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インセイン  作者: 夏目泪
3/22

03

長い冬が終わり、やっと春めいてきた。

萌香は相変わらずコールセンターで働いている。たまの気晴らしに岡村とカフェに行くのも変わっていない。

「そろそろバッグ変えようかな」

冬の間は雪が入らない様にキャスキッドソンのサドルバッグを愛用している。オイルクロス加工だから濡れないし、両手が空くのでポケットに手を入れていられるからだ。

休日の午後、しまっておいたショルダーバッグを出し、入れたままになっていたポケットティッシュなどを取り出す。

ショルダーバッグの底に敷いてある固い下地の下から、何か白い紙が覗いていた。

「なんだろ」

引っ張りだしてみると、それは名刺だった。

「フリーフォトグラファー、真田明日香」

何故こんな名刺が入っていたのか全く記憶になかった。名刺にはURLも記載されている。

PCは立ち上げたままだったので早速そのサイトにアクセスしてみる。淡い青を背景にした柔らかい雰囲気に好感が持てた。

写真は『空』『人』『モノ』の三つに類別されていた。ひとつのページを開いて萌香は息を飲む。

こんな鮮やかな色彩で世界を見ている人がいるなんて。

空も花も、普段萌香が何気なく見ているものよりも生命感に溢れて色彩が躍っていた。

時間を忘れてサイトに見入る。『人』の項目を開くと、開け放した笑顔、はにかんだ笑顔、たくさんの人の笑顔ばかりがあった。

気づけばもう、長くなった日も暮れようとしている。

「いけない、夕ご飯作らなきゃ」

サイトのトップページをブックマークにいれPCから離れた。

最近よく聴くようになった札幌のインディーズミュージシャンのCDを流しながら夕食を作り始める。今日は大根と鶏手羽元のさっぱり煮、ほうれん草のお浸し、切り干し大根とひじきの煮付け、ワカメと長ネギのお味噌汁に白いご飯だ。

最近はもっぱら和食が多い。

CDを止めテレビをつけると録画しておいた大好きな海外ドラマを再生する。わずかな証拠を科学的に分析し犯人を追い詰めていく警察物で、マイアミを舞台にしたスピンオフシリーズだ。

「いただきます」

手を合わせるとまずはお味噌汁を一口すすり思わずほっと息をつく。

「やっぱりおつゆは日本人のソウルフードだねぇ」

ゆっくりと夕食とドラマを楽しむと食器を洗い、一人暮らしの気楽さで服を脱ぎ捨てるとそのまま洗濯機に放り込み冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出すと浴室へ向かう。

「今日は、お風呂」

浴槽に湯を貯めながら髪や体を丹念に洗う。洗い終わる頃には浴槽に半分ほど湯が貯まっていた。

大好きなバスソルトを入れて体を沈める。やや熱めの湯が心地よい。

ペットボトルの水を口にしながらぼんやりするこの時間が萌香は大好きだ。

「あの写真、綺麗だったなぁ」

先ほど見た真田明日香の写真を思い出す。

「あんな笑顔を撮れる人って、どんな人なんだろう」

きっと温かくて優しい綺麗な人だろう。私みたいな汚れた人間じゃない。

胸に小さく棘がささった気がした。この棘はきっと消えない。

突然湧いてきた暗い気持ちを払うようにばしゃばしゃと浴槽の湯を顔にかけてから拭い、大きく伸びをする。

「さて、あがるか」


浴室を出て体を拭うとパジャマを着る。一通りスキンケアを終えるとまた真田明日香のサイトを開く。

何度見ても色彩の鮮やかさや被写体になった人達の笑顔が眩しい。

サイト内にはメールフォームが設置してあった。きっと仕事の依頼を受ける為のものだろう。

素敵な写真を見られたお礼なんて、送ってもいいのかな。

被写体をこんなにも輝かせる人なら、そんなメールでもきっと嫌な顔はしないだろう。

「はじめまして。たまたま真田さんのサイトを拝見したのですが、あまりにも被写体が生き生きと鮮やかで時間を忘れて見入ってしまいました。素敵な時間をありがとうございます。サイトの更新を楽しみにしています」

