魔王城 A
一人の男性が石の廊下を歩いていた。
年のころは少年か、それとも青年か。
子供とは呼べないであろう体躯はある。だが、その貧相な肉付きはまだ大人と呼ぶには心もとない。
農村にいれば立派な労働力だろう。城下町であれば兵士として取り立てられる頃合いだ。商家ならばまだまだ見習いの域。
そんな彼はこの城では簡素な衣服に身を包み、木片に羊皮紙を括り付けた帳簿に羽ペンを走らせていた。それでも彼の足は淀みなく角を曲がる。それはこの建物を熟知している動きだった。
彼が歩く毎に掃除の行き届いた廊下に足音が響く。同じ大きさに切り揃えられた石を積み上げて作り上げられた石の廊下。一定間隔毎に作られた窓は随分と古い。はめ込まれたガラスはところどころ欠けており、窓としての機能をはたしていない。窓からは夏を終え、秋の真っただ中へと差し掛かる涼しげな風が吹きこんでくる。
風に帳簿を煽られ手で抑える彼。ふと、窓の外を見れば遠くまで続く広大な森が眼下に広がっていた。それはそれで絶景である。
「はぁ・・・」
何を思ったのか、彼は溜息を一つついた。羽ペンを握る手の甲を眉間に当てる。何かを考える仕草。
「窓の修理費か・・・考えてなかったな・・・必要と言えば・・・まぁ・・・後回しだな」
独り呟いた言葉には言い知れぬ疲労がこもっていた。顔半分を覆っていた手が離れ、日の光が彼を照らす。
彼の顔は本来なら良い顔立ちだったのかもしれない。その証拠に彼の顔の左半分は筋の通った良い顔をしている。だが、それも半分だけ。彼の顔の右半分は薄汚れた包帯に覆われていた。上顎から頭頂部にかけて適当に巻かれた包帯。そのところどころには不自然な形に盛り上がりがあっていた。
彼はそのまま廊下を歩き、階段を下り、大きな扉の前で立ち止った。その間も彼はせわしなく羽ペンを動かしていた。時にベルトに付けたインク瓶にその先をつけ、そしてまた書き出す。彼の筆が止まったのは、目の前の大きな扉を軽く押し開けた時だった。
途端、賑やかな声が耳に届き、良い香りが鼻孔の中に広がる。
今日の昼食はトマトのスープ。食堂には昼食をとりにやってきた城の労働者が集まっているはずだ。食堂特有の雑多な空気を前に彼は手にした仕事を一時忘れようとした。
そして、戸を開いて中に入った瞬間だった。
彼の耳の脇を何かがものすごい速度で通過した。背後で木の器が石の床に転がる音がする。器は割れてはいないが中に入っていたスープが廊下にぶちまけられる。
続けざまに扉にフォークが突き刺さった。金属の振動音が彼の顔からわずか数センチの箇所から聞こえてくる。
食堂の中は賑やかなどという形容では足りない状態だった。食器が飛び交い、罵声が飛び交い、拳が飛び交っていた。中でも一際激しく突き出されていた拳は人間の物ではない。緑褐色の肌に包まれた巨大な筋肉。人の体幹程もありそうな太い腕が食堂の中央で振り回されていた。
「ぶぉおおおおおおおおおおお!」
吠え声が食堂の窓を震わせる。周囲の机を薙ぎ払い、椅子を投げ飛ばし、食器が飛び散る。暴れているのは単眼の巨人だった。
今しがた扉を開いた彼はそれを呆然と見上げるしかできなかった。
その直後、巨人の腕が何かを投げ飛ばした。それは鎧を纏った小さな兵士だった。彼は扉にぶつかり、廊下に投げ出され、そしてうつ伏せに横たわる。動かなくなったその小さな鎧の姿を追いかけて振り返る。兜を被った彼の頭部の下から赤い液体が流れ出ていた。
全てがまるで幻のようだった。目の前の現実が理解できない。有り得ない。そう否定するのは簡単だ。
だが、その間にも彼の背後では巨人を取り押さえようとする声が幾度となくあがり、そして消えていった。
彼は呆然とするしかできなかった。
そんな彼の内側からふつふつと感情がこみ上げる。湧き上がってきたのは怒り。純然たる怒りだ。
悲しみも後悔も今はない。ただ、この激情たる怒気のみが自分の中に吹き荒れていた。
振り返り、その巨人を凝視する。その巨体からすれば随分と小さな頭部。その中央にある単眼と視線が交差した。
自分の手元にあるのは帳簿と羽ペンのみ、剣どころか短刀の一本、石礫一つたりとも持ち合わせはない。
だが、それがどうしたと言うのだ。
湧き上がる感情のせいか、彼の中には一欠片の恐怖すらない。怒りという感情が行動の制御を外し、行動より先に口から叫びが噴き出た。
「てめぇえええええええぇえええ!」
