08
母の具合が悪いという知らせが来たのは真田が帰った翌日だった。実家は同じ市内なので実家からの通勤も可能だから帰省してしばらく実家から通勤することにしようと思い荷造りをして帰ったのは知らせを受けたその日の夜だ。
幸い母の具合はさほど重篤なものではなく単に風邪をこじらせただけだったが心配した父が騒いで萌香を呼び寄せたのだった。しかし家事能力のない父とまだ回復していない母を残して戻るのは後ろめたいので、母が良くなるまでという条件で数日滞在することにした。
母は順調に回復し、さて明日は自宅へ帰ろうと思ったその日、兄が帰省してきた。
子どもの頃同様、兄よりも先に寝なければ大丈夫だろうと思い場合によっては完徹するつもりでいたが考えが甘かった。
両親が寝静まった後、兄は萌香の部屋に来た。無言のまま品定めするようにつま先から頭までを眺め、また頭からつま先まで視線を戻す。
「用がないなら出てってよ」
萌香の虚勢を鼻で笑うように兄は無言で近づいてきて萌香の腕を掴むと背中に捻じり上げ押し倒すともう片方の手で萌香の体をまさぐる。
子どもの頃の記憶が蘇った萌香はぎゅっと目を閉じ身体を固くする。しかし明日香の顔を思い出すと硬直が解けた。
萌香の抵抗が意外だったのだろう、兄の形相が変わる。顔以外のいろんな部分を容赦なく兄が殴る。
あまりの痛さに悲鳴が漏れそうになると兄が口を手で塞いだ。
「生意気なんだよ」
吐き捨てるように言うと兄は萌香をベッドに放り出し出ていった。
痛さと悔しさと無力感で目がくらむようだった。放り出された姿勢のまま、嗚咽を漏らす。
パジャマのボタンは弾け飛んでいた。様子がおかしければ両親が心配する。そう思いソーイングセットを取り出すとボタンを付け直した。
目立つ部分に外傷がない事を確認し痛む部分には湿布を貼る。
翌朝、荷物をまとめるとそのまま出勤した。
実家から出勤したその日、萌香は淡々と業務をこなし帰宅した。
食欲はなく、身体のあちこちが痛かった。荷物をほどくが片づける気力もなく、出して放り出したままにする。
頭痛も酷かった為鎮痛剤を服用しベッドに横になるが眠気は全く訪れない。
ベッドに横たわり胎児のように体を丸めて何時間経っただろう。結局輾転反側をして朝を迎えた。
真田から何回かメールや電話が来ていたが応答する気力が湧かない。
約一週間、ほぼ睡眠が取れず食欲もない状態が続いた。その結果、萌香は会社で朝礼中に昏倒した。
救急車で運ばれ極度の衰弱状態の為点滴を受け、なんとか帰宅する。
帰宅後、ベッドに倒れこんでそのまましばらく目を閉じているとインターホンが鳴った。
億劫だったので無視しようかとも思ったが結局応答する。
「はい」
「俺、明日香」
一番会いたくて、一番会いたくない相手だった。
どうしよう。会わす顔がない。でも会いたい。
しばし逡巡する。結局会いたい気持ちが勝ってオートロックを解除するとのろのろと玄関に向かう。
チャイムが鳴ったのでドアを開けると心配そうな表情の真田が立っていた。
何を言ったらいいのかわからないまま、立ち尽くす。
「...入っていい?」
真田の声に萌香は黙ったまま頷く。
靴を脱いで部屋に上がった真田は戸惑った様子で部屋を見回した後、萌香に近づいて腕を伸ばしてきた。
そんな真田の腕をするりと交わす。
「コーヒー淹れるね。座っていて」
ぽつりと萌香が言う。
真田は黙って頷きソファに座った。
萌香はコーヒーをマグカップに注ぐと片方を真田に渡し、もう片方をビーンズテーブルに置いた。そして真田の隣には座らずテーブル越しに向かい合う形でラグの上に座った。真田の隣には座れなかった。
結局互いに無言のままコーヒーを飲む。
「そうだ萌香、遅くなっちゃったけど誕生日おめでとう」
そうか。この間、誕生日だったんだ。一緒に過ごしたかったな。心の中で呟く。
「...ごめんね」
萌香がぽつりと言う。何が申し訳ないのかわからないほど、何もかもが申し訳ない、そんな気持ちだった。
「俺はいいんだけど、どうしたんだ?大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「隣、おいでよ」