メールフォームには名前を入れるところもあったので何も考えずに本名を入力した。

「返事なんてこないよね」

若干の期待が否定する言葉を呟かせる。

「さて、寝るか」

PCの電源を落としベッドに潜り込むと小さく伸びをする。

「返事、くれないかな」

密やかな期待のせいか、遠足前の小学生のようにその晩はなかなか寝つけなかった。


*****


淡々と仕事をこなし、いつも通り会社を出る。

まだ少し肌寒いが北海道で生まれ育った萌香は今くらいの時季の空気が一番好きだ。身を切るような鋭さは既になく、冷たさの中に密やかな温みがある。明日は休みだからこの空気をゆっくり楽しもうと、地下鉄には乗らず徒歩で帰宅することにする。

自宅に着く頃にはすっかり体が温まり軽く汗をかいていた。部屋着に着替えPCを立ち上げる。PCが立ち上がるのを待つ間に作り置きしておいた夕食を温めテーブルに並べる。

「いただきます」

手を合わせてお味噌汁に口をつける。

「うん、やっぱりおつゆはいいねぇ」

ちょっとおばさんっぽいかな、と思いつつも空きっ腹に沁み渡るお味噌汁には唸らずにはいられない。

一人暮らしをしてしばらく経つうちにいつの間にかPCはいつも立ち上げたままにしておくようになり、食事中にもPCでメールをチェックしたり動画を観たりするようになっていた。

その日も食事しつつ、行儀が悪くてごめんねと心の中で誰かに詫びながらメーラーを起動する。

ほとんどはどこかのショップのメルマガなどだが、今日は明らかにそれとは違うメールが混じっていた。

「嘘」

箸が止まる。茶碗と箸を置くとメールの件名をダブルクリックする。

新しく開いたウィンドウを思わず食い入るように萌香は見つめ文字を追う。

「返事、くれるなんて」

一週間ほど前に真田明日香宛に出したメールの返信。

返信がきた事に大袈裟なほど喜んでしまった自分に軽く戸惑いながら、真田からのメールを何回も読み直す。

返信が遅くなってしまい申し訳なく思っていること、写真の感想を貰えてとても嬉しかったこと、差し支えなければいつかサイトにあるような写真のモデルになってほしいこと、などといった内容が丁寧に綴られている。

