17
家を出ようとした時、萌香は母から声を掛けられた。夕食の買い出しに行かねばならないが腰を痛めたために出掛けることが出来ないという。
「萌香、ちょっと悪いんだけどお母さんの代わりにお買い物行ってくれないかしら」
なんてタイミングが悪いのだろう。内心舌打ちしたくなるが、日頃萌香に頼み事をすることなど滅多にない母の頼みだし、腰を痛めているのではどうしようもないだろう。
「わかった。すぐ行くね」
「ありがとう。これ、買ってきてほしいもの書き出しておいたから」
黙ってメモを受け取り頷く。近所のスーパーまでは歩いて10分程度、急いで買い物を済ませて自宅へ戻る。
「ただいま」
「おかえり」
リビングから母の声がする。玄関に出迎えに出るのも辛いほど腰が痛むのだろう。そんな状態で夕食を作らせるわけにはいかない。
「お母さん、辛いんだったら横になってて。ご飯、私が作るから」
「あら、でも萌香出掛けるんでしょ。悪いわ」
「でもお母さん、台所に立つの無理でしょ」
「そうねぇ。じゃ、悪いけどお願いするわ」
母が作る予定だったメニューはホッケの開きを焼いたもの、ほうれん草の胡麻和え、冷やしトマト、レンコンのきんぴら、玉ねぎと油揚げのお味噌汁に雑穀ごはんだった。
お米を研ぎ雑穀ごはんの素を入れてからそのほかのメニューに取り掛かる。気がせいてレンコンの皮をむく時に手が滑ってうっすらと指を切ってしまった。
「痛い」
呟いて指を口に含む。鉄の味がする。改めて手を洗い絆創膏を貼り料理の続きを済ませて出掛ける頃には15時を過ぎていた。
地下鉄の駅のホームで列車が来るのを待つ間、苦しい胸を押さえる。何故私はこんなにも真田を待たせたのだろう。これだけ待たせておいて、まだ待っていてほしいなんて都合が良すぎる。
地下鉄風に髪が散る。咄嗟に髪を押さえて地下鉄に乗り込む。進行方向から考えると後部車両に乗り込んだほうがテレビ塔に近い。そう考えて乗り込んでから後部車両に移動する。
大通駅に着き、人ごみに揉まれながら地上に吐き出される。約束の場所に着いた時にはもう16時になろうとしていた。
「もう、いないよね」
確かめるのが怖い。4月も下旬になれば日が長いので辺りはまだ明るい。
テレビ塔前のベンチを遠目に見るが人が座っている様子はない。歩みを緩めて目当てのベンチの前に到着するが、そこには誰もいなかった。
憶病なあまり大事なものを失ってしまった。大きな後悔が胸に空洞を穿つ。力なくベンチに座り空を見上げた。
暮れなずむ空は淡い青色に紫の紗がかかったような不思議な色合いをしていた。その空をぼんやりと見るともなく見る。
ふいに背後から声がかかる。
「違ったらすみません、中嶋萌香さんですか?」
低く柔らかい耳に馴染んだ懐かしい声。真田だった。
振り返り答える。
「...ただいま」
真田が染み入るような笑顔で言う。
「おかえり」
真田は萌香の隣に座ると手を握る。温かく大きな手。何度この手に包まれたことだろう。
「手、冷たいね」
そういうと真田は萌香の手を自分の口元に持っていきはぁっと息を吐きかける。
「あれ、どうしたの?」
真田の視線は萌香の手に貼られた絆創膏に注目している。
「あ、サビオ?さっきちょっと怪我しちゃって」
真田がくすくすと笑う。
「あ、そっか。サビオって北海道だけだよね」
方言でこんなやり取りをするのはなぜか不思議と楽しい。
「萌香、ずっと待ってた」
「ごめんね。待たせすぎて」
「今日会えなかったら、きっともう萌香は俺のこと必要じゃないんだろうって思ってさ。でも諦めきれなくて待っちゃった」
「...ありがとう」
「萌香は泣き虫だな」
いつの間にか萌香は自分が涙を流していることに気付く。そして笑って言う。
「明日香さんの前だけだよ」
真田は左手で萌香の頭をぽんぽんと叩くように撫でるとそのまま左腕を萌香の肩に回す。甘えるように萌香は真田の肩に頭をのせると、萌香の頭に真田が頭をもたせ掛ける。そして右手同士を繋ぐ。
互いの体温に憩い合うこの時間を今までどれだけ求めたことだろう。
「萌香」
「何?」
「さすがにもう寒いから移動しない?」
正直な告白に萌香は吹き出す。
「そうだね」
「あの店行こうよ。萌香と去年の今日会った日行ったスープカレーのお店」
「うん」
出会った日の思い出をなぞるのはとても心地よかった。ただ、去年の今日とは違い今年は手を繋ぎ指を絡めながら歩いている。それがまた温かく、心地よい。
店は少し混んでいて若干待ち時間があったがそんなことは気にならない。
