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インセイン  作者: 夏目泪
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拒絶された。その事が萌香を苛む。ずっと手を握っていると自分の境界がなくなって真田と繋がっている感覚になって、それだけで十分幸せだったはずなのに。

何故抱いてくれなかったのか。そんなことを直接訊くことは出来なかった。

私は一度真田を裏切った。不本意な出来事とは言え、坂下に抱き締められたのは事実だ。

そんな屈託を抱えたまま真田の顔を見るのは辛い。

無意識のうちに萌香は徐々に真田との接触を避けるようになる。

それまでは必ず週に一度は会い、頻繁にメールや電話で連絡を取っていたが、萌香から積極的に連絡を取ることは無くなっていった。

そんな萌香の態度に真田も無理に接触を図ろうとはしなくなり、会う頻度は少しずつ、しかし確実に減っていく。

たまに会った時の真田の寂しげな笑顔もまた、萌香には自分を責めているように感じられた。


「私なんか」

一人、思わず呟く。

卑屈になるなと真田は言う。しかしそれは誰に恥じることのない人間だから言える言葉だ。

鏡を見て自分に笑って見せる。顔色が悪い。

「私なんか」

再度呟く。

もう、無理だ。真田を想う気持ちが萌香を責め苛む。これ以上あの人には会えない。合わす顔がない。


一週間後、萌香は部屋を引き払い実家へ帰った。兄は転勤で北海道を離れていた。

実家に戻った翌週、萌香は4年勤めたコールセンターを辞めた。

そして久しぶりに真田にメールをする。

「ごめんなさい、さようなら」

真田からは電話やメールが何回もきたがすべて応えなかった。そしてスマートフォンの電源を落とした。

明らかに窶れた様子の萌香に両親は何も言わなかった。

基本的に善良な人達なのだ。家族だから愛してもいる。だから心配をかけていることを申し訳なく思いつつ、干渉しないことに感謝する。


何をするのも億劫になり、母親に促されなければ食事を摂ることがなくなった。

夜もなかなか寝付くことが出来ず眠れぬままベッドでただぼんやりと過ごすことが多くなる。

「早く次の仕事探さなきゃ」

ベッドの中で呟くが、やりたいことなど何もなかった。今はただ、何もせずぼんやりしていたかった。

相変わらずスマートフォンの電源は落としたまま、そろそろそんな生活が一ヶ月を経過しようとしていた。

「萌香、ちょっとお散歩いかない?」

母親がある日、昼食後に言った。萌香は首を左右に振る。

「あんた、籠りっきりじゃないの。たまにはお母さんに付き合ってよ」

こんな母は珍しかった。軽く戸惑いながら頷く。

散歩と言いつつ車に萌香を乗せ母がハンドルを握る。

「お父さんじゃ、一緒にお買い物しても楽しくないのよ」

母が向かった先はとあるアウトレットモールだった。

「ここ、来てみたかったの」

母が子どものようにはしゃぐ。

あちこちの店で萌香に服をあててコーディネートを楽しみ、お茶の専門店で試飲をしつつたくさんの茶葉やお菓子を買い、歌いながら店員がアイスを混ぜるという店でアイスを食べて、結局買い込んだものは萌香のものばかりだった。

帰りの車中、はしゃいだままの母親が言う。

「やっぱりあんたとお買い物するの、楽しいわ。女の子を産んで良かった。なにがあったか知らないけどね、帰ってきてくれて良かったわ。何かしたくなるまでのんびりしたらいいのよ」

