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インセイン  作者: 夏目泪
4/22

04

土曜日の午後、仕事が休みだった俺は最近始めた趣味の写真撮影に出掛けることにした。とりあえず形から入るタイプなのでそれなりにいい一眼レフをカメラに詳しいヤツから教えてもらい買った俺は、その一眼レフを首から提げて家を出た。

札幌はいい街だ。適度に都会だが、少し歩けば豊平川の河川敷など自然もある。

転職先に札幌の会社を選んだのには深い理由はなかった。北海道と言えば大自然、うまいものもたくさんある。

そして。

なんとも女々しいことこのうえないが、1年ほど前の失恋の痛手からなかなか立ち直れず、社内恋愛だった彼女の顔を見ていられなくなったというのが大きい。

何せ大学時代からの付き合いでたまたま同じ会社に入ることが出来、5年間ずっと彼女一筋だった。

しかし彼女のほうは長い付き合いに既に飽きていたようで会社に入って間もなく先輩と付き合い始めていたらしい。そう、二股だ。

別れ際はとてもきれいなものとは言い難くとても苦かった。思い出したくもない。

まだ26歳、若さと勢いで一気に転職と転居を決めた。

会社は完全週休二日で普通に土日が休みだ。前の会社はシフト制だったので5日連続で働くというリズムに慣れるまではひどく疲れたが、さすがにもう慣れた。


「鍵、よし」

一人暮らしですっかり身についた独り言がついつい出る。

マンションを出ると地下鉄の駅まで数分、ぶらぶら歩きながら被写体を探す。

晴れた日で日差しは強い。ふと日が翳ったので空を見上げる。

太陽が大きな入道雲で隠れていた。何気なくカメラを向けシャッターを切る。

「暑くなりそうだな」

誰にともなく呟く。

地下鉄の駅はもうすぐそこだ。レンズに蓋を嵌めゆっくり歩き出す。

なんとなく大通まで出てみる。さすがに土曜日は人が多い。

札幌市役所前に出る出入り口から地上へ出て、行き交う人をしばらく観察する。

自分が出てきた出入り口からエスカレーターに乗って出てくる人達。

吐き出されてくる人達の中に彼女はいた。

午後の日差しに目を眇めてサングラスをバッグから取り出すと、黒というよりはやや栗色の長いストレートヘアを後ろに流すようにかきあげてサングラスをかける。縁なしの華奢なデザインのサングラスがよく似合う。

