06
萌香の過去を聞いて別れたあの日の翌週、俺は萌香の部屋を訪ねた。しかし明らかにガスや電気が停止していて引っ越した後のようだった。
メールにも電話にも応答はなく、彼女は俺の前から姿を消してしまった。
せめて彼女の親しい人間と連絡先を交換しておけばよかった。悔やんでも仕方ないがそんなことを繰り返し考えた。
彼女と今まで話したことについて何度も何度も思い返す。彼女に辿り着くよすがになるものが何かないか。
萌香と出会ったきっかけは、そう、写真と俺のwebサイトだ。
彼女の写真を掲載して良いか確認したものの、あの笑顔を自分のものだけにしておきたくて結局写真を掲載しなかった。
もしかしたら彼女はまた俺のサイトを見てくれるかもしれない。
今までサイトのコンテンツは『人』『空』『モノ』の3つだった。もちろん『人』の項目に写真を追加するという形でも良かった。
でも、ほかの誰よりも特別な笑顔をたくさんの笑顔達の中に並べるのは少し違う気がした。
だから思い切って萌香の写真だけを載せよう。
コンテンツの名前は、そうだ、小鳥のように小首を傾げる可愛い癖、そして小鳥のように俺の前から姿を消した可愛い人、そうだ、『小鳥』にしよう。
伝えたい言葉は山ほどあるように思うがうまく出てこないので写真の下には一言だけメッセージを載せる。
「待っています」
ただ、サイトを見てくれるとは限らないし、待っているだけというのはあまりにももどかしい。
彼女の話していたことを思い出せ。ない頭をフル回転させて彼女との会話を思い出す。
そうだ、彼女の勤務先を聞いていた。しかし、さすがに問い合わせても従業員に取り次いではくれないだろう。
会社の場所はなんとなく聞いてはいたもののはっきりとはしない。こんな時はGoogle先生に頼るしかない。
ネットで検索し会社の場所を特定することは容易かった。
しかし、彼女はシフト制で働いている為いつが出勤でいつが休みなのかまではわからない。こうなったらもうとにかく可能な限り彼女が出てくるのを待とう。
さすがに会社を休むわけにもいかないので、仕事が終わった後、彼女の遅番と通し勤務の時間に的を絞って会社前で粘ることにする。彼女が早番の場合はまだ俺の仕事が終わっていないことが多いからだ。
さすがに二週間以上粘った時点で胡乱な目で見られるようになり始めたが、そんなのは知ったことか。
萌香からの連絡が途絶えたまま、約一ヶ月半が経過しようとしていた頃のこと。
気もそぞろだった俺は仕事で大きなミスをやらかしてこってり絞られた後、萌香の会社へ向かった。今日もひたすら粘り腰のつもりだった。
一時間ほど待っただろうか。
ビルの自動ドアが開いてやや薄暗いフロアから出てくる人影が見えた。
小柄な体に長いストレートヘア、見慣れた体のライン、そう、萌香だ。
やっと見つけた。その喜びと興奮で俺はしばらく動けなかった。
まずい、彼女が行ってしまう。咄嗟に駆け寄り彼女の肩に手をかけたのが失敗だった。
萌香が掠れた悲鳴をあげて崩れるように座り込んでしまったのだ。あんなトラウマを思い出させてしまった後になんて迂闊なことをしたのだろう。
萌香は酷く震えながら自分の体を抱き締めひゅうひゅうと苦しそうに呼吸している。なんとか落ち着かせようと正面に回り彼女の両肩を掴んで声をかける。
「萌香、落ち着け、俺だよ、明日香だ」
しかし彼女は固く目を閉じて苦しそうな呼吸をするばかりで俺だと気付いてくれない。
突如女性の悲鳴が聞こえた。
「萌!」
まなじりを吊り上げ必死の形相で俺に向かって駆け寄ってきた女が猛然とバッグで俺に殴りかかってきた。あまりの勢いに俺はもんどりうって倒れた。滅茶苦茶痛い。
女はそのままバッグを放り出すと萌香を強く抱き締める。
「この子に何したのよ、あんた。警察呼ぶよ」
威嚇するような物言いに俺は慌てて釈明する。
「違うんです。俺、真田って言います。何も変なことはしてません」
「でもこの子、こんなに怯えてるじゃない」
噛みつきそうな勢いに思わず慄く。
「いや、あの」
「妙、大丈夫」
やっと我に返った萌香が呼吸を整えながら言う。
「私が勝手にびっくりしちゃっただけだから。ほら、あの真田さんだよ」
そうか、この女性が時々会話に出てきた岡村さんかと納得する。
岡村もやっと警戒を解いてくれた。
「なんだ。あんたがすごく怯えてたから例のストーカーかと思った」
