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其の三 

記憶。

自分の中に積層していく過去であり、時が進むに連れ摩耗していくもの。

それでも、幾つかの、忘れがたい記憶というものがあって。

どれだけ薄れ、輪郭がぼやけ、その時の色も匂いも、それが何時のことだったのかすら忘れたとしても、そういった事実があったのだとそれだけは残り続ける、人の核を成し得るもの。


私の中に残っている幼少の頃の記憶で最も古いものは、地方都市の郊外にある住宅地で孤立していた時の記憶だった。


日本在住の英国人を父母に持つ私は、容姿も言動も在り方も何もかも、その地区では浮いてしまっていた。郊外の住宅地という都会とも田舎とも言いがたい場所では、ごく近隣の住人達で半端に閉鎖的な人間関係が構築されやすく、そういった小規模のコミューンがハニカムのように壁を持ちながら連なっている場所で、私は純朴な田舎のように共同体の一員として迎えられることも、都市部のように無数の一員として無視されることもなく、かと言って迫害されるわけでもなく、ただポッカリと空白のように孤立していた。


父は外資系の社員としての立場を持ち、母もまた自分の住んでいる住宅地とは別の場所に己の場所を確保していて、その意味でも私の苦悩を理解してくれる人は誰も居なかった。ただ、当時の幼かった自分にはそれを苦悩と認識することすら出来ず、ただ、どうしていいか分からず孤立するままに浮遊していて、「子どもの時間」をどう過ごしていいかも分からずに持て余していた。


ずっとこのままなのかな、と子供の意識で茫漠に思っていた時、ある家族が引っ越してきた。

日本人の母と、欧州人の父と、その間に生まれた赤い髪の女の子で構成された家族は、私と私の家族と同じように異邦人で、境遇を同じくするものとして私の手をとってくれて、私にとって初めて認識できる、記憶に残る「他人」になってくれた。


始まりにあるのは、一人だった時と、そこから救い出してくれた初めての友達の記憶。

私の始まりの核であり、忘れ得ないもの。

けれど、忘れ得ず中心に残り続けるのなら、その上に降り積もるものもまたあるということであり、人生が続けば続くほど、核とそれに降り積もるものの比率は変化しいずれ逆転する。


私の中からカナが消えることはもう決してないけれど、今私の目の前にカナは居なくて、もう私の核に新しいカナの記憶が降り積もることは、恐らくない。

だから、不安になる。

私の中に、今どれだけカナが残っているのだろう。

私の中のカナは、今私にとって何%なのだろう。

私がこれからも生きるのならば、いずれ私の中のカナは小数点の彼方に追いやられて、認識することすらできなくなるほどに、小さくなってしまうのだろうか。




「ねえ、これって生きるために必要なことなのかな」

「貴方が自分で選んだ人生のルートに立ちふさがっているものなのだから、当然必要ではないかしら」

「だからってー、徳川さんちの息子さん達の名前暗記していつ使うっていうのさー。もう徳川一世、徳川二世でいいじゃん」

「今眼の前にある関門を突破するために使うのよ。まるで魔法の呪文みたいね」

「あーもー徳川アブラカダブラー!徳川セサミストリートー!」

「それで開いてくれる門だと楽でいいのだけど。あと後半間違ってるわよチヒロ」


地元の大学への進学を決めたチヒロは、こうして私の所に勉強しに来ることが多くなった。

前途は多難そうだが、根は真面目で努力家のチヒロなので、まあなんとでもなるだろう。

てっきり陸上でのスポーツ特待生の道を選ぶと思っていたので、あっさり部活を引退して受験すると言い出した時は少し驚いた。


「自分で選んだ苦難の道なのだから我慢なさいな。けど、本当に良かったの?」

「いーの。確かに特待生として入れなくはなかったけどさ、じゃあバリバリ第一線でやっていけるほどかって言うとそこまでではなかったんだよ私は。別に特待生じゃなくても、『陸上選手』じゃなくなっても長距離走はできるし」

