魔王城 D
仕事をしなければならない。わかってはいるのだが、どうも手が出ない。
これからやるべきことは買い出しの準備、つまりは予算の概算である。
だが、こうも色々なことが一日に重なっていてはもう少し現実逃避を決め込んでみたくもなる。後が辛くなるのは目に見えていたが、今は目先の感情を優先してしまった。
そんなカルマが足を向けたのは城の中でも有数しかないカルマの憩いの場だった。
一階の正面ホール。その右側の壁にある小さな扉を開ける。そこは地下へと続く階段が暗い口をあけていた。
壁に並んだ松明に火はつけない。松明代がもったいないというのもあるし、なにより必要なかった。地下へと続く階段には一定間隔で白い光を放つ炎が浮かんでいた。
後ろ手に扉を閉め、一直線に続く階段へカルマは足を踏み出した。足を踏み外してもいいように壁に手をつけて進む。地下へと潜っていくと、次第に地上の穏やかながらも賑やかな音はなりを潜める。代わりにあるのは耳が痛くなるような静寂の世界。カルマの革の靴が立てるコツコツという音がやけに大きく聞こえてくる。
しばらく歩いていると、今度はその静寂が破られるようになってきた。
地下から声がするのだ。その声はやけに興奮している。
石の壁に音が反響しているせいで、そのどれも意味不明な音の塊だった。その中からわずかに聞き取れる単語もある。だが、カルマには単語の意味自体がそもそも理解できない。
できるとしたら「最高だぁ!」とか「これだ、この反応だ」と言った意味をもたない感嘆ばかりだ。
階段を降りきると、白いホールへと出た。
白い光を放つ炎に照らされた広い部屋だ。そこには見渡す限りに鍋と薬品を詰めた瓶が並んでいた。それらを乗せる机は誰かが適当にかき混ぜたかのように無秩序に並べられ、まるで迷路かなにかのようだ。
壁際には棚が立ち並び、色とりどりの薬品を詰めた瓶が並んでいる。天井付近には一際強い光を放つ炎が浮いており、まるで太陽の下のような明るさだった。
そして部屋の主はというと、部屋の奥に設置された竈の前で鍋の中に次々と薬品を放り込んでいた。
彼の背恰好は普通の人間と変わらない。白い無地の服を着た細身で高身長な後姿だ。だが、彼の頭には山羊に似た角が生えていた。彼も血の青い魔族であることはカルマも良く知っている。
「いいぞ、いいぞ、いいぞ!もっとだ!もっと力をぉぉぉ!」
あんたの力は関係ないだろ。
カルマは心の中でツッコミを留める。口にしたところで無意味なのは長年の経験で知っていた。
代わりに口からこぼれる感想は「よくやるよ」である。
カルマは机の合間を縫うように近づき、彼の後ろの椅子に腰かけた。
「ふははははははは、最高の出来だぁぁあ!」
そんなカルマに気が付く様子もなく、彼は一心不乱に鍋の中身を観察し続けていた。
正直どうでもいい。どうせ金にはならなないのだ。
カルマは机の下を探り、小さな樽を引っ張りだす。蓋を取ると嗅ぎ慣れた良い匂いが鼻を刺激する。カルマの頬が自然と緩んだ。カルマは持参した木製の容器で樽の中身を掬った。
「よーしよしよし・・・・ふむふむ!よしこれなら・・・あれ?あれ?」
カルマは口をつけようと持ち上げた手を止めた。
目の前の彼が後ろ手で横のテーブルの上をまさぐっていた。彼のもう片方の手には石灰が握られていることからメモ用の黒板でも探しているのだろう。放っといてもよかったが、テーブルの上にはインク瓶が乗っており、少し危なっかしい。
「はぁ・・・」
小さなため息を吐き出し、カルマはコップを置いた。
「うむうむうむ!この反応だ!この反応なのだ!つまり、加算した割合は・・・」
黒板を片手で探しながらも、決して鍋から目を離さない執着心は立派だと思う。