すぐにでも承諾の返事をしたい衝動に駆られる。

「落ち着け。まずはご飯食べなきゃ」

なんとか自分を現実に引き戻す。いつもよりもはるかに早く食べ終えると岡村に電話をかける。

「どした?」

もしもしも挨拶もなくすぐに用件に入るのが岡村らしい。

「前にさ、すごく綺麗な写真のサイト見せたでしょ?あのサイトの人からメール着たの。良かったらモデルになってほしいって」

「あー、真田さんだっけ?あんた本当に惚れ込んでたもんねぇ。なに、ついに彼氏ゲット?」

「や、ちょっと何言ってるの、名前明日香さんだもの、女性でしょ?」

「そっか、じゃ彼女ゲットか」

「…妙、ぶふぉっ」

「ちょ、あんた今おっさんがいた!」

笑い過ぎて声が出なくなる。

「萌、笑い過ぎ」

そういう岡村の声も震えている。

電話の向こうで岡村が何か飲み物を口にした気配がした後、萌香より先に平常運転に戻った岡村が言う。

「で?」

「でって何さ」

「モデル」

「どう思う?」

「どう思うも何も、やりたいんでしょ?」

笑い含みの岡村の声に、自分はただ背中を押して欲しかっただけだと気づく。

「そうだね。返信してみるわ。ありがと」

「はーい」


真田からのメールに早速返信する。

返事をもらえて嬉しかったこと、私で良ければいつでもモデルになること。

何度も読み直しおかしなところがないか確認した後、慎重に送信ボタンをクリックする。

送信が終わったことを確認すると夕食の後片付けを開始した。洗い終えた食器を拭いて片付けているとメールの受信音が鳴る。

まさか、と思いつつチェックすると真田からのメールだった。あまりに早い返信に動揺しつつメールを開く。

自分は土日が休みなので、もし休みが合うようであれば都合の良い日を教えてほしいという内容だった。

「明日、土曜日だ」

相変わらずシフト制なので土日の休みはそう多くない。明日を逃したらもう。

焦る気持ちを抑えながら返信する。いきなり明日なんて応じてくれるわけがない。

また送信が終わったことを確認するとシャワーを使う為脱いだ部屋着をソファに置き浴室へ向かう。

熱いシャワーを頭から浴びる。しばらく立ってシャワーを浴びたままでいると緊張していた気持ちがほぐれていく。

バスタオルを体に巻いて浴室を出ると既に真田からのメールが着ていた。また一気に緊張する。

返信は簡潔で、明日の何時、どこでの待ち合わせが都合が良いか確認するものだった。

こんなに早く話を進めて良いものか少し戸惑う。しかしサイトに掲載されている写真を思い出すとやはり強く惹かれる。

明日の13時、大通公園一丁目の一番テレビ塔寄りで塔に対して正面に向いたベンチを待ち合わせ場所に指定した。真田からは了解した旨またすぐに返信が着たので安堵する。

何を着て行こうか悩む。気に入っている黒い膝丈のワンピースにラベンダー色のカーディガンにしよう。まだ少し寒いから春物のブーツと薄手のコートを着れば大丈夫だろう。


すっかり体が冷えてしまったことに気づき、急いでパジャマを着る。体を温める為に熱いチャイを淹れた。

チャイを入れたマグカップを両手で包むように持ちながら萌香はソファに体育座りをする。

チャイを飲んで一息つくと緊張が緩んだのか眠くなってきた。カップを洗い歯を磨くとすぐにベッドへ潜り込む。

明日、真田と会ったらどんなふうに挨拶しよう、などとシミュレーションしているうちにいつの間にか萌香は眠っていた。


*****


真田と待ち合わせた当日、萌香は朝からシャワーを浴び、万全の支度を整えて出掛けた。事前に考えていた通りお気に入りの黒い膝丈のワンピースに淡いラベンダー色のカーディガン、春物のコートにブーツ。春は意外と紫外線が強い上に、明るいのが苦手な萌香はサングラスも欠かせなかった。

