07
朝、目が覚めると萌香がいなかった。
慌てて飛び起きる。俺を置いていくなって言ったのに。約束したのに。
ビーンズテーブルの上に書置きがあった。
「朝食の買い出しに行ってきます」
なんだ。それだったら起こしてくれればよかったのに。ほっと安堵の息をつく。
急に泊まることにしたので着替えがない。しょうがないので昨日の服をそのまま着ることにする。
髭剃りも当然ないので髭はそのままだ。
とりあえず顔を洗って萌香を待つことにする。
本棚を見てみるとライトノベルからミステリー、時代小説など雑多なジャンルが大量にある。
その本棚には以前にも見た古めかしいオルゴールも置いてあった。蓋を開けると可愛らしいバレリーナが出てくる。
ネジを回すとなんとなく聞き覚えのあるメロディにあわせてバレリーナがくるくると舞う。
そのままオルゴールをビーンズテーブルに置いて眺めていると玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
萌香が帰ってきた。
そして。
萌香は買い物袋を取り落して硬直した。顔が真っ青だ。
「どうした?大丈夫か」
俺の声に我に返った萌香がオルゴールの蓋を慌てて閉じる。
「勝手に触っちゃ駄目だったかな」
「ごめん、今は話せない。とりあえず朝ご飯ににしよ」
無理に笑う萌香に申し訳なくなる。
萌香が用意してくれた朝食は出汁巻玉子、焼き鮭、白菜の梅肉和え、豆腐と油揚げの味噌汁、白い飯だった。
朝からこんなに食べるのは久しぶりだ。
「いただきます」
手を合わせると早速味噌汁に手を付ける。
「くぅ、やっぱり味噌汁は日本人のソウルフードだね」
やっぱり唸る俺を見て萌香が笑う。
「どしたの?」
「ううん、私もいつも同じこと言うからおかしくって」
そういえば前にもこんなやり取りがあったな。あの時はごまかされたけれど。
「な、萌香。買い出しに行くなら起こしてくれればよかったのに」
「だって、明日香さん、あんまり気持ちよさそうに寝ているから起こせなくて」
「そういえば萌香は今日休みなのか?」
「うん、お休み。だから今日は一日一緒にいられるよ」
遅い朝食後、萌香の淹れてくれたコーヒーを飲みながら会えなかった一ヶ月半を埋めるようにお互いの話をする。
「サイト、見たよ」
「そっか」
「すごく嬉しかった。でもね、今更私に何が言えるんだろうと思ったら連絡する勇気がでなくて。ねえ、なんで小鳥なの?」
小首を傾げながら萌香が言う。相変わらず可愛い癖だ。
「そうやって小首を傾げるところとか小鳥っぽいなぁって。それに、俺が迂闊に近づこうとするとどこか飛んで行っちゃいそうな雰囲気があったから」
「そっか」
昨夜と同じようにラブソファに並んで座りながら萌香は俺の肩に頭をもたせ掛ける。
「心配させてごめんね」
「もういい。こうやって隣にいてくれるから」
「ありがとう」
軽く口づけを交わし微笑む。
初めて会った時の萌香は初々しさの感じられる二十代前半という印象だったが、再会した時には優しい笑顔の中にもどこか憂いを感じさせて二十代半ばくらいに見えた。
しかし今朝の萌香の顔には今まで時折覗かせていた憂いの影などどこにも見えず初々しい少女のようだった。
「そういえば萌香って何歳なの?」
「やだ、女性に歳訊くなんて」
「いいじゃん。俺は27歳。今年の一月に27になった」
「...今26歳。今度の8月で27」
「一個しか違わないんだ。てっきり二十代前半だと思ってた」
「それって褒められてるのかな」
黙って萌香の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「や、髪乱れるし」
乱れた萌香の髪を梳いて綺麗に整えるのがたまらなく嬉しい。萌香の髪は柔らかく艶やかでいつまでも触っていたくなるんだ。
「8月って今月じゃないか。何日?」
「26日」
「うわ、来週の火曜日か。何か予定とかあるの?」
「ううん、特にない。仕事だし」
「誕生日なのに休み取らなかったの?」
「うん、別に特別なことするわけじゃないし。でも次の日は休みだよ」
「シフトは?」
「早番」
「そっか。じゃ、一緒にご飯食べようか」
「嬉しい」
お昼は萌香の焼いたベーグルでサンドイッチを作ってくれた。
「今日、どうする?どこか出掛ける?」
「ううん、部屋でのんびりしたい」
俺も同じだったのでそれまで触れられなかった乾きを癒すように萌香を抱きしめる。
萌香の好きなドラマや映画を一緒にみたり、萌香の淹れてくれたコーヒーを飲んだり、そんなささやかなことがこんなにも幸せだなんて思ってもみなかった。
「夜、何食べたい?」
「うーん。柔らかいもの」
「ざっくりし過ぎだって」
笑いながら萌香が苦情を言う。
「じゃ、洋風で柔らかいもの」
「しょうがないなぁ」
