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インセイン  作者: 夏目泪
5/22

05

引っ越した翌日、萌香は熱を出して初めて会社を休んだ。欠勤の為連絡した上司にも驚かれた。

ふらつきながら病院に行ったところ扁桃腺炎との事だった。

39度を超える高熱の為点滴を受け熱を下げ、しばらく病院で休ませてもらいある程度落ち着いてから帰宅するとそのままベッドに倒れこんでしまった。

浅い眠りの中で萌香は誰かわからないが自分にとって大事な人を兄が殺そうとしたので、その人を助けるために兄を殺そうとするという夢を見た。

泣きながら兄の首を絞める。

そうするうちに自分の呼吸が苦しくなり、自分が泣いていることに気付いて目が覚めた。

首を絞めた感触がまだ手に残っているような気がする。

まだ微熱が残っていて食欲もなかった為、ゼリー飲料を飲み下し薬を服用する。

再度ベッドに戻ると今度は夢は見なかった。

会社は結局三日休んだ。

何回か真田からメールや電話が来ていたが応える勇気はなかった。


新しい住まいは前の部屋よりも会社から若干遠くなったが部屋は広く非常に快適だった。

引っ越して一ヶ月、熱を出したこと以外は特に異変もなく平和に過ごしている。

ある休みの日、久しぶりに真田のサイトを開いてみた。

コンテンツは以前は『人』『空』『モノ』の3つだったが、サイトの構成が変わって『小鳥』というコンテンツのみになっていた。

リンクをクリックしてみる。

写真はたったの二枚だけ。

池にある岩の上に腰をかけた萌香がはにかんで笑っている写真、ベンチに腰掛けて気持ちよさそうに伸びをしている萌香の斜め後ろからの写真。

二枚の写真の下にメッセージが添えてある。

ただ、一言、「待っています」

こんな私を許してくれるの。何故。

思わずスマートフォンを手に取りメールを打とうとする。しかし今更自分に何が言えるだろう。

そう思うと結局メールの文面は浮かばず、そのまま電源を落とした。


*****


「ね、萌、知ってる?最近夜になると会社の前にずっと居座ってる男の話」

ランチで岡村を見つけ向かいに座ると彼女は早速話題を振ってきた。

「何それ、知らない。私見たことないし」

「そうなんだ。毎日ってわけじゃないみたいなんだけど、結構な頻度で長時間居座ってるらしいよ。ストーカーかな?」

「えー、それ怖くない?」

「ちょっと気を付けたほうがいいかもね」

そんな会話をしながら弁当をつつく。

仕事は相変わらずコールセンターのまま、ぬるま湯に浸かっている。


ストーカー疑惑の男の話が出た一週間後、遅番で業務を終え会社を出た萌香の背後から男の声がかかったと同時に肩に手を触れられた感触があった。

わけのわからない恐怖に声にならない悲鳴を上げ萌香は膝から崩れ落ちる。

これまで男性に触れられてもこんなパニックを起こすことはなかったが、今はただとにかく男に触れられるということが怖くて堪らなかった。

がくがく震える体を必死に抱きしめ息をしようとするが酸素が足りない。苦しい。

男は萌香の正面にしゃがみ、萌香の両肩をつかんで何か言っている。

「萌!」

岡村の悲鳴のような声が聞こえた。

猛然と駆け寄りバッグで男をひっぱたくと男が倒れた。そのまま岡村は萌香をぎゅっと抱きしめる。

「この子に何したのよ、あんた。警察呼ぶよ」

岡村が大声を上げるのが聞こえる。

その声で我に返りやっと呼吸が出来るようになった。

男が何か言っている。

「違うんです。俺、真田って言います。何も変なことはしてません」

「でもこの子、こんなに怯えてるじゃない」

「いや、あの」

そうだ、この柔らかく低い声は真田の声だ。

「妙、大丈夫。私が勝手にびっくりしちゃっただけだから。ほら、あの真田さんだよ」

やっと岡村が警戒体制を解く。

「なんだ。あんたがすごく怯えてたから例のストーカーかと思った」

「ストーカー?」

訝しげに真田が片眉を上げる。

「最近会社で噂になってるんですよ、会社前に長時間居座る男がいる、ストーカーなんじゃないかって」