真田がソファを示して促す。
萌香は黙って俯いたまま首を左右に振る。
「萌香」
真田の苦しそうな掠れた声が再度言う。
「萌香」
萌香はまっすぐ真田の顔を見つめる。愛おしい顔を見ているとこんなにも真田を苦しめていることが辛くなって思わず言う。
「ごめんなさい。私、また汚されちゃった。もう私、真田さんに会えない」
もう顔を見る勇気がない。涙が冷えた頬を灼く。
「ごめんね、ごめんね」
俯いたまま何度も呟くように詫びる。絶望が胸を冷やす。
真田が動く気配がした。ソファを立ち萌香の隣に座る。真田に触れる資格なんてない。そう思うと身体が真田から逃げようとする。
しかしそれより先に真田はしっかりと萌香の身体を抱き締めていた。
「ごめんね、真田さん、ごめんね」
もう泣き尽くしたと思っていたのに、何故まだ涙が出るの。
真田は萌香を抱き締めながらずっと優しく髪を撫でていてくれた。
そうするうちにこの一週間眠れなかったのが嘘のように萌香は眠りに落ち込んでいった。
*****
目が覚めると萌香はベッドにいた。
ベッドに寄りかかるようにして真田が眠っている。
一週間ぶりの睡眠は萌香の理性を少しは蘇らせてくれたようだ。
「明日香さん」
愛おしい名前を呼ぶと眠たげな顔で真田が萌香を見て笑う。
「腹減ったろ、プリン買ってきた」
「ありがとう」
真田は冷蔵庫からプリンを出すと並んで座るのを促すように自分の前に置いた。萌香はスプーンを出してまたテーブル越しに向かい合う形でラグの上に座る。
「いただきます」
萌香はぽつりと呟くように小さく言うとプリンに手を伸ばし蓋を開け、ゆっくりと口に運ぶ。
真田はしばらくそれを見守ってから自分も「いただきます」と言ってプリンを食べ始めた。
萌香がプリンを食べ終わると、お腹がきゅうっと鳴った。恥ずかしい。顔を見合わせて苦笑する。
「ヨーグルトとゼリー飲料も買ってきてあるよ」
萌香は頷くと冷蔵庫からヨーグルトを取り出しまた食べ始める。正直なところ食欲はないが、少しでも食べなければ真田が心配する。
たかが一杯のヨーグルトを食べるのに、いつもの数倍も時間がかかる。
「ごちそうさまでした」
そっと呟く。
「お母さんの具合が悪かったの」
「そっか。大変だったんだね」
「ううん。そんなに大げさなことじゃなかったんだけど。年も年だから心配でね。だから帰って様子を見てきたの」
「そうなんだ」
「うん」
萌香が俯く。
「お母さんの具合が悪かったから帰ったんだけど」
「うん」
「お兄ちゃんがいたの。私、今度は抵抗したんだけど、敵わなくて」
「そうだよな」
「抵抗、したんだけど」
いくら泣いても涙は枯れないのだろうか。また涙があふれ出す。
「でもね、最後まではされなかったんだよ」
涙を懸命に手の甲で拭いながらなんとか笑ってみせる。
真田はソファから立ち萌香を後ろからぎゅっと抱きしめる。今度は逃げる気になれなかった。
「無理に笑うな」
「ごめんね、ごめんね」
何度も呟くと真田の萌香を抱き締める力が強くなる。
「明日香さん、苦しいよ」
萌香が苦笑する。真田が力を緩めたので、甘えるようにもたれかかる。
「私ね、中学生の頃、お兄ちゃんに好きなように弄ばれていた。女ってね、一番大切な人にしか触れられたくないものなの。お兄ちゃんに弄ばれた私は汚された最低な人間なんだって思っていた。だから知らない男に自分を汚させて自分を痛めつけてしまった。汚れた私が明日香さんに触れちゃいけないって思ってしまった」
真田に向き直って続ける。
「それだから一度私は逃げた。でも明日香さんは私を見つけてくれた。なのに、また」
「汚れるってなんだよ。萌香がやりたくてやったことじゃないのに自分を責める必要なんてないと俺は思う」
「でも」
真田が萌香を抱き寄せて言う。たった、一言だけ。
「辛かったんだな」
「うん」
そう、誰かに言えば軽蔑されるんじゃないかと怖かった。辛かった。そんな痛みが溶けていく。
初めて萌香は声を上げて子どものように泣きじゃくった。
そんな萌香の髪を真田は優しく撫で続けてくれた。
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