夕食の買い出しには俺も一緒に行くことにした。少しでも長く一緒にいたい。
一生懸命食材を選ぶ萌香の姿が可愛らしい。俺たちって新婚さんみたく見えているのかな。
そんなことを思うとついつい顔がにやけてしまう。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
「やだ、気になる」
夕食はタラのムニエル、マッシュポテト、人参のグラッセ、野菜スープ、バターロールだった。
「うまい!」
素直に言葉が飛び出てくるくらいに萌香の料理は旨かった。洋風で柔らかいものというアバウトすぎるのにもほどがあるリクエストに見事に応えてくれているのが驚きだ。
萌香はそんな俺をまた小首を傾げながら微笑んで見ている。こんな時間がいつまでも続いてほしい。
明日は月曜日だ。夕食を終えると俺は萌香の部屋を出た。
玄関で萌香は俺の頬に手を伸ばし笑う。
「不精髭。ざらざらだね」
萌香の手を摑まえると咄嗟に強く抱きしめていた。
「絶対。もうどこにもいくなよ」
「約束」
長く優しいキスを交わすと俺は萌香の部屋をあとにした。
*****
萌香の部屋から帰った翌日、月曜日。萌香から実家にしばらく帰らなければいけない用事が出来たとのメールがきた。
「明日、萌香の誕生日なのに」
一緒に過ごせないことが残念でならないが、家族は大事にしなきゃと自分に言い聞かせなんとか納得する。
その後一週間ほど萌香からの連絡は途絶えたままだった。心配になってきたのでメールや電話をしてみたが一切応答がない。胸が騒ぐ。
どこにもいかない、俺を置いていかないと萌香は約束してくれた。だから、黙ったまま消えてしまうなんてあるはずがない。
さらに一週間経っても萌香からの連絡は来なかった。
何かおかしい。そう思った俺は金曜日の夜、仕事が終わった後で萌香の部屋を訪ねることにした。
なんとか定時で仕事を終え、急いで萌香の住むマンションへ向かう。
マンション前で部屋を見上げると灯りが点いていた。
「なんだ、いるのか」
ほっとすると同時に連絡がないことへの不安が湧き上がる。
マンションの玄関はオートロックだったので、早速萌香の部屋番号を押しインターホンを鳴らす。ややあって萌香の声がした。
「はい」
「俺、明日香」
沈黙が長い。かなり待ってからオートロックが解除された。
ますます不安が強くなる。エレベーターがくるのがもどかしいほど遅く感じられる。
萌香の部屋の前に立つと改めてチャイムを鳴らす。今度はすぐに玄関のドアが開いた。
約二週間ぶりに見る萌香は顔色が悪く明らかにやつれて、目の下には隈があった。あまりの変わりように俺は声が出なかった。
お互い無言のまま玄関で向かい合って立ったまま数分が過ぎる。
「...入っていい?」
萌香は黙ったまま頷くと俺を部屋に入れてくれた。
約二週間前に見た部屋は全て整然と片付けられていたが、今は色んなものが雑然と放り出されている。
萌香のあまりに痛々しいやつれように苦しくなった俺は彼女を抱き締めようとしたがするりと逃げられる。
「ごめん、ちょっと部屋片付けるね」
そう言うとのろのろと部屋に散らばった色々なものを元々あった場所へ片付け始める。
俺は何も言えないまま、ただ立ってそれを見守っていた。
30分ほど経ってなんとか部屋は元の様子を取り戻した。
「コーヒー淹れるね。座っていて」
ぽつりと萌香が言う。
俺は黙って頷きソファに座った。
コーヒーを入れている後ろ姿を見ていてふと気づく。ふくらはぎに薄っすらと痣のようなものがあった。
胸をざらっとした感触が撫でる。
萌香はコーヒーをマグカップに注ぐと片方を俺に渡し、もう片方をビーンズテーブルに置いた。そして俺の隣には座らずテーブル越しに向かい合う形でラグの上に座った。
こんな時、なんて声を掛けたらいいのだろう。わからない。
結局互いに無言のままコーヒーを飲む。
「そうだ萌香、遅くなっちゃったけど誕生日おめでとう」
なんとか勇気を振り絞って言うが萌香は反応しない。
またそのまま数分、無言のままコーヒーを飲む。
「...ごめんね」
萌香が急にぽつりと言った。
「俺はいいんだけど、どうしたんだ?大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
どう見たって大丈夫じゃないのにそう言う萌香の能面のような表情が哀しい。
「隣、おいでよ」
ソファを示して促す。
萌香は黙って俯いたまま首を左右に振る。
「萌香」
声が掠れる。
苦しそうな俺の声にやっと萌香が顔を上げた。
「萌香」
再度呼びかける。
急に大粒の涙が萌香の目から溢れ出した。
「ごめんなさい」
何故謝るんだ。
「私、また汚されちゃった。もう私、真田さんに会えない」
頭を何かで殴られたような衝撃があった。