黒い膝丈のワンピースに淡いラベンダー色のカーディガンが品良く似合っていた。

二十代前半くらいだろうか。

生足ではなくてヌードカラーのストッキングを履いているのがかえって艶めかしい。

小柄で華奢な体つきはまるで少女のようだったが、丸みを帯びた体のラインが女であることを主張している。


なんだろう、この肌が粟立つようなぞくぞくする感覚。胸がやけにざわめいて、でもそれは不快ではなくむしろ快い。

彼女が目の前を通り過ぎる。

「すみません」

思わず声をかけていた。

彼女は黙ったまま小鳥のように小首を傾げる。やばい、かわいい。

チキンなはずの俺のどこにそんな勇気があったのかわからないが、思わず言っていた。

「あの、いきなりですみません、ちょっと写真を撮らせてもらえませんか?」

唐突な申し出に彼女は小首を傾げたまま怪訝な表情を見せる。

「いや、その、別に変なのじゃなくて、すごく俺のイメージに合っていたから」

なんて説明したらいいのかわからないが逃しちゃいけない、そんな気がして必死にお願いする。

「いいですよ、ちょっとだけなら」

彼女は小首を傾げたまま小さく笑みを見せる。きっと彼女には俺の鼓動が聞こえているんじゃないだろうか、そう思うくらい胸が高鳴っていた。

「じゃ、早速」

すぐに始めないと小鳥のようにどこかに行ってしまう気がしたので、食い気味に言ってしまった。

彼女は相変わらず小首を傾げたまま柔らかく微笑んでいる。


札幌市役所前には小さな公園のようになっているところがあり小さな池とその真ん中に人が一人座れそうな岩がある。

「ごめん、サンダル脱いでその岩に座ってもらえる?サングラスも取って」

彼女はサンダルを脱ぐときれいに揃え、バッグにサングラスをしまった。

岩に移るのに手を貸す。白くて小さな手。ふっと花の香りが鼻をかすめる。

「こっち向いて両手で髪かきあげて、そうそう、で、もっと笑って」

写真を撮られるなんてことには慣れていないのだろう、最初は笑いながらもやや硬い表情だった。

しかしシャッターを切り続けていると高揚したように頬を少し赤らめ、はにかんだ自然な笑顔が出てきた。

最高の一枚が撮れたと思った。

「ありがとう、気をつけて降りて」

名残惜しかったが撮影を終え、岩から降りる彼女に手を貸す。

いい写真が撮れた確信で高揚していた俺は彼女に笑顔を向ける。彼女は少し照れているように見えた。

笑みを交わすと彼女が急に慌てたようにサンダルを履きサングラスをかけた。

「ごめんなさい、もう行かなきゃ」

どうやらあまり時間がなかったらしい。

趣味で写真を撮るようになってからサイトを立ち上げ、会社の名刺とは別にプライベートの名刺を作ってそのサイトのURLを載せていた。その名刺を慌てて取り出し彼女に差し出す。

彼女は名刺にちらっと目をやってすぐにバッグにしまい走り始めた。

「じゃあね」

声を上げて手を振ってみた。その声に既に走り始めていた彼女が足を止め軽く会釈し、そして人ごみに紛れていった。

「連絡先、聞き損ねた」

思わず呟いてがっくりと項垂れる。札幌の人口ってどれくらいだ。また偶然会える確率なんてどれくらいある。


今日はもうそれ以上撮影する気分にはなれなかったので素直に帰宅した。

データをPCに取り込んで確認する。

池の上の岩に腰かけてはにかんだ笑みを見せる名前も知らない女の子。

これが、彼女との出会いだった。


*****


札幌の冬は予想していた以上に厳しかった。

東京の友人はホワイトクリスマスなんていいじゃん、なんて暢気なことを言っていたが彼女もいないのにクリスマスなんて関係あるか。

そして北海道のクリスマスはホワイトクリスマスじゃない、ホワイトアウトクリスマスだ。下手したら街中ですら遭難する勢いだ。

歩道は凸凹のスケートリンクのようだし、滑ったと思ったら防ぐ余地もなくあっという間に転んでしまう。北海道の民は転ばない特殊技能でも持って生まれたんじゃないかと思うくらいさっさと歩いていくのに、俺はおっかなびっくり歩いて挙句転ぶ。

しかしさすがに長い北海道の冬が終わりに差し掛かる頃にはそれなりに転ばず歩けるようになった。

4月になってもまだ雪が残っていて桜も咲いていないことにも驚いた。こちらではゴールデンウィークの頃に花見をしながらジンギスカンを楽しむのだと会社の先輩から聞いた。


去年の初夏、北海道へ転職して引っ越してきてからもうすぐ一年になる。

こちらにきてから始めたカメラはなかなか楽しくて、写真を掲載する為に立ち上げたサイト経由で嬉しいメールをもらうことも時々あり、それがまた励みになる。

しかし最近PCの調子が悪く、デフラグやら何やらを試しても改善がない為に結局初期化をする羽目になり、バックアップからデータを戻す作業で手間取り一週間ほどメールがチェック出来ずにいた。

金曜日、運良く定時で上がれた為急いで帰宅し作業を済ませるとやはりメールがそこそこ貯まっていた。

その中にはサイトを見てメールをくれた人もいる。

「はじめまして。たまたま真田さんのサイトを拝見したのですが、あまりにも被写体が生き生きと鮮やかで時間を忘れて見入ってしまいました。素敵な時間をありがとうございます。サイトの更新を楽しみにしています」

思わず声に出して読み上げる。

「中嶋萌香さん、か」

受信日時を確認すると一週間ほど前だった。一週間も放置されていたら、向こうももう返信があるなどとは思っていないだろうが、こんな嬉しいメールを貰ったのだからどうしてもお礼がしたい。