でも、できるならそういう情熱は他に向けてほしいものだ。カルマはまだ手探っている手に黒板を乗せてやった。
「よし!なるほどなるほど!」
カルマが渡したとは気が付きもしないのだろう。彼は渡された黒板に次々と文字を書き連ねていく。何を書いているのかカルマにはわからないし、興味もない。
カルマはようやくコップを手に取り、中身を喉に流し込んだ。舌に走る苦みと、胃を焼くような刺激、それと喉が潤う爽快感。やっぱりエールは最高に美味い。
「よしよし・・・ふぅ、とりあえずこれで実験は終了・・・って!カルマじゃないか。いつからいた!」
振り変えったのは男の姿をした存在。白い髪を振り乱し、片目にはめたモノクルが白い光を反射して光っていた。
「邪魔してるよ、ダンデール」
そう言ってカルマはエールが入った容器を掲げる。この城で誰の許可も無くエールを飲める場所はここしかなかった。厨房の酒樽も魔王用の酒も管理は徹底している。カルマ自身がそうさせたのだ。
何せここの連中は酒のことを井戸からかってに湧き出てくるものだと考えている節がある。放っておけば一日で倉庫の樽は半分程消えるだろう。それはそれで食糧庫の容量不足は解決しそうだが、それとこれとは別の問題である。奴らは酒を飲み始めたら、食糧庫の中身の大半が『つまみ』として消えてしまう。
そんな訳で酒がこの城で振る舞われる機会は極端に少ない。カルマが食料・酒に関しては厳格な基準を設けた。だが、そんな決まりに穴を造ったのもまたカルマ自身だった。
カルマだって飲みたい日があり、飲みたい時がある。
その為に設けたのが『特例者』である。
自由に酒を飲むことのできる身分を持つ魔族。
魔王様や目の前にいる魔神様などがそれにあたっている。そのおかげでここには彼が望むだけのエールがある。
「なんだ、久々に来たと思ったらエールが狙いか」
「悪いか?」
「悪くないけど。たまにはこの私の実験に興味を持って降りてきて欲しいものだね」
彼は気さくにそう言ってカルマの隣に腰かけた。そして、ダンデールは手近にあった容器でエールをすくう。
その容器はさっきまで実験に使われてた液体が入っていたはずだが、深く考えないことにした。その容器の側面に黒い骸骨が描かれているが、やはりそれも気にしない。何が入っていたかを知って気分を悪くするのはカルマだけだ。
魔神様はエールを一息に飲み干した。
「っぷはぁ、一仕事終えた後のエールは最高だな」
「金にならない仕事だろうが」
「私の知的欲求を満たす仕事だ。あっ、そうだ。薬品や鉱物が足りないから今度大きな街に行った時に買ってきて欲しいものが」
「は?」
「・・・無理か」
「わかってくれて嬉しいよ」
「わかってしまった自分が悲しいよ」
ダンデールは一気に酒を飲みほして、もう一杯に手を付ける。
「で、今日はどうしたんだい?悩める子羊を導くのはこの魔神、ダンデール様の役目だ。なんなりと言うがいい」
芝居がかった台詞回し。挑発されているわけではないのは知っているので軽く聞き流す。
「いや、エールを飲みにきただけだよ。ダンデールが実験中なら数杯拝借して帰るつもりだったさ」
「ってことは、俺が力になれることは何もない?」
「ないね。断言していい」
そう言って、またエールを一口。苦み走ったこの黄金の液体は最高だった。地下室という環境のお陰でいい具合に冷えている。
「貴様、この魔神にできないことがあると!そう言ったのかぁぁ!」
「ああ、言った」
「喧嘩を売りに来たんだなぁぁぁ!」
「金欠だから買ってくれると嬉しいけど・・・城の中で金動かしてもなぁ・・・」
「うはははははぁ!ちなみに我は一文無しよぉぉぉ!」
知ってるっての。