岡村の説明に真田が苦笑する。

「そんな噂になっちゃってたんですね。なんかすみません。とにかく僕が彼女送っていきますんで」

「いえ、こっちこそすみません、思い切りぶん殴っちゃったんですけど怪我ないですか?」

「あー、いや、正直さすがに痛かったですけど大丈夫です」

「ほんとごめんなさい、びっくりしちゃって。じゃ、萌香のことお願いしますね」

「はい」

ちょっと妙、真田さんと二人にしないでよ。

そんな願いは岡村に聞こえるわけもなく、何事もなかったかのように岡村は札幌駅方面に去って行った。

萌香は真田と二人取り残される。

「やっと会えた」

真田が言う。

「私なんかにそんな優しい顔で笑いかけないでよ」

引け目が卑屈な言葉を吐かせる。

真面目な顔になった真田が言う。

「私なんかとか言うな。卑屈になるなよ。俺は萌香の過去に何があったって構わない」

「あなたが平気でも私がダメなの」

そう言って真田から逃げるように背を向ける。しかし歩き出すことが出来なかった。

背後から覆いかぶさるように真田が萌香を強く抱きしめたからだ。

「萌香。誰よりも潔癖だからこそ、自分が許せなかったんだよな。でもさ、萌香は悪くない。萌香はきれいだよ。汚れてなんかいない。だから」

絞り出すような声で真田が言う。

「だからもう自分を許してやれよ。もう自分を傷つけるようなことするな」

萌香の肩に雫が落ちる。

真田が、泣いている。

萌香は気付く。知らない男に身体を好きにさせることで自分自身を痛めつけていたということに。

親からもらった身体は大事にしましょう。ずっとそう思ってピアスすら開けたことがなかった自分の最大で最低の自傷行為だったのだ。

そして萌香はさらに気付く。

今の自分にはすべてを知ってもなお抱きしめてくれる人がいる。

萌香は右手で真田の涙を拭って頬を撫でる。温かい。こんなにも温かい。

「ありがとう」

それしか言えなかった。

真田も言う。

「ありがとう」

それだけで十分だった。


*****


「ねえ、前にサイトに私の写真載せてもいいって言ったのに載せてくれなかったの、なんで?」

ずっとひっかかっていたことをやっと訊く。

手を繋ぎながら歩く真田が急にあさっての方向を向く。見上げると耳たぶが赤い。

「ね、どうして?」

そんな真田が可愛くて再度訊く。

「...独り占めしたかったんだ」

そっか。載せたくなかった理由を悪い方向に考えていたことが申し訳なくなる。そして、独り占めしたいほどに自分のことを思ってくれていることが嬉しくなる。

「ありがとう」

「え?」

「ううん、なんでもない」

「なんだよ、気になる」

苦笑いする真田を見上げ向かいあって立ち、左手を伸ばし頬に触れて笑う。

「なんでもいいの。言いたいから言うの。ありがとう」

「そっか」

頬に触れた萌香の手に自分の手を重ねた真田の笑顔はずっと冷たく心を殺してきた萌香の胸に沁みとおるように温かかった。

急に目頭が熱くなる。夜風に冷えた頬にぽろぽろと涙が伝う。

「萌香は泣き虫だな」

萌香の頭を真田が優しく撫でる。

「真田さんの前だけだよ」

「明日香」

「え?」

「もう真田さんなんて他人行儀に呼ばないの。明日香でいいよ」

顔がかっと熱くなる。

「やだ、恥ずかしい」

「恥ずかしいってなんだよ。ほら、呼んで」

「...明日香、さん」

「しゃあないか、慣れるまでさん付けでいいよ」

苦笑いしながら萌香の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「や、髪乱れるし」

慌てて真田の手を捕まえる。両手を握り合った状態で向かい合わせになったことに気づき萌香はぱっと両手を離して一歩退く。

真田は一歩近づくと乱れた萌香の髪を優しく梳いて整える。

「さ、帰ろう」

差し出された真田の左手を握って萌香は頷く。

「あの日の翌週、俺、お前の部屋に行ったんだ」

真田が呟くように言ったので萌香は真田を見上げる。なんて寂しそうな顔。

「ずっとね、何かしたら小鳥みたく羽ばたいてどこかへ行っちゃうような気がしててさ。それが本当になっちゃって」