取り急ぎ、返信が遅くなって申し訳ないと思っていること、感想を貰えて嬉しかったこと、差し支えなければ被写体になってほしいことなどを綴り祈るような気持ちで送信する。

さすがに返信はないだろうから期待はしていないが、どうしても感謝の気持ちは伝えたかった。


俺は自炊するという高度なスキルを持っていない為、自然と食事はコンビニ弁当やスーパーの惣菜などに頼ることになる。今日はコンビニの幕の内弁当だ。

適当にテレビをザッピングしながら弁当を掻き込み、食べ終えると弁当殻をゴミ箱に捨てる。

シャワーを浴びてさっぱりしたところでビールを開ける。缶のまま一口呑むとメールが着ていたことに気づいた。

何気なくチェックすると中嶋萌香からの返信だった。

「嘘」

期待していなかっただけに喜びも大きかった。

「モデル、やってくれるんだ」

もちろん、彼女が何歳くらいでどんな外見なのかはわからないが、俺はとにかく被写体になってくれた人が心を開いて笑顔を見せてくれる瞬間がたまらなく好きだ。だからこれを逃す手はない。

それに彼女のこれまでのメールの文面からは落ち着いた品の良さを感じる。

早速自分の休みが土日なので、休みが合うようであれば都合の良い日を教えてほしい旨メールを送信する。

反応は早かった。明日。こんなにタイミングが合うなら絶対逃しちゃいけない。

またすぐに明日の何時に何処での待ち合わせが良いか確認のメールを送る。

しかし今度はなかなか返信がこない。

「ちょっと引かれちゃったかな」

思わず呟いてまたビールを呑む。

30分ほど経ってから返信がきて、思わずPCにかぶりつく。

明日の13時、大通公園一丁目の一番テレビ塔寄りで塔に対して正面に向いたベンチ。ほっとした。

すぐに了解した旨返信する。


カメラの準備をしてベッドに入る。

いい笑顔が撮れるといいな。

思い切り伸びをして欠伸をするとあっという間に朝だった。

「さて、行くか」

どんな人なんだろう。すごくわくわくする。

逸る気持ちを抑えながら、俺はいつも通り一眼レフを首から下げてマンションを出た。


*****


翌朝、まるで恋人にでも会いに行くようなうきうきした気持ちで急いでマンションを出て待ち合わせ場所に向かった。

大通公園、テレビ塔に一番近いテレビ塔に正対するベンチ。

既にそこには背筋をしゃんと伸ばして座っている女性の後ろ姿があった。待ち合わせ相手かな。

のんびり歩いて近づいていくと、その女性はしばらくテレビ塔の上を見上げていたが何気なくバッグを横に置き気持ち良さそうに伸びをした。

あまりに気持ち良さそうな姿が可愛らしかったので俺は思わずシャッターを切っていた。

あれ、あの横顔見覚えがある。なんだろう、すごく胸が騒ぐ。

背後から思いきって声をかけてみる。

「違ったらすみません、中嶋萌香さんですか?」

彼女は振り返り小鳥のように小首を傾げて俺を見上げた。

「あ、え、嘘」

我ながら間抜け過ぎる声が出た。

彼女はサングラスを外し目を眇めて俺を見つめている。

「あの、去年俺、あなたの写真を撮らせてもらって。えっと、札幌市役所のところで。夏に」

動揺し過ぎて説明が支離滅裂になる。落ち着け俺。彼女を去年見た時には二十代前半くらいに見えたように思ったが、どうだろう二十代半ばくらいだろうか。

彼女はますます不審げに俺を見ている。

「ほら、池にある岩に座ってもらって写真撮ったんですけど。なんか急いでいらっしゃったみたいでほとんど話せなかったから覚えてないかな」

はたと彼女は思い出したようで表情が明るくなる。

「俺、真田明日香って言います。名前があれなんでよく女性と間違われるんですよね」

この名前で女性と間違われたことは数知れない。

「ごめんなさい、私もてっきり女性だと思っていました」

やっぱりか。メールでやり取りする際の一人称は仕事上の癖で「私」にしてしまうから、こっちから事前に男だって言っておくべきだったか。

「こっちこそごめんなさい、ちゃんと言っておくべきでしたよね」

「いえ、大丈夫です。サイトのモデルの人たちの笑顔を見れば、きっと素敵な人が撮っているんだろうなって思っていましたから」

彼女は言ってから咄嗟に俯いたが耳たぶが赤くなっているのが見える。そんな姿が可愛くて俺も思わず顔が赤くなる。

しばらく経って落ち着いたのか彼女が顔を上げたのでずっと気になっていたことを言う。

「また会えてほんとに良かったです。あの時に撮らせてもらった写真、サイトに載せていいのか本人に確認できないままだったし。俺にとって最高の一枚だって思っているんです。あなたの写真、サイトに載せてもいいですか?」