食堂の中に彼の吠え声が響く。先程の巨人の雄叫びとは比較にならない程度の声量だが、不思議と彼の声は良く通った。
「よくも・・・よくも・・・」
溢れる激情のせいで言葉が続かない。頭に血が上り、手足が怒りに震える。握り込んだ拳の中で羽ペンが音を立ててへし折れた。
「よくも、やってくれたなぁああ!」
巨人と相対するにはあまりに非力なその体で少年はあらん限りの力で叫ぶ。いつの間にか、周囲の喧騒も消えていた。
一歩、また一歩踏み出す。巨人からすれば彼の腕は小枝よりも容易にへし折れるだろう。彼の頭どころかその体を足で踏みつぶすことも容易いはずだ。
だが、彼を前に巨人の様相が変化していた。
巨人は彼を凝視したまま、その手に握っていた兵士を取り落した。
「覚悟はできてんだろうなあぁああ!」
武器も持たず、鎧も持たない小さな人間に巨人がたじろいでいた。
「てめぇ・・・・てめぇなぁああああ!!」
足元にまで近づいた彼は片指を巨人に突き付けて、叫んだ。
「これで何度目だ!この食堂のテーブルと椅子と器の修繕代はどっから捻出してると思ってる!床で豚みたく飯を食いたいのかぁ!」
「ご・・・ごめん・・・」
「ごめんで済むか!ごめんで!ただでさえ、うちには冒険者も討伐隊もこなくて火の車だってのにこれ以上出費を増やすんじゃねぇよ!」
「それ・・・いいことじゃないか?平和だ・・・」
「魔王城の兵士がそれを言うかこらぁ!てめぇらの飯代とか諸々の日用品とかがタダで手に入ってるわけじゃねぇんだぞ!!こんの非生産者共ぉぉおお!!」
「カルマ・・・おちつけ・・・」
「こ、これが落ち着いていられるかぁ!魔王様の許可なく宴会騒ぎしてニワトリ潰しまくった次の日にこれだぞ!こっから先の冬を越えるのがどんだけ大変かわかってんのかお前らわぁああああ!」
最後の叫びは食堂にいる他の者達にも向けられていた。そのどれもが通常の人の形をしていなかった。あるものはこの巨人と同じ緑色の肌をし、またあるものは人の身体に牛の頭をしていた。今しがた巨人の手から零れ落ちた兵士の兜の下には鼻の短い犬の頭があった。この食堂の中で『人』と称される存在はカルマと呼ばれている彼だけだった。
「カルマ・・・大変だな・・・」
心底同情しているような台詞。カルマの喉の奥からカエルが潰れたような音がした。
「だれの・・・誰のせいだと・・・」
喉の手前まで出かかる憤激。この感情を再び大声で喚き散らそうと口を開いたカルマ。だが、口からこぼれ出たのは溜息だけだった。彼の肩ががくりと垂れ下がる。
「はぁ・・・もういいや・・・さっさと片付けて飯にしよう」
「でも・・・喧嘩・・・途中」
「あぁ?」
極めて低い声を発した。ドスが十分に効いた声は威嚇には十分だった。
「片付ける」
「それでいいよ・・・」
溜息混じりに吐きだした言葉は既に疲れ切っていた。
カルマの中でこれからやらなければならないことが駆け回っていた。壊れた調度品の処理、修理する為の木材の量の算出、釘などの消耗品の管理、更には床にぶちまけられた料理の掃除まで。それらの仕事を誰に任せればいいのか、優先順位の高いのはどれか。そんなことを考えた瞬間に気力がごっそりと持っていかれたのだ。
カルマは帳簿を持った腕を力なくおろした。とぼとぼと単眼の巨人に背を向ける。カルマはそのまま廊下へと向かう。外に転がった器と小さな兵士のお片付けである。
「おーい、起きてるか?」
赤い液体をぶちまけている小さな鎧を足蹴にしながら器を拾う。中身はトマトのスープ。色は赤だ。
「うっ・・・」
小さな鎧の体が呻く。そして、再び赤い液体が床に広がった。
「うぉおええええ・・・」
胃の中のものを全部ぶちまけながら起き上がる小さな鎧。余程強烈な一撃を腹に貰ったのだろう。胃酸の混じりあった嘔吐物特有の臭気が漂う。カルマは顔をしかめた。
「あぁあ・・・また汚しやがった」
「うぇえ・・・せっかくの飯が・・・」
頭に被った兜が零れ落ち、小さな角と禿げた頭がむき出しになる。尖った耳と緑色の肌。俗にゴブリンと呼ばれる魔物だった。
「ボルビー、元気か?」
「お、おお・・・カルマ・・・おらぁ・・・もう・・・ダメみたいだ」
今にも死にそうな爬虫類のような声。ゴブリンのボルビーはカルマの足元でうごめいている。カルマは中身がこぼれて空になった器を手の中で弄びながらしゃがみこむ。
「俺の飯やろうか?」
「全部くれんのか!」