やはり口には出さずにエールを一口含む。
「さて・・・」
ダンテールは一通りテンションを上げて落ち着いたらしい。ダンデールの声のトーンがいくつか落ちた。魔神ってのはなぜかいつも、どこか歌劇的だ。
「どうだい、最近の地上の方は?」
「特に変わってないよ。夏が終わって秋が来た。もうすぐ冬になる」
「そうかそうか、それは僥倖」
「僥倖なもんかよ」
「ははは、金か」
「俺が悩むとしたら金のことか・・・あとは・・・」
「自分が人間であることぐらいか?それで、今日の仕事をさぼって酒を飲みに来たのはどっちが理由かな」
そう言って魔神を名乗る彼は優しく微笑んだ。
「金・・・ってのはあるけど・・・今はどっちかっていうともう一方の気分かな」
ターニャとも言い合いになりそうになった自分を思い出す。
八つ当たりをする一歩手前だった。踏みとどまれたのは自分に体力が残ってなかったからない他ならない。
「どうして俺の血は・・・赤いんだろうな・・・」
アルコールが極めて薄いエールなのでカルマが酔っているということはない。もし、酔っているとしたらこの魔神のせいだろう。そのせいか、カルマの口からは簡単に弱音がこぼれ出ていた。
「それは、君が人間だからだ」
「そんな当たり前の答えは聞きたくない」
1+1=2であることをもう一度説明された気分だった。
「魔族に産まれたかったか?」
「・・・こまるんだよ・・・本当に・・・というか、今も困ってる」
ダンデールはカルマの手から空になった容器を受け取る。彼は樽からエールを注ぎ、カルマへと返す。エールを渡されたカルマは一気に中身を飲み干した。
自棄を起こしたような飲み方だった。器から口を離した後にこぼれ出たのはやはり弱音だった。
「そしたら、もっと魔王様のこととか、皆のこととか、もっとわかったはずなんだ」
魔王は飯を食えなくなって飢え死にしてもいいと断言した。ターニャは城の外観を優先しろと言ってきた。
「わからないんだよ。魔族の・・・価値観って奴がさ」
「毎年この時期にこぼれる愚痴だな」
ダンデールに言われ、去年も似たようなことをここでぼやいたことを思い出す。
「・・・ごめん」
「いや責めてるわけじゃないんだ。というよりも、カルマがそういう話をしにきて、私は一年という時間を感じるんだよ」
「たまには上に出てこいよ。魔王様だってちょっとは心配してると思うぞ」
「はっはっは、この私を地下から引きずりだすのは先代の魔王様でも不可能だったのだ。今の魔王様とて同じことよ。ふぅあっはっはっは」
わずかにまた劇団めいた口調になるダンデール。
「とはいえ、命令が下れば上がらざるはおえんがな」
「魔神のくせにか?」
「魔神が魔王に勝てるわけがないだろう」
「・・・・・・」
『神』と『王』
カルマはどっちが偉そうかと言えば『神』と答える。だが、魔族からしてみたら逆らしいのだ。
カルマの意見は『神が魔物も魔王も人間もひっくるめて全部つくったんなら、神様の方が上だろう』で、魔物からしてみれば『我らを造ったのは神だ。だが、我ららの危機を救えるのは王だ』ということ。彼等からしてみれば『神』より『王』の方が権力的な意味では強い称号だという。
この辺も価値観の違いだよな。
魔族だらけの環境下で過ごしておきながら、到達した価値観は彼等とは違う。結局、流れる血の色のせいなのだとカルマは思っていた。
「まぁ、それは仕方あるまい。我々と人間では寿命の長さも、培われてきた文化も、崇める神も異なる。それ故に戦争が起きるのだ」
「戦争なんて起きてないだろ。ついでに崇める神様だってマリー達は普通の人間とたいして変わらないし」
「それはここだけさ。城の外に目を向けてみろ。毎年冬になれば有名な魔王城を倒そうと大遠征が行われている」
