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インセイン  作者: 夏目泪
9/22

09

ある日、萌香が登録しているSNS経由でメッセージが来ていることに気付いた。坂下だった。

「なんで、今更」

ぽつりと呟く。

内容はあの時のことを詫びたいので会えないかというものだった。

会いたい。正直な気持ちはそうだった。でも坂下に会うことは真田への裏切りのような気がした。

「妙、どうしよう。坂下くんからメッセージきたの」

こんな時は岡村に電話するのが習い性になっている。

「えー、今更?どんなメッセージだったの?」

「あの時のことを詫びたいから会いたいって」

「会う必要ないじゃん」

岡村は強い口調で言う。

「そうだよねぇ...」

「そうだよ」

「うん、わかった」

そう言って電話を切ったものの、まだ萌香は迷っていた。

メッセージが来ていたのは月曜日、気付いたのは水曜日。とりあえず何か返信をしたほうがよいのだろうか。

迷っているうちにもう一度坂下からのメッセージが来た。

「よし、会ってけりをつけよう」

坂下との事はずっと萌香の中でしこりになって残っていたものだった。

明後日、金曜日。早番で上がった日の業務後になら時間が取れる旨返事をする。坂下からの返信は早かった。

会社前まで車で迎えにくるという。

「どうしよう」

出来れば人目がある場所で会ったほうがいいのじゃないか。理性が囁く。しかしあまりおおっぴらに話したくないような話題が出るかもしれないことを考えると車内で会うことにしたほうがいいのかもしれない。