待ち合わせの時間よりも10分ほど早く到着し辺りを見渡す。特にそれらしい人の姿は見えない。とりあえずベンチに座り待つことにする。

テレビ塔の向こうに見える空は抜けるように高く青かった。春の空気を思い切り吸い込むように伸びをする。

まだあと5分か。真田の到着が待ち遠しい。

「どんな人なんだろ」

はやる気持ちが思わず独り言を呟かせる。

「違ったらすみません、中嶋萌香さんですか?」

背後からやや低めの柔らかい男の声がかかる。聞き覚えのないその声に萌香は振り返り小首を傾げて声の主を見上げた。

「あ、え、嘘」

何故か男はひどく狼狽えている。

萌香はサングラスを外し目を眇める。誰だろう。

「あの、去年俺、あなたの写真を撮らせてもらって。えっと、札幌市役所のところで。夏に」

不審そうな萌香の表情にさらに男は狼狽えながら懸命に説明する。

その姿に記憶がよみがえる。そうだ、札幌市役所のところで唐突に声をかけられ写真のモデルを頼まれた事、その相手。

思い出した萌香の様子に安堵したのか、男がくしゃっと笑う。

「俺、真田明日香って言います。名前があれなんでよく女性と間違われるんですよね」

この人が真田明日香だったのか。メールの中では一人称が「私」だったので名前で勝手に女性だと決めつけていた。

「ごめんなさい、私もてっきり女性だと思っていました」

思わず正直に告白する。

「こっちこそごめんなさい、ちゃんと言っておくべきでしたよね」

「いえ、大丈夫です。サイトのモデルの人たちの笑顔を見れば、きっと素敵な人が撮っているんだろうなって思っていましたから」

率直な賛辞を口にしてから萌香は自分の言葉に顔を赤くしてとっさに俯いた。

顔の火照りが収まるのを待って顔を上げると真田が口を開く。

「また会えてほんとに良かったです。あの時に撮らせてもらった写真、サイトに載せていいのか本人に確認できないままだったし」

また顔をくしゃくしゃにして笑いながら真田が続ける。

「俺にとって最高の一枚だって思っているんです。あなたの写真、サイトに載せてもいいですか?」

真田の直球にまた萌香は顔が赤くなって俯いてしまう。

「あ、ごめんなさい、嫌でしたか」

焦った様子で真田が尋ねる。

嬉しさと照れで声が出ない萌香は思い切り顔を左右に振ってから顔を上げた。

深呼吸をしてなんとか気持ちを落ち着かせるとやっと声が出た。

「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」

ぱっと真田の顔が明るくなる。

「あの、もしよかったらその写真、いただけませんか?」

「もちろんです!じゃ、次回持ってきますね」

さらっとまた会うことを約束されてしまった。悪くない。

「どうしましょうか。もう写真は撮らせてもらっていたわけだし。そういえばお昼ご飯って食べました?」

すっかり忘れていた。そういえば朝からまだ何も食べていない。

「いえ、まだですね。真田さんは?」

「俺もまだなんです。そうそう、札幌と言えばスープカレー?俺まだ食べたことないんですけど、どこかいいところ知りませんか?」

まだ会うのが二回目だというのに、すっかり馴染んだ雰囲気の真田が面白くて萌香は思わず小さく笑ってしまう。

「え?俺なんか変なこと言いました?」

また焦る真田がおかしくて萌香は笑いが止まらなくなってしまう。左右に首を振りながらしばらく笑い続け、やっと収まって声が出る。

「ごめんなさい、なんでもないです。スープカレー、私の好きなお店でよければ案内しますよ。ちょっと歩きますけど大丈夫ですか?」

ぱっと顔を明るくして真田が頷く。感情がストレートに顔に出るのが可愛い。


大通公園の一丁目と二丁目の間を南に向かってまっすぐ歩くと大きなアミューズメント複合施設があり、その裏手にひっそりとスープカレー屋がある。目立たない場所にあるが人気店なのでランチタイムは行列が出来ている場合もある。

今日は運の良いことにすぐに席に通された。

その店では、メニューを決め、辛さの度合いやトッピングなどを選ぶことが出来る。ライスは通常どのカレーにもついてくるようになっており、ライスなし、少な目、普通、大盛りが選べる。

萌香はいつもライスなしで中辛である辛さ2番で野菜カリーを選ぶ。

真田は辛さ3番でチキン野菜カリーをライス大盛りで頼んだ。

頼んだメニューが来るのを待つ間、改めて自己紹介をした。

真田は一年ほど前に東京から引っ越してきたそうだ。札幌に来てから趣味で写真を始めたこと、撮ってみると非常に楽しくついついのめりこんでしまったことなど嬉しそうに語る真田の表情を見ていると萌香まで嬉しくなってしまう。


注文したカレーがきた為話をいったん中断する。スープカレーが初めてという真田の為に萌香が食べ方を説明した。

「食べ方は特に決まりはないんですけど、一般的にはスプーンでライスを掬ってスープに浸して食べる、ということになっていますね。でもそうしないでスープはスープ、ライスはライスで食べるという人もいるので、色々試してみてくださいね」

スプーンやフォークは事前に席に備え付けられナプキンで包まれているので、萌香はナプキンを開きスプーンとフォークを真田に渡す。

「ありがとう。いただきます!」

真田は手を合わせると早速ライスをスプーンで掬い、スープに浸してから口に運ぶ。

「!!」

よほど気に入ったのか、咀嚼しながらなんとか感動を萌香に伝えようとする様子があまりにも少年のように可愛くてまたつい萌香は笑ってしまう。

「うまいです!」

ライスとスープを飲み込んでやっと真田が声を出す。

「お気に召したようで何よりです」

大きなチキンレッグを解体しながら旺盛な食欲で真田はスープカレーをあっという間に平らげてしまった。ライスなしで頼んだ萌香とほぼ同じタイミングだった。

「ご馳走様でした」

声が重なる。

「すげーうまかったです、また来たいな、ここ」

私も一緒に来たいなと一瞬思い、そんな自分に驚く。

「食後に美味しいコーヒー飲みたくないですか?」

咄嗟に自分の口をついて出た言葉にまた驚く。

「いいですね、コーヒー。お薦めのお店教えてほしいな」


スープカレーの店を出て、来た道をそのまま大通公園に向かって戻っていくと去年岡村と行ったカフェに行き当たる。しかしその店の手前のビルに隠れ家的なカフェを見つけていたので今回はそちらに行くことにする。