「そういう城は維持するのも簡単そうだな。というか、城の地下に引きこもっといて何がわかるんだか」
カルマがそう言うと、ダンデールは大口を開けて笑った。口の中の異様に長い八重歯がむき出しになる。
「ふはははははは!我は魔神なり!人の世のことなど全て我には手に取るようにわかる!近しい未来も、永遠なる力も、全ては我の掌なり!」
やはり聞き流す。そんな与太話は幼い頃から聞かされ続けて既に耳にたこである。
「とまぁ、私の話はいい。私はカルマの話に興味がある」
振られた話題に少し口を噤む。ダンデールは悪魔らしからぬ優しい笑みを浮かべて、カルマを待っている。
俺の愚痴なんて聞いても面白くもないだろうに。
一度口にしてしまえば溜め込んでいる不満を一方的にぶちまけてしまうのは目に見えていた。魔族に対して言いたいことが喉元まで迫っている。
でも、相手は魔神とはいえダンデール。彼はカルマの大事な友人の一人だ。あんまり相手の都合も考えないのはそれこそ『人としてどうか』という気持ちにもなる。
そんなカルマの態度を悟り、ダンテールは自分の胸を叩いた。
「今日は時間がある。実験もいい結果が出たしね。とことん付き合ってやるよ。さぁ、ドンとこい!」
カルマは口の端で小さく笑う。
「ダンデールがこの城にいてくれて本当に良かったよ」
「そうか?そういえば、カルマに読み書き計算と人間の常識は私が少し教えたな。あの頃のカルマはまだ小さかったものだ。私や先代の後ろを小さな足で歩いてきて・・・んー・・・思い出すだけで頬がにやけるな!そういえば、巨人用の武器を持てるようになって皆を護るとか言ってたのもあの時期だったか?あの後の事件は大変だったな。それと、私の研究室で薬品をなぁ・・・ちょうどあの辺だったなぁ」
「さて、愚痴を聞いてもらおう」
その話題を二度と出させてなるものか。
カルマは話題を過去の自分から今の自分に戻した。あの頃にしでかした幼くも命知らずな出来事をカルマは心の奥底に封印しているのだ。蒸し返されるぐらいなら愚痴をこぼすことを躊躇う理由はなかった。
「最近といえばだな、あいつらまた勝手に宴会をしてだな・・・」
少し話し始めると、溜まっていたものがスルスルと口からこぼれていく。
「
あいつらはやっぱり優先順位が間違ってる」とか「マリーの奴は俺の大変さをわかってない」とか「人間だから仕方ないだろ」とか。もちろんそのどれもが本気で思っているわけではない。
ダンテールはだいたいのことは同意してくれ、大きく間違ったところははっきりと『違う』と言ってくれる。
そのせいか、カルマとしては好きなように話せるから気が楽だった。
カルマが喋り疲れたと感じたと思えば、ダンテールは地下での機知に富んだ実験を面白おかしく聞かせてくれる。
「それでさっきの実験なんだが、あの液体に二枚の板を浸すとな」
「浸すと?」
「間に通した糸が切れるんだ!」
「へ?」
「だから、板の間に通した糸が私が一切触れることもせず、魔力を行使することもせずに切れるんだよ!これぞまさに小さな炎!いや、極小の雷だ!」
「それって、なんかの役に立つのか?」
「糸を切りたいのなら鋏の方が簡単だな。炎や雷が欲しければ私が魔力で造った方が早い」
「要するに?」
「私の知的欲求は刺激された」
「それだけかよ」
「いやいや、まだまだ改良の余地はあるのだぞ。例えばだ・・・」
彼が聞き上手話で話し上手なのもあり、話も酒もはかどる。エールが入っていた樽はいつの間にか空になっていた。酔いが回った感じはないが、話に酔った気分だった。
「あぁ・・・久々にこんなに喋って笑った気がする」