「ストーカー?」
さすがにあれだけ粘っていれば不審者扱いも無理はないか。
「最近会社で噂になってるんですよ、会社前に長時間居座る男がいる、ストーカーなんじゃないかって」
自業自得だがさすがに少し切なくて笑えてしまう。
「そんな噂になっちゃってたんですね。なんかすみません。とにかく僕が彼女送っていきますんで」
「いえ、こっちこそすみません、思い切りぶん殴っちゃったんですけど怪我ないですか?」
倒れた時にしたたか強打した尻が痛い。
「あー、いや、正直さすがに痛かったですけど大丈夫です」
「ほんとごめんなさい、びっくりしちゃって。じゃ、萌香のことお願いしますね」
萌香をこんなにも心配してくれる岡村の心根が嬉しかった。
「はい」
岡村は会釈すると札幌駅方面に去って行った。
やっと萌香と会えた喜びを噛みしめる。
「やっと会えた」
「私なんかにそんな優しい顔で笑いかけないでよ」
そんな卑屈な言葉はお前に似合わない。
「私なんかとか言うな。卑屈になるなよ。俺は萌香の過去に何があったって構わない」
「あなたが平気でも私がダメなの」
そう言って萌香は俺に背を向けて歩き出そうとする。
でも、もうどこにも行かせない。二度と俺の前から勝手に消えないでくれ。
萌香の後ろからそっと抱き締める。俺の腕の中に収まってしまう、こんなにも小さな体。
「萌香。誰よりも潔癖だからこそ、自分が許せなかったんだよな。でもさ、萌香は悪くない。萌香はきれいだよ。汚れてなんかいない。だから」
幼く無力だった萌香に降りかかった哀しみに胸が苦しくなる。思わず声が掠れる。
「だからもう自分を許してやれよ。もう自分を傷つけるようなことするな」
強く抱き締め直して萌香の左肩に顎をのせる。萌香の右手が俺の左の頬に優しく触れた。
彼女の手の動きで俺は自分が涙を流していたことに気づいた。
その萌香の手に自分の手を重ねる。なんて温かく小さな手なんだろう。
「ありがとう」
彼女が言う。
「ありがとう」
俺にはそれだけで十分だった。
手を繋ぎ一緒に地下鉄の駅に向かう。なんてことない事のはずなのに、今の俺にはこのうえなく幸せな時間だった。
歩いていると萌香が俺を見上げて訊いた。
「ねえ、前にサイトに私の写真載せてもいいって言ったのに載せてくれなかったの、なんで?」
照れるあまりにかっと顔が赤くなる。そんな顔を見られたくなくてそっぽを向いてしまう。
「ね、どうして?」
萌香が追い打ちをかける。意外と小悪魔なのかもしれない。
観念して俺は答えた。
「...独り占めしたかったんだ」
ちょっと驚いた表情をしたあと俯いて萌香が言う。
「ありがとう」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「なんだよ、気になる」
思わず苦笑いすると萌香が俺の正面に向かい合って立った。そして左手を俺の右頬に触れて笑う。
「なんでもいいの。言いたいから言うの。ありがとう」
「そっか」
ありがとうっていい言葉だな。そう思って萌香の手に自分の手を重ねると急に萌香の大きな瞳から涙がぽろぽろと零れだした。
今まで彼女はどれだけ暗く冷たい夜を孤独に過ごしてきたのだろう。そう思うと堪らなく切なくなる。
「萌香は泣き虫だな」
萌香の柔らかい髪を優しく撫でると愛おしさが増していくのを感じる。
「真田さんの前だけだよ」
「明日香」
「え?」
「もう真田さんなんて他人行儀に呼ばないの。明日香でいいよ」
萌香の顔が赤くなる。ちょっと悪戯したくなる。
「恥ずかしいってなんだよ。ほら、呼んで」
「...明日香、さん」
「しゃあないか、慣れるまでさん付けでいいよ」
苦笑いしながら萌香の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「や、髪乱れるし」
慌てた様子で萌香は俺の手を掴むとはっとしたように手を離し一歩退く。
もうどこにも行かせない。そう思って俺は一歩近づく。そして俺がくしゃくしゃにした髪を梳いて整える。
「さ、帰ろう」
そう言って左手を差し出すと萌香は俺の手を握った。
「あの日の翌週、俺、お前の部屋に行ったんだ」
ずっと言いたかったことをやっと言える。
「ずっとね、何かしたら小鳥みたく羽ばたいてどこかへ行っちゃうような気がしててさ。それが本当になっちゃって」