その店はコーヒーが美味しいのはもちろんだが、カップとソーサーにも凝っており行くたびに毎回器が違うのだ。

ジャズの流れる落ち着いた店内でコーヒーを飲みながら真田が現在どんな仕事をしているのか、どこに住んでいるのかなどいろんな話を聞く。

「ごめんなさい、なんか俺ばっかり話してますね。萌香さん聞き上手なんでついつい話しちゃって」

名前で呼ばれて耳たぶが赤くなる。

「あの、去年の写真、いつ差し上げましょうか」

「真田さんは土日がお休みなんですよね」

手帳に書き込んだシフトを確認する。

「当分土日のお休みがないので、今度の金曜日の夜でよかったら大丈夫ですけど」

「じゃ、それで。詳しい時間は近くなったら連絡ください」

萌香は頷く。


カフェを出るともう夕方だった。

大通公園に戻ったところで別れ、萌香は徒歩で帰宅した。

部屋の鍵を開け、カーテンを閉めて灯りを点ける。ソファに腰を下ろしほっと息をつく。まだ耳には真田の柔らかい声が残っている。

早く来週の金曜日にならないかな。真田に会うことが楽しみになっていることに萌香は気付いた。


*****


約束の金曜日。前回会った際に携帯の連絡先は交換しておいた。今回の待ち合わせ場所は地下のヒロシ前だ。

萌香は早番で仕事を終えヒロシ前に向かう。

ヒロシ前は定番の待ち合わせ場所なので、金曜日の夜には人待ち顔の男女が多数いる。周辺を確認するが真田はまだ来ていない。

待ち合わせには少し早かったのでそのまま待つことにする。

5分ほど経ってから真田が現れた。萌香を探しているのかきょろきょろと辺りを見まわしている。

真田のいるほうへ歩き軽く手を挙げるとそれに気づいた真田が笑顔で近づいてくる。なんて心休まる笑顔なんだろう。

「ごめんね、待たせちゃったかな」

「大丈夫です、私も来たばかりだから」

「写真持ってきたんだけど、どうせだから一緒に夕食いかがですか?」

密かに期待した展開に萌香は嬉しくなる。

「いいですね」

「俺、行ってみたい店があるんですけど、萌香さん何か食べられないものとかありますか?」

「いえ、多分大体大丈夫です」

「良かった。じゃ、行きましょうか。あ、そうだ、なんでここヒロシ前っていうんですか?」

すぐ近くにある4面マルチビジョンを指さして萌香は言う。

「あれがヒロシっていうので、ここがヒロシ前なんです」

「なるほど、いたって単純な理由だったんですね」

真田が声を上げて笑う。

そのままさっぽろ地下街に入っていき、とある商業ビルから地上に出て東に向かう。真田がスマートフォンのマップを見ながら歩いていくので萌香はそのまま付いていく。

しばらく歩いて小さなビルの前で真田は立ち止まった。

「えっと、このビルの2階ですね」

ドアを開いてくれたので好意に甘え先に入り階段を上る。

「そのまま突き当りです」

真田の声に従い通路の突き当りまで行くと一つの飲食店がある。ドアを開けて入ってみると意外と広い。

テーブル席とカウンター席があったが、二人はテーブル席に通された。ピークタイムにはまだ早いのか、店内は割合空いている。

「ここ、リゾット専門店なんですよ。女の人ってこういうの好きかと思って」

テーブルに置かれたメニューを開くと何十種類というリゾットのメニューがあり、とてもじゃないが選びきれない。

結局真田と萌香はその日のお勧めメニューを頼む。

注文を取った店員が立ち去ると真田は鞄をごそごそと探り出す。

「これ、お約束の去年の写真です」

池の上の岩に腰かけた自分が少女のようにはにかみながら笑顔をこちらに向けている。

知らなかった。自分がこんな顔で笑えるなんて。

自分を守る為に感情を殺すことを中学生の頃に覚えて以来、いつも感情をコントロールしてきた。それなのに、なんて無防備で素直な笑顔なんだろう。

丁寧にラミネート加工を施してある写真にぽつりと雫が落ちて、萌香は自分が涙をこぼしていることに気付く。

急に涙を流した萌香に真田が慌てふためく。

「え、ど、どうしたんですか。写真、嫌でしたか」

今の感情を言葉にすることが出来ず、萌香はただ首を左右に振る。

慌てながら真田が差し出してくれたティッシュを有難く受け取り慎重に涙を拭う。そして水を飲み気持ちを落ち着ける。

「ごめんなさい、困らせてしまいましたよね」

「いや、俺はいいんですけど。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。自分がこんな顔で笑えるって知って嬉しくなっちゃって」