しばらく迷った後で了解したことを返信する。


金曜日、業務後。

最後の対応に少し手間取り若干残業した後、急いで会社を出ると見慣れたコンパクトカーが停まっていた。車から坂下が降りてくる。

「久しぶり」

相変わらずスマートな佇まいで萌香に手を挙げて見せる。

「久しぶり」

やや硬い声で萌香は言う。

「車、乗って」

頷いて萌香は坂下と車に乗り込む。黙ったまま坂下は車を出した。

互いの緊張が伝わるのか、車内の空気は固い。無言のまま車は進む。

いつしか、見覚えのあるところを走っていることに萌香は気付いた。旭山記念公園だ。

あの時の甘酸っぱい高揚感を思い出すと胸が切なくなる。

前と同じ駐車場に車を停めると坂下が車を降り萌香の側に回るとドアを開けた。

萌香は黙ったまま車を降りる。

つと坂下が萌香の手を取って歩き出した。萌香は振りほどこうとするが坂下は手を離さない。そのまま、噴水のある広場まで手を握ったまま歩いていく。

あの日同様、札幌の夜景が贅沢に見渡せる場所に立ち坂下が萌香の手を握ったまま立ち止まる。

夜景を見ながら坂下が言う。珍しく周囲には人がいなかった。

「去年の今頃だったよね。ここにきたの」

「そうだね」

「あの頃、僕は彼女と別れそうになってて」

「岡村から聞いた」

「そっか。...ごめんね。あの時は辛くて辛くて、どうしても誰かに縋りたかったんだ」

萌香は黙ったまま頷く。

「中嶋さんはいつも穏やかで優しそうで。それに男性慣れしてそうだったから」

意外な言葉を坂下が言う。

「そんなことない。私、坂下君が初めてだったんだよ」

「そうだったんだよね」

あの時の坂下の背中を思い出して胸が苦しくなる。

「あの後いったん彼女とはやり直すことになったんだけどね。でも結局別れたんだ。振られた」

驚いて坂下を見上げると切なげに笑っている。

「中嶋さんに酷いことしたから、罰が当たったんだね。本当にごめん」

萌香は首を左右に振りながら言う。

「ううん。いいの。坂下君のおかげで初めて体験できたことが色々あったから楽しかったし」


それは突然だった。

坂下が握っていた萌香の手をぐっと引き寄せると強く抱き締めたのだ。

予想外の出来事に萌香は固まる。

「ごめんね」

耳元で坂下が囁く。

そのまま坂下はしばらく萌香を抱き締めていた。抱きしめながら萌香の髪を優しく撫でる。

髪を撫でる指がそっと耳に触れる。

全身が痺れるような悦び。この感覚、覚えている。力が抜けそうになる。

咄嗟に萌香は坂下を突き放していた。

「ごめんね」

驚いた表情で再度坂下が言う。

「送っていくよ」

旭山記念公園から公共の交通機関で帰る方法もわからないし、タクシー代も持ち合わせていない。

どうしようもないので黙って頷く。

自宅を知らせるのは気が引けたので結局大通公園で下してもらい坂下とは別れた。


*****


「あんた、ばか?」

岡村はいつも通り口が悪い。

坂下と会ったこととその顛末を報告したのだ。

「あんた、それ真田さんには言っちゃ駄目だからね」

「そうだよねぇ...でも黙ってたらなんか嘘ついてるみたいで気が引けるし」

「あんたね、真田さんという人がいながら浮気したようなもんなんだよ?」

「浮気って。そんなんじゃないもん」

「男から見れば同じようなもんよ」

「そっか」

「言って楽になっちゃおうっていう気持ちはわかるけど、それって自分が楽になりたいだけで真田さんの為じゃないんだから」

「わかった」

確かにそうだ。自分の彼女の昔の男のことなんて聞きたい男はいないだろう。

「絶対言っちゃ駄目だからね」

岡村に念を押され電話が終わった。


もう二度と坂下とは接触しない。そう決めてSNSではブロック設定をした。

電話やメールに関しては以前登録を削除して情報が残っていないのでブロックが出来ないが、知らない番号からの電話を無視すれば大丈夫だろう。メールはアドレス帳にあるメールのみ受信するよう設定した。

しかし坂下に抱きしめられた時のあの感覚はまだ肌に残ったまま忘れられずにいる。


急に電話が鳴り思わず飛び上がる。画面を見ると真田からの着信だった。慌てて電話に出る。

「萌香、今大丈夫?」

「う、うん」

「どうした?なんか元気ないみたいだけど」

「そんなことないよ、大丈夫」

「そっか。ならいいけど。あのさ、萌香の誕生日一緒に過ごせなかっただろ。だから改めて一緒にお祝いしない?」

嬉しい気持ちに後ろめたさが交じり返事が遅れる。

「萌香?」

「うん、嬉しい」

「何か食べたいものとか行きたい場所とかある?」

「そうだなぁ...あのリゾットのお店」

「もうちょっと高級な場所でもいいんだよ?」

「だって、初めて明日香さんが連れて行ってくれたお店だから」

「わかったよ」

真田が笑って答える。

「いつがいい?」

「土曜日が早番で日曜日が遅番だから土曜日でどう?」

「うん、わかった。じゃ、会社前で待ってる」

「ありがとう」

やはり坂下との件を言わなければならないような気がしてくる。

「あの」

「ん?」

「...や、なんでもない。楽しみにしてるね」

「気になるなー」

「ごめん、今忙しいから切るね」

「そっか、じゃ土曜日に」

「うん、またね」

後ろめたさが電話を切らせた。

「ばか」

ぽつりと自分に呟く。いつもならずっと聞いていたい真田の声が今日は萌香の罪悪感を刺激する。


土曜日、そわそわしながら業務を終えた萌香はそそくさと帰り支度を済ませロッカールームを出た。にやにや顔の岡村に見送られ会社を出る。

「萌香」

「中嶋さん」

同時に男の声がした。

萌香は戸惑う。会社前には真田と坂下がいた。男同士互いの顔を見て同時に怪訝な表情を浮かべる。

想定外の出来事に思わず萌香が固まっていると背後から岡村の声がかかった。

「坂下、お待たせ!」

そして岡村は萌香に目配せすると半ば強引に坂下と腕を組み歩き始める。何か言いたそうに坂下は振り返るが岡村がぐいぐいと引っ張って足早に進んでいく為結局坂下は発言する間もなく強制的に退場となった。