また彼女が俯いてしまう。直球過ぎたかな。

「あ、ごめんなさい、嫌でしたか」

彼女は俯いたままぶんぶんと思い切り顔を左右に振ってから顔を上げた。そして深呼吸をして言う。

「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」

ほっとして思わず顔がにやけてしまう。どうも感情がストレートに顔に出てしまう。

「あの、もしよかったらその写真、いただけませんか?」

「もちろんです!じゃ、次回持ってきますね」

彼女の嬉しい言葉に即答してしまってから、さらっと自分が次回会う約束をしてしまったことに気付く。

「どうしましょうか。もう写真は撮らせてもらっていたわけだし。そういえばお昼ご飯って食べました?」

もっと彼女の写真を撮りたい気持ちはあるが、あの写真以上のものを撮れる自信がないのが正直なところだったのでちょっと俺は逃げた。

「いえ、まだですね。真田さんは?」

「俺もまだなんです。そうそう、札幌と言えばスープカレー?俺まだ食べたことないんですけど、どこかいいところ知りませんか?」

会いたかった人に会えた高揚感で気持ちが大きくなっていたのか、考えるよりも先に言葉が出ていた。

彼女は口元に手をあてクスリと笑う。気安すぎたか。

「え?俺なんか変なこと言いました?」

彼女は笑いが止まらなくなってしまったようで左右に首を振りながらしばらく笑い続け、やっと収まってから言った。

「ごめんなさい、なんでもないです。スープカレー、私の好きなお店でよければ案内しますよ。ちょっと歩きますけど大丈夫ですか?」

道民の「ちょっと歩く」はあまりあてにならないが彼女と少しでも長く一緒にいられるならいくらでも歩く。


大通公園の一丁目と二丁目の間を南に向かってまっすぐ歩くと大きなアミューズメント複合施設があって、その裏にひっそりと店があった。

彼女によると人気店らしく行列もできることがあるとの事だったが、タイミングがよかったのかすぐに席に通された。

メニューは大きなチキンレッグが入っているというチキン野菜カリーなど数種類、辛さが何段階かあるらしく好みに応じて選べるシステムらしい。

好きな店と言うだけあってよく来ているのだろう、要領よく説明してくれた彼女は野菜カリーの辛さ2番を選んだ。

スープカレーと言えばでかいチキンレッグのイメージが大きかった俺はチキン野菜カリーというやつにした。

注文した品が来るのを待つ間、何くれとなく彼女が話をふってくれるのでついつい札幌に引っ越してきた経緯や趣味のことなどを話してしまう。

にこにこしながら話を聞いてくれる彼女を見ていると話が止まらなかったが、注文したカレーがきた為話をいったん中断する。

ナプキンに包まれていたスプーンとフォークを俺に渡しながらスープカレーの食し方を彼女が説明してくれる。

「食べ方は特に決まりはないんですけど、一般的にはスプーンでライスを掬ってスープに浸して食べる、ということになっていますね。でもそうしないでスープはスープ、ライスはライスで食べるという人もいるので、色々試してみてくださいね」