カルマは杯を置いて椅子に深く腰掛ける。背中や肩の筋肉が良い音をたてた。
「よくないぞ、そういうのは。心に余裕がない証拠だ」
「懐に余裕があれば、もう少し気が楽なんだがな」
「カルマの場合、それだけじゃないだろ?」
ダンデールは酒樽の底に残ったわずかなエールを自分の瓶に注ぎ入れる。
「あまり深く考えるな。我ら魔族に容姿の違いはつきものだ。鬼だって、子鬼と大鬼じゃあ全然違う。ましてや人間と我々の姿が違うのは当たり前。ならば、考え方も違ってもなんら不思議はないだろう?」
ダンデールはそう言って笑った。いつもながら悪魔らしくない優しい笑顔だ。
「そんな他者のことを理解するには必ず努力と相応のエネルギーがいるのだ。その真理は変わらない。どんなことをしてもだ。魔力で心を読もうと、未来をこの目で見ようと・・・」
ダンデールは少し言葉を選ぶような間を置いた後、続けた。
「例え、カルマが魔族に生まれ変わったとしても歩み寄る努力は必ず必要になるのだ」
説教くさい。そう切り捨ててしまうのは簡単だ。ふて腐れて耳を閉じるのも簡単だ。だけど、友人の言葉だ。言葉は耳朶すらすり抜けて脳と心に滑り込む。
「魔族同士でも心を通わすのがどれだけ難しいかというのは、カルマも理解しているだろ。でなければこうも毎日喧嘩は起きない」
「まぁ、確かに・・・」
「カルマ。悩むのはいいことだ。だが、それで目先の目的を見失っちゃいけない。私も目の前に興味深い現象が起きてしまった時はそれはもう、全てをそっちのけにして現象の解明に心血を注いでしまうというものだ」
話が脱線した。だが、この魔神は気づかない。悦に入ったように自分のことを話し出す。
「しかし、どうしてこう自然現象というのは素晴らしいのだ。自然科学において魔力というものは一切関与しない。何の力も関わっていないのに、森に雷は落ちる、火は全てを飲み込んで燃え上がる。温かいものは上に、冷たい物は下に。二つの別の存在があった時、その境界は無数の物理現象の宝庫である。否、全てと境界とはそれそのものが現象の母であるのだ。二種の酸を混ぜ合わせれば塩になり、三種の酸を混ぜ合わせれば調味料にもなり上がる。ああ、だが、それらの組み合わせは微妙なバランスの上に成り立っている。それは魔力では干渉できない領域。度重なる量と質のせめぎ合いの上のある一点でしか存在することはできないのだ。それを証明するのは全知全能と言われる神でも、全てを支配することができる王でもない。多大な時間と膨大な実験の記録のみがそれらを証明する手段なのだ。実験と検証、仮説と実証、その積み重ねこそが天へおわしまし神々へと続く階段で、地に眠りし神々へとたどり着く洞窟なのだ。だが、問題は我の理解の範疇ですら超越しながらも存在している。たとえば空を見上げるとしよう。そこには巨大な渦が起こることがある。極小の水滴と氷によって世界の動向を変えることもある。風はどこに行く?雲はどこに行く?そして、我々に恵みをもたらす雨は何処からやってくる。この世は全て私の掌の上と言ったな。あれは嘘だ。私はこの小さな実験室で起こりうることの全てを把握することすらできないのである。ましてやこの天空に浮かぶ様々な現象に関して言えば我は理解することすらできはしないのだ」
うっとうしい。そう切り捨てた。面倒だと耳を塞ぐ。彼の言葉は一切カルマの耳に届かなかった。
「・・・おっと、話がそれたな」
「まぁ、言いたいことはわかったよ。理解し合うのは難しいってことだ。だったらそんなくだらないことに悩む必要はないと・・・」
「違う。カルマは自分と周囲の違いをもう少し重要視すべきだという話だ」
そう言ってダンデールは鋭い爪をこちらに向けた。
