主人を引き立てるための指輪。
彼女の指にはよく似合うだろう。
カルマはそんなことを思った。
「これなら、お金になる?」
宝物庫の物を売るのをあれだけ嫌がっていたマリーだ。多分、これは宝物庫の品じゃない。
ということは・・・
「これ、マリーの私物じゃないのか?」
「そうよ。だから気にしないで」
カルマは眉をひそめた。自分の包帯と顔の隙間を爪で軽くひっかく。
彼女の私物を売るのは気が咎めていた。
「いつ手に入れたんだ?」
「さぁ、いつだったか忘れたわ。どこかの宝箱の中にでも入っていたんでしょ。私の部屋で埋もれているよりはカルマが使った方がいいでしょ?」
マリーはこれを渡すためにここまで来てカルマを探していたのだろうか。
そう思い、首を横に振る。
違うか。
きっとマリーも、謝るタイミングを探してくれたのだろう。
カルマには彼女が金の工面を考えてくれたことよりも、その気遣いの方がとても嬉しかった。
「・・・・・・」
だが、少し弱った。
カルマはこの指輪を売ることに気が進まない。
信頼できる店を知らないわけではない。宝物庫の品を売買するつもりだったのならそれぐらいの伝手は準備している。問題はこのリングが魔王様の物だということだった。
彼女に身銭を切らせたことの罪悪感はある。マリーの指に嵌めているところを見たかったという羨望も否定しない。これをマリーが身に付ける以上に似合う女性がいないだろうというちょっと口には出せない本音は一生外に出る機会はないだろう。
ただ、それ以上に現実的な問題があった。
これは所謂、『魔王の指輪』になるのだ。
魔王の傍に長らく置いてあったことによる力の残滓みたいなのがこいつには纏わりついている。
カルマには知覚できていなかったが、この指輪には既に魔力が備わっていた。他者に影響を及ぼすレベルの魔力ではないとはいえ、見る人が見ればすぐにわかる。
これを売り払うのは少し慎重にならなきゃいけなかった。何せ魔王と関わりのある品だ。普通に手に入れたと言い張るには少々派手すぎる。下手に足をつけるとそれこそ討伐隊が組織される事態になりかねない。
カルマは魔王城を維持させるには『戦争』が一番早いとは思っている。だがそれは、こっちが確実に優勢である戦であることが大前提だ。不特定多数を呼び寄せる可能性があるこの指輪は爆弾に近い存在だった。
「・・・売れない・・・かな?」
「・・・ぅぁ・・・・」
カルマの口からまた変な声が漏れた。マリーの声に当てられそうだった。
彼女の耳当たりの良い声でそんな泣きそうな声を出されると、こっちの理性が立ち行かなくなる。これじゃあ魔王というよりも妖魔の類だ。
「売れなくは・・・ないと思うけど」
世の中には物好きも多い。買い手は必ずつくだろう。
「そう。それじゃあこれで金策を整えなさい。私の中古だから。多少、値段が低くなるかもしれないけど」
『魔王が使った品』逆に付加価値がつきそうなもんだが、カルマは黙っていた。
「それで、まだお金が足りないようならその時は言いなさい。城の為と思えば安いものよ」
「あ、ああ。ありがと」
マリーはまた身銭を切る気だろうか。その心意気はとても嬉しい。だが、カルマにかかる心労は余計に増した気がする。魔王様にこうして渡された以上、これは金に換えるしかない。
これはある種の命令なのだ。
『宝物庫には手を出さずに冬を越せ』という。
カルマは上機嫌に羽を動かして階段を上っていくマリーを見送りながらため息を吐き出したのだ。
「まぁ、とにかく飯だ。飯」
カルマはそう呟いて食堂の扉を開いた。まだ昼間の喧嘩の残滓が残っている食堂。食事時を外したそこは奇妙なほどに静かだった。