「ありがとう。いただきます!」

手を合わせてから、まずはその一般的な食べ方が試してみようということで言われた通りスプーンでライスを掬い白濁したスープに浸して口に運んだ。

「!!」

なんだこれ。濃厚なうまみのあるスープ、後から来る辛み。これは旨い。

一口目を飲み下すと思わず声が出る。

「うまいです!」

彼女は微笑んで言う。

「お気に召したようで何よりです」

あまりの旨さに手が止まらず、ひたすら黙々と食べ続け、彼女とほぼ同じタイミングで食べ終わった。

「ご馳走様でした」

声が重なる。なんだか嬉しい。

「すげーうまかったです、また来たいな、ここ」

素直な気持ちが言葉になって出てきた。

彼女も同意するように微笑みながら小首を傾げている。可愛い癖だ。

「食後に美味しいコーヒー飲みたくないですか?」

もちろん異存はない。即同意する。

「いいですね、コーヒー。お薦めのお店教えてほしいな」


スープカレーの店を出て、来た道をそのまま大通公園に向かって戻っていくと公園より少し手前の小さなビルに彼女が入っていくのでそのまま付いていく。

これまた小さなエレベーターに乗って7階で降りるとカフェがあった。

店内に入るとジャズが流れており、大きな花瓶に大胆に活けられた花や木の枝が印象的だった。

ソファ席に向かい合って座りブレンドコーヒーを注文する。

小鳥のように小首を傾げ微笑みながら座っている彼女を見るとやはり調子に乗って話してしまう。

「ごめんなさい、なんか俺ばっかり話してますね。萌香さん聞き上手なんでついつい話しちゃって。あの、去年の写真、いつ差し上げましょうか」

「真田さんは土日がお休みなんですよね」

彼女は手帳を確認すると言った。

「当分土日のお休みがないので、今度の金曜日の夜でよかったら大丈夫ですけど」

「じゃ、それで。詳しい時間は近くなったら連絡ください」

彼女が頷いたので何故か安堵した。

どうしてだろう、すぐにもでも羽ばたいてどこかに行ってしまいそうな雰囲気なんだ。


カフェを出るともう夕方だった。

大通公園に戻ったところで別れ、俺は地下鉄に乗って帰宅した。

去年撮った彼女の写真はいつでも渡せるよう丁寧にラミネート加工を施して保存してある。それとは別に特に気に入った写真を保存しておくアルバムにも取ってある。

待ち合わせ前に撮った写真を急いでプリントし、これも渡せるようにラミネート加工を施した。

彼女は例の写真をサイトに載せていいと許可をくれたが、結局サイトには掲載しないことにした。

あんな素敵な笑顔、独り占めしたい。そんな欲のせいだ。


*****


約束の金曜日。前回会った際に携帯の連絡先は交換しておいた。今回の待ち合わせ場所は地下のヒロシ前だ。何故ヒロシ前というのかは知らないが札幌ではハチ公前並にメジャーな待ち合わせ場所らしい。