「そう。チヒロにとって、陸上は何かの手段やトライアルではなくて、それ自体が目的なのね」

「そうだよ。ただ走ることが好きなの。だから、走るため以外の理由で走らないといけなくなったら、しんどくなっちゃうよ」


それなら、そのシンプルさ、研ぎ澄まされた純粋さこそが、あのチヒロの競技に臨むときの美しさの根幹だったのだろう。生きるための手段としてのスポーツ、勝ち取るために研鑽される技術もまた美しいものだけれど、それとチヒロの放つ輝きはまた別のものなのだろう。けれど


「少し残念。チヒロの走ってる姿、好きだったのだけどこれからはあまり見れなくなるのね」

「なんで。見せるよいくらでも。どこまでだって走っていけるよ?」

「だってそれだと私も一緒に走らないといけないでしょう?チヒロにはとても追いつけないもの」

「いやだ。追い付いてきてよ。ずっと一緒に来て。どんな手段を使ってもいいから」

「チヒロ?」

「そうじゃないと、ずっとカナちゃんに勝てない。」


チヒロの顔が、いつのまにか触れ合いそうになるほどに近くにあって。

そしてそのままチヒロの顔が私の顔の横を通りすぎていって、要するに私は押し倒されてしまった。


「ちょっと、チヒロ、急になにを」

「初めて見た時から好きになった」


時間が止まる。時間が主観による観測にすぎないというのなら、その時確かにそれは止まっていた。


「高校一年で同じクラスになった時、もう癖みたいに空を見上げてたね」


中学の時点で、カナと離れ離れになっていた私は、また元の宙ぶらりんに戻っていて、空ばかり見上げていたというのなら、きっと私が世界に足をつけていなかったからなのだろう。


「まるでこの世界に居ないみたいで、それでも窓からの風で揺れる金色の髪と青い瞳は冗談みたいに綺麗で、私はその瞬間に全部持って行かれちゃった。高校に入るまでも、人並みに普通の女の子やってたから友達はそれなりにいたし、男の子を好きになることだってあったよ?クラスメイトとか、近所に住んでて一緒に遊んでた男の子とか。でも、そういうの全部無くなって、たった一人から目が離せなくなった」


背中に回されたチヒロの手が熱い。今まで感じたことのない温度。カナの、あの優しい温もりとは全く違う。


「私の世界にはたった一人だけになって、それなのに私は何も知らないから必死で知ろうとした。必死であることも悟られないように、精一杯自分を制御して。そしたら、その人の中には別の誰かが、もうずっと前から座ってたの」


チヒロが腕を立てて、私の顔を正面に見据えた。その顔は今にも張り裂けそうなくらい真っ赤で、口元はぎゅっと引き締められて、必死に何かをこらえているようだった


「負けたくなかった。初めて、負けたくないって思った。少しでも追いつきたくて、必死に追いかけた。でも、私の時間は普通の人間ひとり分しかなくて、もうその子はそこから動かないのにまるで私は追いつけなくて」


視界いっぱいにチヒロが広がっていて、目を離せなくなった。目を背けようとも思わなかった。泣きながら、震えるチヒロを見失うことなんて出来るはずもなかったから。


「知れば知るほど、カナちゃんの存在の大きさが分かるの。まだずっと残ってるんだって、全然消えてないしこれからも残るんだって分かっちゃうの。なんだよ十年って、ずるいよ、いつになったら追いつけるのさ…」


チヒロの横顔に手を添えて、そっと撫でる。その頬はさっきの手と同じくらいに熱くて、子供みたいに震えていて、なんだか愛おしくなって、そのまま頭に手を回して、胸元にチヒロの顔を抱きすくめた。


さらさらとした、チヒロの髪の手触りが心地良い。黒の絹糸みたいなその感触に、そういえば初めて触れるのだと今更ながらに思い至った。温かい涙が胸に染みて、私にまで熱が移りそうだと思った。



「その好きは、セクシャルな意味を含めて?」



胸元でチヒロの顔が硬直する。覆いかぶさっているチヒロの体からも、直接動揺が伝わってくるようだった。


「いきなり、直球過ぎませんかね…」

「大事なことじゃない。それ如何で道も対応も変わるというものよ」

「…わかんない。そうな気もするし、ちょっと違う気もする。でもそういうのも含めていろんな好きがいっぱいあって、だからそれが含まれてても私はアリだし、そうなっても構わないよ」