まだ不審そうな表情を浮かべたまま真田が訊く。

「あれ、誰?」

「...昔の同僚」

後ろめたさがまた返事をためらわせる。思わず萌香は俯く。

「萌香?」

はっと顔を上げると真田の顔がこころなしか寂しげに見えた。

「あれ、誰?」

再度真田が訊く。

「...去年振られた相手」

真田の表情は見られない。また萌香は俯く。

「この間、久しぶりに会ったの。旭山記念公園行って」

真田を傷つけるだけだとわかっていても、自分が楽になるためのエゴだとわかっていても言わずにはいられなかった。

「旭山記念公園で抱き締められた」

真田は無言のままだった。

「すぐにやめさせたんだけど...そもそも会うべきじゃなかった。自分の中でけりをつけたかったの。こんな告白、聞きたくなかったよね。ごめん、私最低のエゴイストだ」

真田に合わす顔がない。溢れそうな涙を必死にこらえる。私には泣く権利なんかない。

「...萌香の中でけりはついたの?」

真田がやや掠れた声を絞り出す。

萌香は黙って頷く。ぽんと萌香の頭に真田が手をのせる。

「ならいい」

「ごめんね」

「謝るな。謝られたらあいつに負けた気がする」

「ありがとう」

「それでいい」

真田が掠れたままの声で言う。

「ありがとう」

再度萌香が言う。

真田は萌香の頤に手をあて顔を上げさせた。そしていつものように優しいキスをする。

堪えていた涙がせり上がってくる。

「萌香は泣き虫だな」

「明日香さんの前だけだよ」

やっと真田が笑った。それを見て萌香も笑う。

「じゃ、行こうか」

「うん」

指を絡ませて手を繋ぎ歩き始める。初秋の風で真田の手は冷えていた。


目当ての店に着くとすぐに席に通された。

「予約しといた」

真田が笑う。

今回も結局お勧めのメニューを頼んだ。特別な日だからとグラスワインも頼む。

「乾杯」

グラスを合わせ微笑み合う。

先ほどの気まずい遣り取りを打ち消すようにおどけた表情で話す真田が愛おしく、少し切ない。


食事を終えるとそのまま二人は萌香の部屋へと向かった。

萌香が鍵を開けて入り灯りを点ける。はっと萌香は軽く息を飲んだ。

ビーンズテーブルの上には萌香の好きなガーベラをふんだんに使ったフラワーアレンジメントが飾ってあった。

「合鍵、くれたから」

真田が顔を赤らめながら笑う。

萌香は声を出せないままぺたりとラグに座り込む。背後から真田が萌香を包むようにして抱き締め項にキスをする。

それは激しい衝動だった。萌香は真田の腕の中で正面に向き直ると貪るようにキスをする。

戸惑いながら受けとめる真田の唇も舌も徐々に動きが激しくなる。真田のシャツのボタンに萌香が手をかける。

ふいに真田はキスをやめ萌香を見つめた。戸惑う萌香に真田は首をふる。そして萌香を立たせるとソファに座るよう促す。

並んで座ると真田が左腕を萌香の肩に回した。甘えるように肩に頭をのせると真田も萌香の頭に自分の頭をもたせかけ、右手同士を優しく繋ぎしばし互いの体温に憩い合う。

視線で真田に問うが、穏やかな表情のまま首を左右に振る。

「ローマの休日観ようよ」

真田がふと思いついたように言う。

結局その夜はずっと手を繋いだまま、優しく更けていった。


拙作をお読み下さりありがとうございます。

励みになりますので、ぜひ感想や評価をお寄せください。

よろしくお願いいたします。

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