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「萌香の誕生日、祝えてないんだよな」
俺はふと思い出した。誕生日当日は萌香は帰省していて一緒に過ごせなかった。改めて祝ってあげたい、そう思った。
思い付くと居ても立っても居られなくてすぐに萌香に電話をする。コールするとすぐに萌香が出た。
「萌香、今大丈夫?」
「う、うん」
微妙に返事が遅れる。
「どうした?なんか元気ないみたいだけど」
「そんなことないよ、大丈夫」
「そっか。ならいいけど。あのさ、萌香の誕生日一緒に過ごせなかっただろ。だから改めて一緒にお祝いしない?」
しばし間が空く。何か様子がおかしい。
「萌香?」
「うん、嬉しい」
「何か食べたいものとか行きたい場所とかある?」
「そうだなぁ...あのリゾットのお店」
「もうちょっと高級な場所でもいいんだよ?」
「だって、初めて明日香さんが連れて行ってくれたお店だから」
「わかったよ」
萌香と一緒に行って以来気に入って時々利用している店だし、選んでくれた理由が可愛くて嬉しくなりついにやけてしまう。
「いつがいい?」
「土曜日が早番で日曜日が遅番だから土曜日でどう?」
「うん、わかった。じゃ、会社前で待ってる」
「ありがとう...あの」
「ん?」
いつもと声の調子が違うことに気付いてちょっと俺は心配になった。
「...や、なんでもない。楽しみにしてるね」
「気になるなー」
「ごめん、今忙しいから切るね」
「そっか、じゃ土曜日に」
「うん、またね」
明らかに様子がおかしい。
萌香の様子がおかしいことが気になったので、先日連絡先を交換しておいた萌香の友人岡村に連絡をしてみる。
「岡村さん?俺、真田です」
「あー、どうも。どうかしました?」
「今ちょっと大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「萌香の誕生日、改めてお祝いしようと思って今電話で相談していたんだけど、ちょっと様子がおかしくて。何か思い当たることありませんか?」
「あー、ちょっと仕事でミスしちゃって落ち込んでるみたいですね。あの子真面目だから」
「そうだったんですね」
「あまり気にしなくていいと思いますよ。大したミスじゃなかったしすぐにリカバリできましたし」
「わかりました。あ、そうだ、萌香の誕生日の件なんですけど」
「はい」
「萌香の好きな花って知ってますか?」
「あー、そうですね。あの子、ガーベラが大好きみたいですね。あとはやっぱり薔薇じゃないかな」
「ありがとうございます。助かります」
「いえいえ。あとは何かありますか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
礼を言って電話を切る。
「仕事のミスか」
癖でつい独り言が出る。萌香の落ち込んだ様子が気になったがあまりつついても良くないだろう。
待ち合わせの土曜日当日。
萌香の部屋にサプライズを仕込み、そのまま萌香の会社へ向かう。
早番は18時上がりと聞いていたがついつい早めに着いてしまったので会社前の植え込みのところで座って待つことにした。
9月にもなれば北海道はもう初秋、夜は冷え込む。
俺が座っている場所の近くにコンパクトカーが停まっていて、車内で男がやたらと時計を見ながら萌香の会社の玄関を気にしているのが気になった。
18時を数分過ぎてから萌香が出てきた。
「萌香」
「中嶋さん」
俺が声をかけるのと同時にいつの間にかコンパクトカーから出てきた男が萌香に声をかけた。なんなんだ、この男。
思わず怪訝な表情になってしまうが、それはその男も同じだった。思わず顔を見合わせる。
萌香はどうしていいのかわからない様子で固まっている。その背後から岡村が出てくるのが見えた。
はっとした表情で岡村が言う。
「坂下、お待たせ!」
そしてコンパクトカーの男と腕を組んで歩き始める。ちょっと不自然な空気に俺の胸はざわつく。