途端に元気になるボルビー。先程までの苦しそうなのは全て演技だ。
当然、カルマは全て気づいていた・
「誰が全部くれてやるっていったよ」
「んだよ・・・ケッ」
「好意を無碍にするたぁいい度胸だなぁおい」
苦虫を噛み潰したような顔をするカルマ。とはいえお互い本気で言っているわけではない。カルマはボルビーに手を差し出す。小さい体に見合う小さな手がカルマの手に乗る。吐瀉物で汚れてはいたがカルマは気にしない。
「あぁあ・・・喧嘩するなら鎧脱げよな。ベコベコじゃねぁかよ、ってあぁあ!革紐の金具がぶっ壊れるじゃねぇか・・・これ修繕どうすんだよ」
ボルビーよりも鎧の心配を優先するカルマ。度重なる出費に涙が出そうだ。ついでにこれら諸々の計算処理もしなければならない。そのことも考えると溜息一つじゃ足りない。
「相変わらず金、金、金、金うるせぇ野郎だな。おめぇさん知ってるか!悪党ってのはいつも死ぬ間際に金の話をするらしいぜ!」
「俺は今すぐに金の話をしたいとこだよ」
とはいえ、言っても仕方あるまい。子鬼に学が無いとは言わないが、下っ端兵士に学が無いのはどこに行っても同じだ。人間でも魔物でもそこに違いはない。だからこんなに苦労しているわけなのだが。
「ケッケッケ、とにかく落ち込むなよな!なっ!だから飯をくれ!」
「やらん。絶対にやらん」
「なんだよ!さっきはくれるって言ったじゃねぇか!」
「気が変わった」
この短時間にどれだけの仕事量が増加したのだろうか。それを考えると体力をつけるためにも食事は大事だった。
「いいからお前はその鎧を兵舎に戻してこい。ぶっ壊れてることを兵舎長に言えよ」
「ええええぇ!姐さんに言うのか!」
「当たり前だろ。嘘ついても意味ねぇぞ、どっちにしろ俺が言うからな」
「だったらお前が最初から言え!鎧もカルマが持ってけ!俺は帰る」
「ざっけんなぁあ!なんで俺がお前のしりぬぐいしなくちゃなんないんだよ!」
「友達だろ」
「今すぐに縁を切ってやりたいね。特に金のかかる奴はな」
とはいえ、そう簡単に切れたらどれだけ楽か。金の切れ目は縁の切れ目という言葉があるが、それならカルマはとっくの昔にこの城から逃げ出している。
「ケッケッケ、いいじゃねぇかよ減るもんじゃなしに」
「減ってるんだよ、金が確実にな。まったく、ただでさえ財政難だってのに」
カルマは食堂の扉に刺さったフォークを引き抜く。手にしたフォークは先が欠け、刃の一本が奇妙に降り曲がっている。メッキも禿げ、一部が錆びで変色したボロボロのフォーク。これでも食堂で扱われている食器の中ではまだましな方だった。
「丁寧に扱って欲しいところだよな」
口に出してぼやくものの、それが無意味だということはカルマが良く知っていた。
食堂の中はもはや原型を留めない程に荒れていた。片付けが始まってはいるものの、落ち着いて飯にありつけるのはいつになるのやら。
そんな時だった。食堂に新たに巨大な影が現れた。その姿を見せたのはゴブリンを数倍にしたような姿をした巨体だった。今しがた暴れていた単眼の巨人よりは背は低いものの、鍛え上げられたその肉体はもはや鎧と呼んでも差し支えなかった。筋骨の化身とでも評すればいいのか。それがカルマを見下ろしていた。
「おぉお、カルマ、こんなとこにいたか。魔王様がお呼びだぞ」
カルマの心が風船の形をしているなら、それは今しぼんだ。中の空気はおそらく溜息となって外に出ているはずだ。
「今ですか?」
「ああ、今だ」
訂正はない。カルマの肩に不可視の重圧がのしかかった。
魔王様に会う予定はあった。お伝えしなければならないことも多数ある。だが、気が重い。
魔王、文字通りこの城の魔族の王であり、全てにおける最終決定権を持つ最高権力者。そういうことを差し引いても脆弱な心しか持たない自分が魔王を前にして平常心を保つというのはかなり困難なのだ。
それ加えて今は昼飯前。心労は既に積み重なっている。帳簿を持つ手すら気怠く感じているというのに。
「ケッケッケ、カルマ!よかったじゃねぇか、魔王様から呼ばれるなんてよぉ」
「そうかい、なら代わってくれよ」
「ぷっふーーやぁでぇす」
カルマの頭部、主にこめかみの辺りで音がした気がする。だが、震える拳を抑え込み、カルマはボルドーに器とフォークを押し付けた。
「じゃぁ、お待たせるのは不敬にあたりますかね。行ってきます」
後ろから「しっかりな」と声援を受けたものの力は湧いてこなかった。