何かがするりとほどけていくような気がした。

「...ありがとう」

「やぁね、あんたがそんなこと言うなんて、明日は雨かしら」


家に着き荷物を降ろすと、早速買ってきた服を着るよう言われる。着替えて照れながら母に見せる。

「やっぱり私の趣味っていいわね」

母が言うので萌香は思わず吹き出す。そして母と二人でファッションショーを楽しむ。

「あんたやっぱり、笑っていたほうが可愛いわよ」

母が言う。

「ありがとう」

はにかみながら笑う。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。


ファッションショーを終えて萌香は部屋着に着替えると久しぶりに母の台所仕事を手伝った。

今日のメニューは豆腐ハンバーグ、きんぴらごぼう、茄子の揚げ浸し、冷やしトマト、豆腐と油揚げの味噌汁に雑穀ご飯だった。

「そういえばうちって必ず夕食にトマト食べるよね。なんで?」

萌香が母に訊く。

「美味しいからいいじゃない。好きなのよ」

深い理由はないらしい。思わず父と顔を見合わせて笑う。

ずっと無言の食卓が続いていたが、その夜は久方ぶりの和やかな食卓となった。

「美味しい」

母の作ったきんぴらごぼうに箸をつけ萌香が言う。

食事を摂ることが機械的な作業になっていた萌香には食事が美味しいと思えたことも久しぶりだった。

その日は萌香が食器を下げ、洗い物をした。

食後、アウトレットモールで買ってきたお茶を淹れ、茶菓子を楽しむ。

温かな時間は確実に萌香の心を癒やしてくれた。

その夜、萌香はベッドへ入り小さく伸びをすると穏やかに深い眠りに入っていった。


*****


久しぶりにスマートフォンの電源を入れる。真田や岡村から何度もメールが着ている。

「心配、してくれるんだ」

こんな身勝手な私を気遣ってくれる人がいるということ。そのことにやっと思い至る。

まずは岡村に電話をしてみる。コールするとすぐに繋がる。

「萌!」

岡村の声はすでに泣きそうになっている。それにつられて萌香も泣きそうになる。

「妙、ごめんね」

「声聞けて安心した。大丈夫なの?ちゃんとご飯食べてる?」

「大丈夫。実家にいるから。ご飯もちゃんと食べてるよ」

「そか。ならよかった。リーダーがさ、中嶋さん早く戻ってきてくれってうるさいんだよ」

笑いながら岡村が言う。必要とされているということが嬉しい。

ベテランの萌香はすでに新人研修を担当したり、対応品質の管理などを任せられるようになっていたのだ。

「紹介キャンペーンあるから、あんたを紹介で入れれば私にお金入るし」

岡村が笑い含みに言うので萌香も吹き出す。

「来月から復帰しようかな」

萌香が言う。

「うん、そうしなよ。SVに話通しとくね」

「ありがと。よろしく」

「萌。真田さん、心配してるよ。連絡してあげなよ」

「...うん」

躊躇いが返事を鈍らせる。

「何があったのか知らないけどさ。真田さん、ずっとあんたのこと待ってるよ」

「...怖いの」

今まで誰にも言えなかった。

「私なんかが真田さんと一緒にいられるってことが、幸せでいられるってことが、怖かった。あのね、坂下君が会社前で待っていたことがあったじゃない?」

「あー、真田さんと鉢合わせしちゃったときね」

「うん。あのあとね、夕ご飯食べて私の部屋に戻ってからいい雰囲気になったんだけど...」

「あー、うん。なんというか」

「そう、真田さんがね、応えてくれなかったの。それで拒絶された気がして」

「そっか...」

「やっぱり私じゃ真田さんにふさわしくないって。そう思ったら連絡するのが怖くなって。たまに会っても真田さん、なんだか元気ないし。だからね、もう一緒にいるの辛くて」

「...あんた、真田さんのこと好き過ぎたんだろうね」

「そうだね」

「でもさ、一方的にメールで別れ告げられてそれで納得しろっていうのも無理な話じゃない。今すぐじゃなくてもいいから、落ち着いたら連絡してあげな」

「うん、わかった」

「とにかく元気そうでよかった。今度またあのチーズケーキの美味しいカフェ行こうね。シフト決まったら連絡する」

「うん。待ってるね」

「じゃ」


結局、その日真田には連絡することが出来なかった。その勇気が出なかった。

そして翌月萌香は職場に復帰した。

「待ってたよー、中嶋さん!君いないと研修回らないんだって」

出勤するなりSVの中川という男性が声を掛けてきた。

「ご迷惑をおかけしました」

深く頭を下げる。

「これ、今月のシフト表ね。ロッカーはそのままになってるから。はい、これ鍵」

「ありがとうございます」

「一応二ヶ月近くブランクあるから念のため今日は一日コールのモニタリングして勘取り戻して」

「はい」

SVの指示に従い岡村の横について対応を聴くことにする。

普段の口の悪さが信じられないほど、岡村の電話対応は素晴らしい。一件対応を終え待ち時間が発生すると思わず萌香は小さく吹き出す。

「いやー、知ってはいたけど普段とギャップあり過ぎ」

「友達に対応聞かれるって、これって酷い羞恥プレイだよね」

そう言って小声で笑い合う。


仕事後、岡村に誘われて夕食を食べに行くことにした。行ったのは価格帯が手ごろなイタリアンのチェーン店だ。

実家には食事をして帰ると連絡をする。電話に出た母親はどこか満足げな声音で了解した旨答えた。

メニューは萌香がカルボナーラ、岡村がアマトリチャーナを頼み、半々に分ける。

「やっぱりサラダは必要だよね」

という岡村の意見でシーザーサラダも頼んだ。

最近の岡村の仕事での愚痴や互いの近況、食後のデザートを何にするかなどを話して盛り上がる。

楽しい食事を終えると帰る方向が違う為その場で解散した。

「そうだ、何かお土産買って帰ろうかな」

ふと思いつきコンビニに寄るとコンビニスイーツを物色する。結局クリームがたっぷりのロールケーキを3つ買い自宅へと帰った。


「ただいま」

「おかえり」

玄関を開けると母が笑顔で迎えてくれる。当たり前の光景かもしれないが、それが幸せに思える自分が嬉しい。

「これ、一緒に食べよ」

コンビニの袋を見せると母が笑って頷く。

「お茶入れようか、何がいい?」

「んー、そうだな。シロニバリを濃いめに入れてミルクティーにしようよ」

先日アウトレットで買ってきた茶葉で萌香のお気に入りの紅茶だ。

「いいね。さ、着替えておいで」

母に促され自室へ行くと急いで着替える。手を洗ってリビングに行くとすでにミルクティーを淹れた母が父と二人で萌香を待っていた。

「いただきます」

三人で声を揃える。

友人と、家族と過ごす時間は確実に萌香の傷んだ心を癒してくれていた。


「そういえば萌香、あんたこのまましばらくうちにいるの?それともまた一人暮らしするの?」

母が訊く。

「あー、特にまだ決めていない」

「お父さんは一人暮らしには反対だな。当分の間はうちにいたほうがいい」

珍しく父が口を挟む。

「そうねぇ。お父さんの言う通りだわ。あんたが帰ってきたときなんか、すっかり窶れてどうしたのかと思ったのよ。ちゃんとご飯食べてなかったんでしょう」

「心配かけてごめんね」

何歳になっても親から見れば子どものままなのだろうと改めて思う。

お茶とロールケーキを楽しんだ後、食器類をすべて片づけ萌香は自室へ戻った。

明日から仕事は通常通りになる。ベッドに入り新人研修のシミュレーションをしているうちにいつの間にか萌香は眠っていた。


拙作をお読み下さりありがとうございます。

励みになりますので、ぜひ感想や評価をお寄せください。

よろしくお願いいたします。

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