席に通されると去年と同じメニューを頼む。
「いただきます」
手を合わせてから真田がライスをスプーンで掬いスープに浸して口に運ぶ様子を見守り、真田がサムアップして見せると萌香は頷き自分のカレーを食べ始めた。
旺盛な食欲でチキンレッグを解体していく様を見るとそれだけで自分までお腹がいっぱいになった気になってしまうが、なんとか真田と同じタイミングで食べ終わる。
「食後に美味しいコーヒー飲みたくないですか?」
萌香の声に真田が笑う。
「いいですね、コーヒー。お薦めのお店教えてほしいな」
スープカレーの店を出て、手を繋ぎながら来た道をそのまま大通公園に向かって戻っていく。
懐かしいその店はカフェにしては珍しいほど遅い時間まで営業しており、萌香達が訪れた時には照明がやや暗くなってバーのような雰囲気になっていた。
二人ともブレンドコーヒーを頼む。
「萌香。岡村さんから話は聞いたよ」
「うん」
「ごめん、俺がちゃんと説明してやればよかった」
萌香は首を左右に振る。
「ううん、私がもっと明日香さんを信じていれば」
互いをかばい合う言葉にふっと笑みが漏れる。タイミングを計ったようにコーヒーがサーブされた。
薫り高いコーヒーを口に含みしばらく二人は無言になる。店内は静かにジャズが流れている。
沈黙を破ったのは真田だった。
「萌香、今夜うちに来ないか」
心臓が跳ね上がる音が聞こえるようだった。
「すごくプライベートな話をしたいんだ。だから」
萌香は黙って頷く。
カフェを出て地下鉄に乗る。その間二人は無言のまま、しかし手を強く握っていた。
地下鉄南北線、さっぽろ方面に乗り数駅。地下鉄を降りてから真田のマンションまでまた無言のまま歩く。ほんの数分だが緊張のせいかひどく長く感じられた。
初めて上がる真田の部屋はアースカラーで落ち着いた色調で調えられており、温かみが感じられる雰囲気だった。
ソファに座るよう促される為素直に座る。
また真田は左腕を萌香の肩に回す。甘えるように萌香は真田の肩に頭をのせると、萌香の頭に真田が頭をもたせ掛ける。そして右手同士を繋ぐ。
「萌香。岡村さんから色々聞いたんだ」
「うん」
「拒絶された気がしたって。幸せでいられるってことが怖かったって」
あの時の気持ちを思い出し萌香の胸はぎゅっと苦しくなる。
「違うんだ。うまく説明できないかもしれないけど聞いてくれるか」
萌香は黙って頷く。
「あの日、会社の前で鉢合わせした男がいただろ」
坂下だ。後悔がまた胸を締め付ける。
「あの男に抱き締められたって聞いた時、俺は頭がおかしくなるかと思った。でも萌香が後悔していることも自分を責めていることもわかっていたから」
「...ほんとにごめんね」
涙が頬を灼く。でも拭えば泣いているのが真田にわかってしまう。
「謝るなって。謝られたらあいつに負けた気がするって言っただろ」
笑い含みに真田が言う。
「ありがとう」
つられて萌香もくすりと笑いながら言う。
「それでいい。それでいいんだ」
繋いだ右手を離し真田が萌香の頬を拭って染み入るような笑顔を見せる。
「萌香。あの日、何故俺が萌香を抱かなかったのか、それが引っかかってたんだよな」
真田がストレートに切り込んできた。
胸に棘がささったように痛んで萌香は何も言えない。
「あの時の萌香、あの男とのことで感じた罪悪感を消すために俺に抱かれようとしているように見えたんだ」
意外な言葉にやはり萌香は何も言えない。しかしあの時の激情を思い出してみると確かにそれは否定出来ないような気がする。
「俺たちの初めてを、そんなことをきっかけにしたくなかったんだ」
そういうと真田は萌香と向い合うように座り直しそっと優しいキスをする。何度も何度も萌香の頬を拭いながら。
また真田がストレートに切り込んでくる。
「萌香、もう俺我慢出来ない」
そういうとそっと優しかったキスが激しさを増してきた。
が、しかし。突然キスを止める。
萌香は目顔で訊く。
「ごめん、用意してないから買ってくる。シャワー浴びて待ってて」
真田はタオルと自分のパジャマを萌香に押し付けると慌ただしく飛び出していった。
思わず萌香は笑う。
シャワーを浴びぶかぶかのパジャマを着て髪を拭いていると真田が帰ってきた。
「すぐシャワー使うから待ってて」
萌香は頷く。ソファで丸くなっていると夜も遅かった為眠気が襲ってくる。気がつくといつの間にか萌香は睡魔に負けて沈没していた。
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