だが、内容は今一つ理解できなかった。
「どうしてそういう結論になるんだ。みんな違うんだから悩むだけ時間の無駄だって言いたかったんじゃないのか?」
「そうではない」
ダンデールは瓶の底に残ったエールの水滴を啜り、瓶の淵をかみ砕いた。
「我々魔族の意見は一つではない。この城にいる皆は各々に違いがあるのだ」
「それはわかってるけど」
「だからこそ、全員の欲望を満たすのは不可能なのだ」
「わかっているよ」
「わかっていない。私が言う全員とは、カルマ、君自身も含んでいるのだぞ」
言葉に詰まった。
「図星だろう。カルマは魔族を基準に考えすぎている。この城を構築する者はカルマを除いて魔族だ。だが、だからと言ってカルマ自身を軽視する必要は一切ないのだ。君が望む方法が正しいと思うなら実行するべきだ」
「それが・・・全員の反感を買うとしてもか?」
「全員ではない。カルマ以外だ」
「同じだろ」
「同じではない。全然違う」
「言葉遊びさ」
「決してそうではない。カルマ。君は自分が我が城の一員であり、魔王様の配下の一人であることを今一度理解しないといけないよ」
その台詞には覚えがあった。言われた場所はここ、相手も同じ、時間はちょうど一年程前だ。
「それ、去年も言われたっけ」
去年も、そして一昨年も言われたような気がする。
「我々は忘れる生き物だ。人も魔族もな」
「鬼共の忘れっぽさは異常だと思うけどな。とはいえ、成長してないのは俺だけかね」
「そんなわけあるまい。我々もまた成長の途中だ。魔王でさえもね」
ダンデールは最後に残った瓶底を飲み込み、かみ砕いた。
「というわけだ。それを理解したなら、さっさと上に戻りたまえ。そして、やれることをやるのだ。宝物庫には手を出さない方向でね」
「ここにあるものを売っぱらえば少しは金になるかな」
「はっはっは、面白い冗談だ。冗談でなければ私は貴様の首をかみ砕くところだ」
「どうせ、売り物にならねぇよ。だれがどう使うんだ、こんなもん」
硝子でできた丸い形の瓶や細長い瓶、もしくは毒にも薬にもならない液体しかない。
「ふふふふ、この実験物の素晴らしさが理解できないか。さすがは低俗な人間共め!見ていろ、いずれ貴様らではたどり着けない魔族の領域に我は達する」
カルマは無視して自分の持ってきた木の器をベルトに下げる。
「エール、御馳走さんでした。後で一樽持ってこさせるよ」
「どうせなら、我が城で醸造したものだといいのだが」
「まだ残ってたかな・・・融通してみるさ。職権使ってな」
カルマは机の合間を縫うようにして、地下室を後にしようとした。
「ああ、それと」
階段に足をかけようとした時、背後からダンデールが声をかける。
振り返ると、大量の実験器具の向こう側で彼は妙に楽しそうな顔で微笑んでいた。
「君は先代に財政を任せれているんだ。先代が役職を指定したのは現魔王と君の二人だけだ。いわば君の仕事は先代の形見。先代の権威の衣をまとっているつもりでやりたまえ」
「そいつは気が楽になる話だ。先代の衣を着てると肩が凝って仕方ないけどな」
「なんなら揉んでやろうか?」
「・・・いいよ。ありがとな」
ダンデールの言いたいことはわかった。どうしようもなくなったら強権を使っていいんだと。最終手段はあるのだと。そう言われると少しばかり気が晴れた。
やっぱり、来てよかった。
もう一度、冬を越す為に予算を見直すとしようと思った。書類の上でも金をかける場所をもう少し絞ってみれば、なにか思いつくかもしれない。
それこそ、実験と検証の繰り返しだ。
試行錯誤を繰り返すのは何もダンデールのように地下にこもる必要はない。俺の仕事場は机の前だ。
カルマは少しだけ晴れやかな気持ちで階段を上っていった。