さすがに金曜日の夜だけあって人が多い。待ち合わせの時間より若干早く着いたが、もしかしたら彼女がいるかもしれないと思ったので周囲を確認してみる。

そうすると大きなテレビの前にいた彼女が軽く手を挙げて俺に向かって歩いてきた。

彼女がいたことに何故か安堵して思わず顔がにやける。

「ごめんね、待たせちゃったかな」

「大丈夫です、私も来たばかりだから」

「写真持ってきたんだけど、どうせだから一緒に夕食いかがですか?」

どうしてだろう、彼女を前にすると大胆になってしまう。

「いいですね」

「俺、行ってみたい店があるんですけど、萌香さん何か食べられないものとかありますか?」

「いえ、多分大体大丈夫です」

「良かった。じゃ、行きましょうか。あ、そうだ、なんでここヒロシ前っていうんですか?」

彼女は先ほどまでその前に立っていたテレビを示して言う。

「あれがヒロシっていうので、ここがヒロシ前なんです」

「なるほど、いたって単純な理由だったんですね」

ハチ公前と同じいたって安易なネーミングだったことを知り笑ってしまった。


会社の女の子にリサーチしておいた美味しいお店をスマーフォンのマップで確認しながら地下街を抜け地上に出る。時々振り返り彼女がいることを思わず確認する。

しばらく歩くと目当ての店の看板があるビルを見つけた。

「えっと、このビルの2階ですね」

ドアを開けて彼女を入れる。彼女は先に立って階段を上る。

「そのまま突き当りです」

通路の突き当りまで行くと目当ての店があった。ドアを開けて入ってみると意外と広い。

テーブル席とカウンター席があり、俺たちはテーブル席に通された。ピークタイムにはまだ早いのか、店内は割合空いている。

「ここ、リゾット専門店なんですよ。女の人ってこういうの好きかと思って」

テーブルに置かれたメニューを開くと何十種類というリゾットのメニューがあり、とてもじゃないが選びきれそうにない。

結局二人とも店員が説明してくれたお勧めメニューを注文した。

店員が立ち去ってから俺は鞄から例の去年の写真を取り出した。

「これ、お約束の去年の写真です」

彼女はしばらく驚いたような表情で写真を見つめていたが、大きく見開いた瞳から急に涙が零れた。

え、俺何か間違ったんだろうか。

「え、ど、どうしたんですか。写真、嫌でしたか」

彼女は言葉が出てこないようでただ首を左右に振る。

急いでポケットティッシュを取り出して彼女に差し出すと、彼女はそれを受け取り慎重に涙を拭う。そして水を飲むとやっと落ち着いたようだった。

「ごめんなさい、困らせてしまいましたよね」

「いや、俺はいいんですけど。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。自分がこんな顔で笑えるって知って嬉しくなっちゃって」

衝撃だった。俺の撮った写真でこんなにも人の感情を動かせるなんて。

タイミングを見計らったかのように注文したメニューが届いたので早速スプーンを手に取る。

リゾットを掬い吹き冷ましてから口に運んだが、リゾットは予想以上に熱く口の中が大混乱になる。

見ると彼女も同様に熱さに慌てているようだ。

なんとか飲み込み水を口に含む。

「うまい、けど熱い」

思わず苦笑いが漏れる。彼女も笑いながら頷いてくれた。

しばらく黙々とリゾットを食べ続け、ある程度お腹が満たされたところでぽつりぽつりと会話が始まる。

先ほどから俺が話してばかりだったので、今度は彼女にも話してもらえるように気を付ける。

どうやら彼女はローマの休日が好きらしい。ロマンティストだと笑われるかもしれないが俺も好きな映画だ。

食後には二人ともコーヒーを注文した。

「実はこの間待ち合わせしていたとき、萌香さんがあんまりいい表情しているからつい撮っちゃったんです」

隠し撮りをしたような後ろめたさがあったので白状するようにその写真を彼女に渡す。

彼女がベンチに腰掛けて伸びをしている姿を捉えた瞬間、その開放的で気持ちよさそうな表情。

「すみません、盗み撮りみたいな感じになっちゃって」

言うと彼女が軽く吹き出した。

「いいんです、真田さんなら」

心臓が跳ね上がる。これ以上一緒にいたらすぐにでも大事な言葉を言ってしまいそうだ。

店が混んできたのでコーヒーを飲み終わったタイミングで店を出た。

来た道をそのまま戻りヒロシ前の地下鉄改札口で彼女と別れた。

次に会う約束のことは言い出せなかった。


*****


映画を観るのは結構好きなので、映画館で今何がかかっているかわりとよくチェックしている。

そう、今週は「午前十時の映画祭」と銘打った古典映画を千円で見られるイベントでローマの休日がかかるのだ。

彼女が大好きだと言った映画で、俺も好きな映画だ。

既に連絡先は交換済だったのでわざとらしくないよう文面を考えて誘おうと思うが、なかなか思い付かない。それなので思い切ってシンプルに土曜日が休みであれば時間を空けてほしいということだけメールした。