真田が安堵したように笑う。

タイミングを見計らったかのように注文したメニューが届いたので早速スプーンを手に取る。

リゾットは予想以上に熱く、二人とも口に入れた瞬間に顔を見合わせ目を白黒させた。

なんとか飲み込み水を口に含む。

「うまい、けど熱い」

真田が苦笑いを見せる。萌香も笑いながら頷いた。

しばらく黙々とリゾットを食べ続け、ある程度お腹が満たされたところでぽつりぽつりと会話が始まる。

その会話からお互い映画が好きなことを知った。

食後には二人ともコーヒーを注文した。

「実はこの間待ち合わせしていたとき、萌香さんがあんまりいい表情しているからつい撮っちゃったんです」

そう言って真田はもう一枚写真を取り出す。それは萌香がベンチに腰掛けて伸びをしている姿を捉えた瞬間だった。

開放的な表情の自分を見て思う。自分は思っているほど感情を殺していないのかもしれない。まだ、感情が生きているのかもしれない。

「すみません、盗み撮りみたいな感じになっちゃって」

上目遣いで萌香を見る真田の表情がおかしくて萌香は吹き出す。

「いいんです、真田さんなら」

真田が照れたように笑う。


店が混んできたのでコーヒーを飲み終わったタイミングで店を出る。

二人はそのまま大通公園まで歩き地下鉄の改札で別れた。

特にまた会う約束はしなかった。


*****


先日真田にもらった写真を萌香は部屋には飾らなかった。チェストの引き出しにアクセサリー類などと一緒にしまってある。

生き生きと感情をあらわにしている自分を見るのは気恥ずかしく、少し怖い。

また会いたい。そう思う気持ちも言葉には出来なかった。

真田は汚れきった私が触れていい相手ではない。そんな気後れが純粋な気持ちに歯止めをかける(くびき)となっていた。

写真を貰って別れた後、真田のサイトをチェックしてみたが萌香の写真は掲載されていなかった。それもまた、萌香から真田にコンタクトを取りにくくさせた。

先日真田と会ってからすでに一か月近く経っている。

「嫌われちゃったかな」

ぽつりと呟くと胸がぎゅっと苦しくなる。

「萌、なした?」

会社の休憩室、ランチに入った岡村が目敏く萌香を見つけて向かいに座る。

「ううん、なんでもない。大丈夫」

「そか」

それ以上は追求せず岡村は弁当をつつき始める。

「そうだ、来週休み合ったら観たい映画あるんだけど」

萌香が言うと岡村が箸を止め手帳を取り出す。萌香も手帳を取り出し見せ合うが合う休みはなかった。

「残念。来週いっぱいで終わりなんだ」

「なんて映画?」

「ローマの休日。午前10時から上映で千円で観られるの」

「相変わらず趣味が渋いというかなんというか」

「いいじゃん、名作だよ、何回観ても泣けるんだから」

萌香の手帳を再度見た岡村が言う。

「あんた、土曜日休みじゃん。真田さん誘えば?」

不意打ちに顔が赤くなる。

「ん?もしかしてまた恋する乙女になっちゃったのかな?」

「からかわないでよ。そんなんじゃないし」

チェシャ猫のようににやにや笑う岡村の顔を睨めつける。

「素直になんなさいよ、萌。真田さん、いい人なんでしょ?」

岡村は素に近い自分を見せられる数少ない人間なので、うまく取り繕うことが出来ない。

「うん。すごくいい人」

「じゃ、誘えばいいじゃん」

「うー、うん。考えとく」

既に弁当を遣い終えていた萌香は先に席を立つ。

岡村がひらひらと手を振るのでそれに応えてロッカールームへ向かった。


仕事を終え帰宅すると22時近かった。

メールであればまだ許容範囲内の時間だろう、そう判断しメールの文面を考える。

あくまでもさりげなく、ただ単にタイミングの合う友人がいなかったから誘っただけ。そんな体裁を整えようと文面を考えるが一向に思い浮かばない。

「あー、無理」

スマートフォンをソファに投げ出して頭を掻く。

その直後、スマートフォンのバイブ音が鳴る。

真田からのメールだった。

用件はシンプルで今度の土曜日は休みか、もし休みであれば時間を空けてほしいというものだった。

心臓が跳ね上がる音が聞こえるようだった。

問題ない旨すぐに返信すると真田からの返信も早かった。

