其の一
「まーた空見てる。いっつも空見てるよね」
チヒロが私の背後から抱きつきながらそう言った。
首筋に押し付けられた頬の柔さと、熱を帯びた汗の湿り気が私を加熱する。
いつもならその熱をくすぐったく感じながらも楽しむのだけど、今は振りほどく。
「もう、なんで逃げるのー、私のハグが不満と申すか」
何故もなにもない。暑いのだ。八月の初週に差し込まれた、嫌がらせとしか思えない登校日の帰り道である。
入道雲で飾られて青と白のコントラストに彩られた夏の空は、いよいよ容赦なく大地を焼き始めていた。
私の熱に対する許容値はもはや目盛り一杯でどこにも余裕などないのだから、少しばかり態度を冷たくしたって責められる謂れはないと思う。
それに
「…そんなに、いつも見てるかな」
「見てるよー、特にこの季節、こういうアッツい日はね。自分では気付いてないみたいだけど」
そうか。まだ、消えてはいないのか。
「あの子の事、思い出してたの?」
「…ううん、そういうわけじゃないの。」
むしろ、思い出せなくなり始めていた。
私と違って、よく遠くまで響いた強い声。
大きくて、よく動いていた瞳の色。
背中まで伸ばされた髪に、顔をうずめた時の柔らかさ。
初めて握った、手の温度も。
「ただ、元気にしてるかなって」
「そーいうのを思い出すっていうんじゃん」
カナがいなくなったのは、中学二年の夏の時だった。
ありきたりな、親の都合での転校というやつ。
あまりにも唐突に降って湧いた話で、全然納得できなくて食って掛かったら
カナもそれは同じだったらしく、お互い心の整理などまるでつかない状態で言い合って揉み合って、最終的には抱き合って二人でワンワン泣いてしまった。
声を上げて泣くだなんて、物心ついてから初めての事だったと思う。
「初めて、泣き顔見れたかも。もう十年も一緒にいるのに」
「私はカナの泣き顔は見慣れてるけどね」
「なにそれ、なんかずるい。そんなしょっちゅう泣いてみせたっけ」
「泣いてたよ。そもそも泣き虫でしょカナは」
「…証拠の提出を要求します。」
「いいよ。初めて見た泣き顔は、自転車にまだ乗れないのに無理してこけて、膝擦り向いた時」
「あぅ。よく覚えてたねそんな昔のこと。」
「いくらでも覚えてるよ。駄菓子屋で買ったばかりのアイス落としちゃった時も泣いてたし、私の家に泊まりに来た時も家が恋しくなって泣いた」
「あー、うん」
「私が迷子になってたのを見つけてくれた時も、カナのほうが泣いてた」
「…うん」
「一緒の中学に進めた時も、そのまま同じクラスになれた時も、他にも、えっと、」
いくらでも思い出せる。頭のなかにある十年分の記憶から、「泣き顔」タグが付いているカナの顔を抽出検索すれば、どれだけあるのか分からないくらい羅列できる。ただ顔を思い出せるだけじゃなくて、何故泣いたか、どんな風に泣いたか、どうやって泣き止んだか、私はその時どうやってカナを慰めたのか、一つ一つについて、詳細に説明できて、だから
「…わたしはこれで2つ目だね。十年で、やっと2つ泣き顔を見れた。」
だから、私の「カナの記憶」に最後に残されたのは、自分の涙でぐじゃぐじゃに歪んで見えたカナの笑顔だった。
「カナちゃんはさー、結局どこに行っちゃったんだっけ」
チヒロが私の指と腕に絡みつきながら尋ねる。その間もパタパタ動き回っているものだから、私はあっちこっちに引っ張られてしまう。これではまるで犬の散歩だ。
というか、チヒロは基本的に犬っぽい。人懐っこいし、スキンシップ好きだし、忙しなく動きまわってる。
それで寂しがりやでもあるから、いつも誰かのそばに居て、一人でいる所をあまり見ない。
「北欧よ。確かノルウェーだったと思う。お父さんの故郷だって」
「あー、その辺で気が合ったんだね」
そんなチヒロだから、カナがいなくなって宙ぶらりんになって、一人窓から空ばかり見ていた私を構ってくれたのだと思う。
高校一年の初めに、運動部所属でアクティブな性格もあって、友達も多かったチヒロに見つけてもらえたおかげで、私は目立ち過ぎず埋もれ過ぎてもいない、過不足無い高校生活を送ってこれた。
それから三年の付き合いになる。
「それで髪がちょっと赤かったのか。顔立ちもそれっぽかったもんなー」
「ええ。お母さんのほうが日本人で、そちらの方が強く出ていたけれど、それでも純和風という訳にはいかない子だったわ」
寂しがりやで人懐っこくて一人でいるのが嫌いなチヒロは、当然のように世話焼きで話し好きで、積極的にこっちの事情に興味を持ってくれる子だった。だからカナのことは全部ではないにせよあらかた話してしまっていたし、写真もせがまれて見せていた。…その時は、何故か複雑な表情をしていたけれど。
「ふわふわしてて、気持ちよさそうな髪だったなー。私が伸ばしてもあんなんならないし」
「確かにチヒロが伸ばしてもああはならないわね。そんなに綺麗で真っ直ぐな黒髪なんだから」
「…いきなり正面からそんな風に言われたら困るよ。なんて返せばいいのさ、それ」
「胸を張ればいいじゃない。実際伸ばしたりしないの?」
「似合わないよ。もうずっとこれで来てるし」
耳くらいの長さで整えられたショートカットを触りながらチヒロは言う。確かに陸上部だと伸ばすわけにもいかないのだろうし、似合っているからこれでもいいのだろうけども、でも
「似合わないなんてことないと思うわ。伸ばした所、私は見てみたいな」
「…やっぱり、長いほうが好きなの?」
不意にチヒロが、動きを止めて、こちらを見た。
さっきまでくるくる動いていたものが急に止まるものだから、私まで、なんだか動けなくなってしまった。
動きの止まった二人の影が、少し離れた所で交わっていて、その部分を釘で縫い止められでもしたかのような。
…風に揺れる、赤い髪を何故か思い出した。
「長いほうがって…別に、そんなことないわ。急にどうしたの?」
それに、やっぱりって
「んー?別にどうもしないよ。ただ、どうなのかなって思っただけ」
そういうと、またチヒロは歩き出した。ただ、いつもの仔犬のようにではなく、真っ直ぐに。
まるで、後ろを振り返るまいとするかのように、少し早い速度で。
私はそんなチヒロのあとを、少し遅れて歩き出した。
生まれて初めて書き始めた小説が、何故こうなってしまったのか