返信は早かった。いい手応えだ。

待ち合わせは朝9時半、札幌駅。赤い足のようなオブジェのある場所を指定した。

彼女からは了解したことと用件を尋ねるメールが来たがこれはサプライズだ、当日のお楽しみということで喜んでくれるのを願うばかりだ。


待ち合わせの朝。

浮き立つ思いで足が早まったのか、予定の時間よりも10分ほど早く着いてしまった。さすがにまだ彼女は来ていない。

5分ほど経ってから彼女は現れた。バルーン型のグレーのワンピース姿がなんとも可愛い。

「おはようございます」

「おはようございます、来てくれてありがとう」

「今日はどうしたんですか?」

「萌香さん、映画好きですよね?」

俺の声に彼女はちょっと驚いたような顔をする。

「ローマの休日、今日までなんですよ。もう観ました?」

彼女が一番好きだという映画。どうか今週はまだ観ていませんように。そう願いながら訊く。

「今回はまだです」

やった。喜び勇んで俺は言う。

「一緒に観ませんか?」

「ぜひ」

小首を傾げて彼女は微笑んだ。


映画のクライマックス、王女の会見のシーンが終わったところで彼女がバッグからティッシュを取り出しそっと涙を拭っているのが見えた。

その後ティッシュをしまうと俺寄りの肘掛に彼女が腕を載せる。

もう正直映画どころではなかった。彼女の手に触れたくてしょうがない。

何気ないふうを装って手を重ねようとしたその時。何故か慄いたような風情で彼女はぱっと手を引いた。

何故、そんな。

彼女は俺から視線を外しエンドロールに目を向けた。手はバッグの上に頑なに重ねたままだった。


映画が終わると下のフロアの飲食店街でランチを一緒に食べることにした。最後の気まずい瞬間はお互いなかったかのように振る舞った。

そうしているうちに固い雰囲気は徐々にほぐれ、話が少しずつ弾み始める。

映画の感想、お互いの近況。今食べているメニューの感想。

ランチを終えるとそのまま札幌駅に付属している複合施設一階のコーヒーショップに移動して話し続ける。

気付けばもう18時近かった。

「どうしましょうか。この後」

「ごめんなさい、明日は仕事なのでもう帰ります」

残念だ。あわよくばこのまま夕食も一緒に食べたかった。

しかし無理に引き止めると二度と会ってくれないような気がしたので引き止めることはしなかった。

「また連絡しますね」

彼女が頷く。

乗る地下鉄の路線が違うので改札を通ったところで彼女と別れて帰宅した。

それにしても、いい雰囲気だったのに手を触れようとしたとき何故あんなに怯えたような表情を見せたのだろう。

それだけがずっと気になっていた。


*****



映画を一緒に観て以来、彼女と俺は一週間に一度くらいの頻度で会うようになっていた。

いつも外食ではお金がかかるので、たまには手料理でもと彼女が誘ってくれたのは、そんな関係が始まってから2ヶ月ほど経ってからだったろうか。

手料理に餓えていた俺は一も二もなく賛成して「いかにも家庭の味」という申し訳ないくらいアバウトな注文を付けた。メニューの名前がわからないので大目に見てほしい。

彼女の自宅への道順はメールで丁寧に説明してくれていたのでまったく迷わなかった。

部屋の前でドキドキする胸を抑え深呼吸してからチャイムを鳴らす。

エプロン姿で彼女はドアを開けてくれた。

「こんばんは」

「いらっしゃい、上がって」

もう気分はカップルだ。思わずにやけてしまう。靴を脱いで揃えると部屋に上がる。

にやけている俺を見て彼女はおかしそうに尋ねる。

「どうしたの?」

「なんでもない」

「やだ、気になる」

彼女を抱きしめたい衝動に駆られるがぐっと理性で抑える。

「ソファに座って待ってて。おつゆよそうから」

「おつゆ?」

「うん、おつゆ。え?なんかおかしい?」

「あ、味噌汁か」

椀に味噌汁をよそう彼女を見て納得した。何故だろう、方言で喋る女の子って本当に可愛い。

「もしかして、お味噌汁のことおつゆっていうの北海道弁?」

「うん、多分」

方言だと認識しないで使っているところがこれまた可愛い。

萌香が味噌汁をよそっている間、部屋を見回してみる。青を基調にした落ち着いた雰囲気のいい部屋だ。

本がぎっしり詰まっている本棚には古めかしいが高価そうなオルゴールが載っていた。


萌香は味噌汁の椀をビーンズテーブルに置くと俺の横に座った。

「いただきます」

声が重なるのはお約束になっている。

まず味噌汁の椀を取ると一口すすって唸る。

「くぅ、味噌汁は日本人のソウルフードだね」