待ち合わせは朝9時半、札幌駅。赤い足のようなオブジェのある場所。

どのような用事か尋ねるが「当日のお楽しみ」とだけしか答えてくれなかった。


土曜日の朝、9時半、待ち合わせの場所に既に真田はいた。

萌香を見つけて笑顔で手を挙げる。今日はカメラは持っていないようだ。

「おはようございます」

「おはようございます、来てくれてありがとう」

「今日はどうしたんですか?」

「萌香さん、映画好きですよね?」

そうだ。先日リゾットを食べた際にそんな話をしたように思う。

「ローマの休日、今日までなんですよ。もう観ました?」

私が一番好きな映画、ちょっと話しただけだったのに覚えていてくれたのか。

「今回はまだです」

ぱっと真田の顔が明るくなる。

「一緒に観ませんか?」

そんな真田の表情を見ると自分の感情をごまかせなくなる。

「ぜひ」


「真実の口」のシーンは何回見てもオードリーの魅力に釘づけにされる。

ストーリーが進むにつれて無邪気な少女が恋を知り、大人の女へと変わっていく。

そしてジョーと別れ、威厳のある王女として会見に臨み見せる表情。


バッグからティッシュを取り出すと萌香はそっと涙を拭う。

そのティッシュをバッグにしまった後、何気なく肘掛に手を載せると真田がそこに手を重ねようとした。

思わず手を引いて真田を見る。

真田は驚いたような気まずいような表情で萌香を見ている。

そんな真田から視線を外しエンドロールに目を向ける。手はバッグの上に重ねたままにしておく。


映画が終わると下のフロアの飲食店街でランチを一緒に食べる。

最後の気まずい瞬間はお互いなかったかのように振る舞った。

そうしているうちに固い雰囲気は徐々にほぐれ、話が少しずつ弾み始める。

映画の感想、お互いの近況。今食べているメニューの感想。

ランチを終えるとそのまま札幌駅に付属している複合施設一階のコーヒーショップに移動して話し続ける。

気付けばもう18時近かった。

「どうしましょうか。この後」

「ごめんなさい、明日は仕事なのでもう帰ります」

真田が名残惜しそうな表情を見せるのが少し嬉しい。

「また連絡しますね」

真田の声に頷いて地下鉄へ移動する。真田は南北線、萌香は東西線なので改札を通ってホームで別れた。


*****


映画を一緒に観て以来、萌香と真田は一週間に一度くらいの頻度で会うようになっていた。

いつも外食ではお金がかかるので、たまには手料理でもと萌香が思い切って提案したのはそんな関係が始まってから2ヶ月ほど経ってからだった。

手料理に餓えていた、と真田は喜んでくれた。

手料理を振る舞う約束をした日の前日、楽しみながらメニューを考える。真田のリクエストは「いかにも家庭の味」というアバウトなものだった。

「ここはやっぱり定番としたものでしょう」

一人呟きながらメニューを決めていく。

肉じゃが、焼き鮭、白菜の浅漬け、切り干し大根とヒジキの煮付け、葱と若布のお味噌汁、白いご飯。

食後には白玉ぜんざいとお番茶。


金曜日の夜、駅からの道順を丹念に説明したせいか真田は迷わずに萌香の部屋に来た。

チャイムが鳴ったのでエプロンをしたまま出る。

「こんばんは」

「いらっしゃい、上がって」

靴を脱いで揃えると真田は嬉しそうに笑っている。

「どうしたの?」

「なんでもない」

「やだ、気になる」

なんだろう、カップルみたいな会話だな、と思い萌香も笑う。

「ソファに座って待ってて。おつゆよそうから」

「おつゆ?」

「うん、おつゆ。え?なんかおかしい?」

「あ、味噌汁か」

お椀にお味噌汁をよそう萌香を見て真田は納得したようだった。

「もしかして、お味噌汁のことおつゆっていうの北海道弁?」

「うん、多分」

そうだったのか。札幌で生まれ育った萌香は自分はあまり訛りがあるとは認識していなかったので、馴染んだ言葉が方言だと知らない場合が多々ある。

お味噌汁のお椀をビーンズテーブルに置くと真田の横に萌香も座る。

「いただきます」

声が重なるのはお約束になっている。

真田はまずお味噌汁のお椀を取ると一口すすって唸る。

「くぅ、味噌汁は日本人のソウルフードだね」

真田の反応を見守っていた萌香はいつもの自分の台詞を言われてしまい軽く吹き出す。