「あれ、誰?」
萌香が俯いて答える。
「...昔の同僚」
萌香の返事に躊躇いを感じる。何かが違う。
「萌香?」
はっと顔を上げた萌香に再度問う。
「あれ、誰?」
萌香はまた俯き、しばらく黙った後やっと答える。
「...去年振られた相手」
どうしたらいいのかわからなかった。帰省時の出来事があって以来、萌香と俺はしっかり寄り添ってきたんじゃなかったのか。
俯いたまま萌香が続ける。
「この間、久しぶりに会ったの。旭山記念公園行って...旭山記念公園で抱き締められた」
ざわついていた胸がぎゅっと冷えた。
「すぐにやめさせたんだけど...そもそも会うべきじゃなかった。自分の中でけりをつけたかったの。こんな告白、聞きたくなかったよね。ごめん、私最低のエゴイストだ」
泣くのを必死にこらえている萌香の声音が切ない。
「...萌香の中でけりはついたの?」
なんとか声を絞り出す。
萌香は黙って頷く。小柄な萌香が俯いているとまるで頼りない子どものようだ。思わず頭に手を載せる。
「ならいい」
「ごめんね」
「謝るな。謝られたらあいつに負けた気がする」
「ありがとう」
「それでいい」
「ありがとう」
再度萌香が言う。
俯いたままの萌香が哀しくて思わず頤に手をあて顔を上げさせた。そしていつものようにそっとキスをする。
ずっと涙を堪えていた萌香の目から涙が溢れる。
「萌香は泣き虫だな」
「明日香さんの前だけだよ」
冷えていた胸が温まる。やっと萌香が笑ってくれた。
「じゃ、行こうか」
「うん」
指を絡ませて手を繋ぎ歩き始める。待っている間に冷えていた手に萌香の体温が温かい。
例のリゾット専門店は予約しておいたので、店に入り名前を告げるとすぐに席に通してくれた。
今回も結局お勧めのメニューを頼んだ。特別な日だからとグラスワインも頼む。
「乾杯」
グラスを合わせ微笑み合う。
まだ萌香の笑みが少し硬いのがちょっと切ない。
それでも食事を終える頃には萌香もようやくいつも通りの屈託のない笑みを見せるようになってくれた。
食事を終えるとそのまま俺たちは萌香の部屋へ向かう。
仕込んだサプライズを喜んでくれるだろうか。ちょっとドキドキする。
萌香が鍵を開け灯りを点けるとはっと息をのむ気配がした。
萌香が振り向いて俺を見るので種明かしをする。
「合鍵、くれたから」
萌香は声を出せないままぺたりとラグに座り込む。そんな萌香が可愛くてついつい俺は背後から萌香を抱き締める。
急に萌香が俺の腕の中で向きを変え俺と正面に向き直ると普段とは違って貪るように激しいキスをしてきた。
どうしたんだろう。戸惑いながらも、ついつい俺もそれに応えてしまう。知らない萌香の一面を見たようで興奮が高まる。
つと萌香が俺のシャツのボタンに手をかけた。何かが違う。
キスをやめ萌香の顔を見つめる。興奮に顔を赤らめたその表情に交じる何か。そう、罪悪感。
違う。これはいつもの萌香じゃない。
俺だって男だ、今すぐにでも萌香を押し倒したいのが正直なところだが、今の萌香を抱くのは何か違う気がした。
萌香を立たせてソファに座らせる。並んで座ると左腕を萌香の肩に回す。甘えるように俺の肩に萌香が頭をのせるので、その頭に自分の頭をもたせ掛ける。
右手同士を繋ぎ、萌香の体温を感じる。この、安らぎ。今はこのほうがいい。
萌香が視線で何故かと問いかけるが俺は黙って首を左右にふる。萌香はきっと気付いていない。あの男に抱きしめられた罪悪感を打ち消すために俺に抱かれようとしたことに。
萌香との初めてはそんなことをきっかけにしたくはない。
ふと思いついて言う。
「ローマの休日観ようよ」
萌香は頷いてDVDをセットした。
結局その夜はずっと手を繋いだまま過ごした。
萌香を押し倒したい衝動を理性で抑えつけるのに苦労したのは言うまでもない。
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