コンビニ弁当やスーパーの惣菜をつまみにビールを飲むことが多い為味噌汁は本当に久しぶりだったので思わず唸る。

俺の横で彼女が軽く吹き出した。

「え、どうしたの?」

「なんでもない」

「うわ、気になる」

甘い。甘酸っぱい。俺たちの関係ってなんなんだろう。

それにしても、萌香の料理は母親の味という感じのほっとする味付けのものばかりで、コンビニ弁当に慣れた俺には懐かしく優しい味だった。

気取った料理ではなく、リクエスト通りの家庭の味だ。


食事は和やかに進み、一通り食べ終わると彼女は冷蔵庫から白玉ぜんざいを出した。デザートまで用意してあるとは心憎い。

「待ってね、お番茶淹れるから」

急須に茶葉を入れ、湯が沸くのを待っている彼女を横目に見ながら俺はニュースを見ていた。

児童ポルノの違法業者が摘発されたというニュースだった。ペドファイルなんて反吐が出る。

「児童ポルノだって。こんなの好きなヤツの気が知れねーわ」

思わず吐き捨てるように言っていた。

俺の声に振り返り彼女もニュースを見る。いつもの微笑んだ顔とは程遠い能面のような青ざめた顔だった。

そして眩暈を起こしたようにシンクの縁に彼女はしがみつく。

「どうした?顔真っ青だよ」

「触っちゃ駄目!」

まるで悲鳴のような声に俺は思わず立ち竦んだ。

そのまま彼女は崩れ落ちがたがたと震えながら両腕で自分の体を固く抱き締める。

「お湯が沸いてる。止めなきゃ」

上の空で呟いている彼女の声に薬缶が沸騰していることに気付く。

とりあえずガスを止め震えている彼女を抱きしめようと屈みこんだが、憑かれたように呟く彼女の声に身体が固まった。

「触っちゃ駄目なの。私は汚いから。触っちゃ駄目なの」

彼女はずっと同じ言葉を繰り返している。

汚いってどういうことだ。

「萌香が汚いってどういうことだよ」

何があって今こうなっている。俺は必死に考えた。

そうだ、児童ポルノの違法業者のニュースを見ていた。それを見て彼女はおかしくなった。

もしかして。

俺が気付いたことに彼女も気付いたようだった。

何処かが壊れたような笑顔で彼女は言った。

「お願い、私は大丈夫だから今日はもう帰って」

なんで笑っているんだよ。大丈夫なわけないじゃないか。

お前は汚くなんてない、だから俺に触れさせてくれないか。

「萌香は汚くなんてない。大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言うなよ」

「私はね、知らない男に自分の体を好きにさせるような女なの。汚れきった女なの」

頭をぶん殴られたような気がした。彼女は理解できない言葉を続ける。

「私ね、中学生の頃兄に性的虐待を受けてた。それだけじゃない。去年好きになった人に振られてヤケになって出会い系サイトで会った全然知らない男に抱かれたの」

彼女は頬を濡らしながら引き攣った微笑を浮かべる。

「お願い、帰って」

そんな彼女の痛々しい表情をそれ以上見ていることが出来ず思わず俯く。

そっと優しい声で彼女が再度言う。

「帰って」

俺は急に気付いた。虐待の経験がある人は自傷行為に走ることがあるというが、少なくとも彼女にはその痕跡がないことに。大学時代に少しかじった心理学の知識がカチリと噛み合う。

そうか。自分の体を投げ出して他人の好きにさせること、それが彼女が無意識に行った自傷行為だったんだ。

そしてそれに彼女は気付いていない。

なんとか彼女を抱きしめたかった。決して君が汚れてなんかいないことを知ってもらいたい。

しかし壊れたような笑顔で俺を見ている彼女に手を伸ばすと彼女が消えてしまうような気がした。

それでも何か言いたくて彼女を見つめると彼女は黙って首を左右に振る。

俺は諦めて玄関に向かう。靴を履き、玄関のドアを開け振り返る。

何か言いたかったが、なんと言っていいのかわからず口を閉じた。そして玄関のドアを閉めるとすぐに鍵がかかる音がした。

それは何もかもを拒絶するような響きだった。

俺はしばらくドアの前から動くことが出来なかった。彼女もきっとドアのすぐ向こうにいる、そんな気がした。

しかしドアは冷たく閉じたままだった。


*****


翌週、俺は彼女の部屋を訪ねた。

しかし明らかにガスや電気が停止していて引っ越した後のようだった。

メールにも電話にも応答はなく、小鳥はどこかにいなくなってしまった。

拙作をお読み下さりありがとうございます。

励みになりますので、ぜひ感想や評価をお寄せください。

よろしくお願いいたします。

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