「...ごめんね」

「もう俺をおいていかないでくれ」

絞り出すような真田の声に胸が締め付けられる。

無言のままぎゅっと強く真田の手を握るとやっと真田がいつものようにくしゃっと笑う。

「約束な」

「うん、約束。明日香さんも私を置いてどこか行っちゃったりしないでね」

「当たり前だ」


萌香の新しい部屋に上がって真田は安堵したようにソファに腰を下ろした。そして萌香を手招きする。

真田の左側にちょこんと体育座りをすると真田が左腕を萌香の肩に回すので、真田の肩に頭をもたせ掛けた。

右手同士を繋いで黙ったまま沈黙に憩う。

萌香の右手を真田が自分の顔に寄せて口づけた。今までもずっとそうしてきたかのような安心感が胸に広がる。

真田は萌香の右手を自分の膝の上に下ろすと、萌香に向かい合って座りなおす。そして萌香の頤に右手を添えると柔らかく萌香の唇に真田の唇が触れた。

どれくらいそうしていただろう。

萌香の頬が濡れる。

そんな萌香をそっと抱きしめながら真田が言う。

「萌香は泣き虫だな」

「明日香さんの前だけだよ」

萌香が泣き止むまでずっと真田は萌香の髪を撫でてくれた。


「今日泊まっていっていい?」

真田の言葉に萌香は固まった。

「大丈夫、何もしないから」

真田が苦笑いする。

「とりあえず何か食べない?俺、腹減っちゃった」

「昨日のぶた汁ならあるけど」

「ぶた汁?とん汁でしょ」

「いやいやいや、ぶた汁でしょ」

顔を見合わせて思わず笑う。

「じゃ、そのぶた汁を頂こうかな」

「はーい」

豚汁だけでは寂しいので、急遽冷奴と白菜の梅肉和えを用意する。

「いただきます」

久しぶりに重なる声に嬉しくなり一人で食べている時よりも食事が美味しく感じられた。

「ご馳走様でした」

真田が満足そうに腹をさすっている。

「萌香の作ってくれたご飯が美味しかったから、つい食べ過ぎた」

「褒めても今日はデザートはないです」

「残念」

本当に残念そうな真田の表情は少年のようだ。

「コーヒー淹れるね」

「ありがと」

萌香の好きなマンデリンを丁寧にペーパードリップで淹れ、碧が美しいジェンガラのマグに注ぐ。ひとつを真田に渡して自分の分を持ったまま、またソファに体育座りをする。

「いいな、こういうの」

そっと萌香が呟く。

「ん?」

「恋愛ってね、あんまり経験ないからよくわからないんだけど、なんていうかこう、もっとドキドキしたり...うまく言えないなぁ」

真田は微笑みながら萌香の言葉を待っている。

「明日香さんといるとね、ずっと昔からそうだったみたいな安心感があるの」

「俺もだよ」

微笑むと自然とまた羽根のように柔らかな口づけを交わした。

「ローマの休日、観たいな」

真田が言う。

「DVDあるの。観ようか」

真田がこくこくと頷く。

観ている間、ずっと手は繋いだままだった。


「そろそろ寝ようか」

それぞれシャワーを使い終え真田が言う。

どうしよう。客用布団なんてない。動揺する萌香を見て真田が更に言う。

「大丈夫、一緒に寝よう」

躊躇いながら萌香は頷く。

先にベッドに入った真田の腕枕に収まるとさすがに少し緊張する。そんな萌香を安心させるようにそのまま背後から真田はしっかりと包み込むように抱き締めた。

萌香の項にキスをして言う。

「いつまででも待っているから。焦らなくていい。無理に大丈夫にならなくていい。俺はどこにも行かないから」

そして再度項にキスをする。

萌香は振り返り真田の唇を優しく撫でてそっとキスをする。

「萌香はやっぱり泣き虫だな」

言われて自分が涙を流していることに気付き黙って頷く。

真田は萌香の涙を拭うと目に、頬に、そして唇にキスをした。

「さ、寝よう」

真田に包み込まれたまま、萌香は深い安らいだ眠りに落ちていった。


拙作をお読み下さりありがとうございます。

励みになりますので、ぜひ感想や評価をお寄せください。

よろしくお願いいたします。

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