「...ごめんね」
「もう俺をおいていかないでくれ」
無言のまま萌香はぎゅっと強く手を握ってくれた。それが答えだ。
それでも念を押す。
「約束な」
「うん、約束。明日香さんも私を置いてどこか行っちゃったりしないでね」
そんな切なそうな顔をするな。
「当たり前だ」
萌香の新しい部屋に上がる。前の部屋同様青を基調にした落ち着いた雰囲気の部屋だ。
見覚えのあるラブソファにどっかりと腰を下ろすと安心感がこみ上げてくる。萌香を手招きすると俺の左側にちょこんと体育座りをする。
早く萌香の体温を感じたくて左腕を萌香の肩に回すと、萌香は俺の肩に頭をもたせ掛けてきた。ふっと花の香りが鼻をかすめる。この香りには覚えがある。
右手同士を繋いだまま特に話すでもなく座っていると不思議と落ち着く。
なんだかそうするのが当たり前のような気がして萌香の右手に口づける。
だめだ、もう我慢出来ない。萌香に向かい合って座り直し頤に右手を添える。そしてそっと萌香の唇に口づけた。
どれくらいそうしていただろう。
萌香の頬が濡れる。
そんな萌香が愛しくて抱きしめながら言う。
「萌香は泣き虫だな」
「明日香さんの前だけだよ」
萌香が泣き止むまでずっと俺は彼女の髪を撫でていた。
「今日泊まっていっていい?」
俺の言葉に萌香は固まった。
「大丈夫、何もしないから」
思わず苦笑いする。
「とりあえず何か食べない?俺、腹減っちゃった」
「昨日のぶた汁ならあるけど」
「ぶた汁?とん汁でしょ」
「いやいやいや、ぶた汁でしょ」
顔を見合わせて思わず笑う。やっぱり方言って可愛いな。
「じゃ、そのぶた汁を頂こうかな」
「はーい」
てっきり豚汁だけかと思ったら、手早く冷奴と白菜の梅肉和えを作って出してくれた。
「いただきます」
声が重なるのは久しぶりだ。夜風に冷えた体に豚汁が沁みる。
豚汁をおかわりしてすっかり満腹になって幸せに腹をさする。
「ご馳走様でした」
「萌香の作ってくれたご飯が美味しかったから、つい食べ過ぎた」
「褒めても今日はデザートはないです」
「残念」
俺は甘党なので本気で残念だったが、さすがに急にやってきてここまでの食事を出してくれたのだ。十分すぎるほど幸せだ。
「コーヒー淹れるね」
「ありがと」
萌香はペーパードリップで丁寧にコーヒーを淹れてくれた。ビターチョコレートのような香りが鼻腔をくすぐる。
印象的な碧が美しいマグカップにコーヒーを注ぐと片方を俺に渡し、もう片方は自分で持ったままラブソファに体育座りをする。
「いいな、こういうの」
そっと萌香が呟く。
「ん?」
「恋愛ってね、あんまり経験ないからよくわからないんだけど、なんていうかこう、もっとドキドキしたり...うまく言えないなぁ」
萌香が自分から話してくれたことが嬉しくて思わず頬が緩む。
「明日香さんといるとね、ずっと昔からそうだったみたいな安心感があるの」
「俺もだよ」
微笑むと自然とまた羽根のように柔らかな口づけを交わした。
「ローマの休日、観たいな」
ふと思いついて言う。
「DVDあるの。観ようか」
全力で頷く。
映画を観ている間、ずっと手は繋いだままだった。
「そろそろ寝ようか」
それぞれシャワーを使い終え、萌香がパジャマ替わりにしているという大き目なサイズのTシャツを借りてそれを着ながら俺が言うと萌香が挙動不審になる。
「大丈夫、一緒に寝よう」
おずおずと萌香が頷く。
先にベッドに入り萌香を腕枕に誘う。そっと横になる萌香を後ろから抱きしめて項に顔を埋め匂いを嗅ぐ。甘い花の香りがする。
その項にキスをして言う。
「いつまででも待っているから。焦らなくていい。無理に大丈夫にならなくていい。俺はどこにも行かないから」
そして再度項にキスをする。
萌香は振り返ると俺の唇を優しく撫でてからキスをしてくれた。
彼女の右目の端から流れる涙を拭いながら言う。
「萌香はやっぱり泣き虫だな」
萌香は黙って頷く。
目に、頬に、唇にキスをして言う。
「さ、寝よう」
萌香が安らかな寝息を立てるまで、俺はずっと深い安堵に憩っていた。
目が覚めた時にもどうか彼女がいてくれますように。
俺は祈る思いで目を閉じた。
拙作をお読み下さりありがとうございます。
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