汚された。やつれた顔。ふくらはぎの痣らしきもの。帰省していた時に何があった。
「ごめんね、ごめんね」
何度も呟きながら萌香が俯く。
胸が冷える。何があったのか言うまでもない、そうだ。
どろどろと憤ろしい気持ちが湧き上がるのと同時に、萌香の痛みに哀しみに涙が出てくるのを堪えられなかった。
ラグの上に無力な子どものように座る萌香を見ると俺は居ても立っても居られなくなりソファを立つと萌香の隣に座りなおす。
そして逃げようとする萌香を捕まえて抱きしめた。
「ごめんね、真田さん、ごめんね」
萌香はずっと呟いている。
俺は何も言えなかった。ただ抱きしめることしか出来なかった。
萌香が泣き止むまでずっと髪を撫でながら抱きしめる。
やがて幼い子どもが泣き疲れて眠るように萌香は俺の腕の中で寝息を立て始めた。起こさないようにそっと抱き上げベッドへ運ぶ。こんなにも軽い。
玄関に部屋の鍵が置いてあるのを知っていたので、その鍵を持って俺は一旦部屋を出た。
明らかに食事を摂っていないだろう萌香に何か食べさせなければいけない。しかし長期間食事を摂っていなければ胃が弱っているはずだからコンビニ弁当などではきっと食べられないだろう。
マンションに隣接するスーパーでとりあえずゼリー飲料やヨーグルト、萌香の好きなプリンなどカロリーがあって胃に負担がかからなさそうなものを選んで買って部屋に戻る。
萌香はまだ眠っていた。疲れの深く滲んだ寝顔に胸が痛む。
そのまま俺は萌香に寄り添って眠れない夜を過ごした。
*****
少し俺もとろとろとうたた寝をしていたらしい。
「明日香さん」
萌香が俺を呼ぶ声で目が覚めた。一眠りしてどうやら少しは落ち着いたようだ。俺は安堵の息を吐く。とりあえず萌香に何か食べさせよう。
「腹減ったろ、プリン買ってきた」
「ありがとう」
萌香が弱々しく微笑む。
俺は冷蔵庫からプリンを出すとテーブルに二つ並べる。萌香が俺の隣に座るように。
しかし萌香はそれを拒むようにスプーンを取り出し俺の分を渡すとテーブル越しに向かい合う形でラグに座る。
「いただきます」
萌香はぽつりと言うとプリンを少しずつ慎重に口に運ぶ。
俺はしばらくそれを見守ってからプリンを食べ始めた。
萌香がプリンを食べ終わると彼女の腹がきゅうっと鳴くのが聞こえた。互いに顔を見合わせて苦笑する。
「ヨーグルトとゼリー飲料もあるよ」
俺が言うと萌香は頷き冷蔵庫からヨーグルトを取り出し食べ始める。たったこれだけの量を億劫そうに食べる萌香は、一体どれだけの期間食事を摂っていなかったのだろう。それを思うと切なくなる。
「ごちそうさまでした」
やっと食べ終わった萌香が言う。
「お母さんの具合が悪かったの」
「そっか。大変だったんだね」
「ううん。そんなに大げさなことじゃなかったんだけど。年も年だから心配でね。だから帰って様子を見てきたの」
「そうなんだ」
萌香が俯く。
「うん」
思考が空回りしているのか同じ言葉を繰り返す。
「お母さんの具合が悪かったから帰ったんだけど」
「うん」
「お兄ちゃんがいたの。私、今度は抵抗したんだけど、敵わなくて」
頭が痺れるような衝撃だった。
汚されたという言葉、やつれきった姿、ふくらはぎの痣らしきもの。全てが噛み合うと自分の無力さに絶望する。
「抵抗、したんだけど」
こんな小柄な萌香が大の大人の男にどれだけの抵抗が出来ただろう。
「でもね、最後まではされなかったんだよ」
溢れ出す涙を一生懸命に拭って笑って見せる萌香を見ると俺は居ても立ってもいられなくなり、ソファから立ち上がると萌香を後ろから強く抱き締めた。
「無理に笑うな」
「ごめんね、ごめんね」
萌香が何度も絞り出すように呟く。思わず萌香を抱き締める腕に力が入る。
「明日香さん、苦しいよ」
萌香の苦笑混じりの声にはっと気づき腕の力を緩めると萌香が甘えるようにもたれかかってきた。
「私ね、中学生の頃、お兄ちゃんに好きなように弄ばれていた。女ってね、一番大切な人にしか触れられたくないものなの。お兄ちゃんに弄ばれた私は汚された最低な人間なんだって思っていた。だから知らない男に自分を汚させて自分を痛めつけてしまった。汚れた私が明日香さんに触れちゃいけないって思ってしまった」
萌香は俺に向き直って続ける。
「それだから私は一度逃げた。でも明日香さんは私を見つけてくれた。なのに、また」
俺は萌香を抱き寄せて言う。
「辛かったんだな」
「うん」
今までどれだけ声を忍ばせて隠れて泣いていたのだろう。俺の腕の中で萌香は初めて声を上げて子どものように泣きじゃくった。
そんな萌香が堪らなく哀れで愛おしくて俺はずっと萌香の髪を撫で続けた。
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