右手でチヒロの髪を撫でながら、左手をチヒロの背中に回す。走っているのを遠くから見ていた時は気づかなかったけど、その体は想像していた以上に華奢だった。


「…知っての通り、私の世界にはずっと、家族とカナしか居なかったわ。だから男の子を好きになることなんてなかった。でも、カナをそういう意味で好きかというとそんなこともなかった。きっとカナもそれは一緒だったと思う」


机の上にある写真立てに目をやった。別れる前、最後にとったカナとの写真。最後に残った、カナの笑顔を思い出すためのトリガー。


「カナとはね、未だに手紙のやり取りがあるの。こういう関係性としてはかなり続いている方だと思うわ。向こうでもカナは元気にやっているし、普通に友達も作ってる。私の知らない所で、私の知らないカナがどんどん出来上がっていって、近況を伝えてくれるわ。私は、カナとの関係はそれでいいと思ってる」

「…寂しくないの?カナちゃんとの距離が広がっていっちゃうのに?」


胸に顔をうずめたまま、少し鼻声混じりでチヒロがつぶやく。


「寂しくないと言ったら嘘になるわ。カナはずっと私の世界の中心で、もう一生忘れることはなくて、けど私とカナとの道は分かれてしまった。これからも距離は広がっていくと思う」

「…うん。」

「けれど、どれだけ遠くに離れても、私の過去にはずっとカナがいる。記憶は少しずつ薄れていって、いずれカナの声や喋り方、細かい癖なんかも忘れてしまうのかもしれないけど、根元の部分、スタート地点にずっとカナはいてくれる。今日、チヒロがそれを教えくれた。それだけで、私は道を前に進めていけるわ。一緒に歩いてくれる人も出来たことだし」

「…いいの?私で」

「チヒロについていく、いいえ、一緒に歩いて行くのは結構大変そうだけど、他に選びたい道もないことだし。ずっと見ていてくれた割に気付いていないようだけど、今現在の私には、チヒロ一人しか居ないのよ?」

「私、カナちゃんに勝てるのかな」

「別に勝つ必要はないじゃない。カナの記憶を胸に抱えた私と一緒に、歩いて行けばいいでしょう?ほらいい加減顔を上げて、体を起こして。勉強しにきたんじゃなかったの?」

「…ここが物凄く心地よいので、今日はこのままここに泊まっていっていいですか」

「人を宿泊施設扱いとはいい度胸なのだわ」


背中に回していた左手を、そのまま尻にやってつねりあげる。


「いにゃあ!分かりましたやります勉強しますぅ!」

「はい頑張って。簡単に全部手に入れられるほど安い女でなくてよ?」


机の前に座り直したチヒロの体が、びっくりした猫みたいに緊張する。知っていたことではあるが、今時にしては珍しいくらいチヒロはこういうことに免疫がない。


「くそぅ、いつの日かキャン言わせてやる」

「あら、それなら私も対策を講じる必要があるわね。ついでだし、今から練習しておこうかしら」

「やーちょっと待ってちょっと待って心の準備が!まだお風呂入ってないし!そうだ洗いっこしよう洗いっこ!」

「いいでしょう受けて立つわ」

「すいません嘘です真面目に勉強して今日のところは帰ります」

「それでいいならそれでいいのだわ。」


机に向かうチヒロの横顔に手を伸ばし、そっと髪を撫でる。そういえば、こういう触れ方は、カナにしたことはなかった。新しい感情を初めて獲得したような気がして、嬉しくなって、それを確認するように撫で続ける。チヒロは必死で冷静さを保とうとしているようだけど、その必死さが表情に全部出てしまっていておかしくなる。まあ少しずつ慣らしていけばいい。慌てる必要はどこにもない。この道は、当分先には続いていそうだし。


「…いじわる。」

「あら知らなかったの?良かったわねまた一つ距離が縮まったわ」


今日、人生に少し大きめの転換点が出来た。また少し、カナとの距離が離れてしまった。

でも、それでもいい。どれだけ離れても、私がどれだけ変わっても、きっと何も変わってはいない。

あの時登った山からみた、入道雲と夏の空とあたりに響く蝉時雨。その下で手を握り合って笑いあった友達の、あの笑顔と温かさは、きっとそのままで残っているから。


                                

                                  了


訳あって主人公には名前がありませんので、お好きにお呼びください


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