「え、どうしたの?」

「なんでもない」

「うわ、気になる」

萌香は笑って誤魔化す。


食事は和やかに進み、一通り食べ終わったので食後のデザートにと冷蔵庫で冷やしておいた白玉ぜんざいを出す。

「待ってね、お番茶淹れるから」

そう言って急須に茶葉を入れ、湯が沸くのを待っていた時だった。

真田はのんびりとテレビでニュースを見ている。

「児童ポルノだって。こんなの好きなヤツの気が知れねーわ」

真田の声に振り返り萌香もニュースを見る。

ニュースは児童ポルノを販売していた違法な業者が摘発されたというものだった。

急に吐き気が込み上げ、眩暈がした。シンクの縁に両手で掴まる。

はだけられた布団、意思のない人形、私。

萌香の様子に気づいた真田が慌てて立ち、萌香を支えようとする。

「どうした?顔真っ青だよ」

「触っちゃ駄目!」

悲鳴のような萌香の声に真田が立ち竦む。

萌香はずるずると崩れ落ちそのまま両腕で自分の体を固く抱き締める。震えが止まらない。お湯が沸騰している止めなきゃ。

真田は沸騰している薬缶に気づきコンロの火を止め、そのまま萌香を抱き締めようと屈む。

「触っちゃ駄目なの。私は汚いから。触っちゃ駄目なの」

憑かれたように同じ言葉を繰り返す。

「萌香が汚いってどういうことだよ」

真田ははたと気が付く。

児童ポルノの違法業者が摘発されたニュースを見て萌香の様子がおかしくなったことに。

真田が気付いたことに萌香も気付く。

何処かが壊れたような笑顔で萌香は言った。

「お願い、私は大丈夫だから今日はもう帰って」

そんな萌香の表情に傷ついた顔をしながら、それでも真田はなんとか萌香に触れようとする。

お願いだから、汚れきった私に触らないで。真田さんを汚したくない。

「萌香は汚くなんてない。大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言うなよ」

「私はね、知らない男に自分の体を好きにさせるような女なの。汚れきった女なの」

真田は打ちのめされた表情を見せる。

「私ね、中学生の頃兄に性的虐待を受けてた。それだけじゃない。去年好きになった人に振られてヤケになって出会い系サイトで会った全然知らない男に抱かれたの」

私は真田に触れる資格がない。

壊れた笑顔で真田に言う。頬が濡れているのは何故。

「お願い、帰って」

もう真田は萌香に触れることを諦めたようだった。俯いたまま動かない。

いっそ優しい声でもう一度言う。

「帰って」

のろのろと真田は立ち上がると何か言いたそうに萌香を見る。

萌香は黙って首を左右に振る。

諦めたように真田は玄関に向かい靴を履く。

玄関のドアを開けて振り返るが壊れたような萌香の笑顔に開きかけた口を閉じ、部屋を出てドアを閉めた。

ドアを閉めるとすぐに萌香は鍵をかける。しばらく経ってから真田の靴音が聞こえた。靴音が完全に聞こえなくなるまで、萌香は玄関に立っていた。


黙っていればよかったのに。

冷静な自分の声が聞こえる。

「駄目だよ、真田さんは汚したくない」

一人呟く。

ビーンズテーブルに出してあった白玉ぜんざいにはラップをかけ再度冷蔵庫へしまう。

食器を洗って番茶を淹れる。ソファにはまだ真田の体温が残っていた。

ニュースを流したまま、惚けたように番茶を啜る。

ふとソファを立つとシンクの下を開けた。包丁が目に入る。

刃を手首に当て、引くさまを想像する。

手首から溢れ、刃に滴る朱珠。

そんなんじゃ何も終わらせられないよ。

冷静な自分の声が聞こえる。

いつもそうだ。生の自分と、それを俯瞰している冷静な自分。

のろのろとシンク下の扉を閉じる。

「明日遅番だ。シャワー使っちゃわないと」


熱いシャワーを浴び浴室を出るとなんとかいつも通りのペースが戻ってくる。

髪を乾かすとすぐに萌香はベッドに入った。

翌週、岡村の知人の不動産屋に物件を紹介してもらい萌香は引っ越した。

今の部屋にいれば真田はきっと訪ねてくるだろう。しかし萌香にはもう真田に会う勇気がなかった。


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