01
主人公の中嶋萌香はごく平凡なヒロインですが過去に受けた傷を癒せないまま、幸せに憶病になっている面があります。
本作は彼女が幸せになれるためにどうしたらいいのか、模索していく姿を描く作品です。
朝10時、アラームに叩き起こされ、世間一般よりは遅い朝が始まった。
身支度を整え出勤する。職場は特に職能のない人間なら気軽に足を踏み入れるであろうコールセンター。
敷居は低いが実際には向き不向きがはっきりしているので人間の出入りは激しい。半年も勤められればベテランと呼ばれるような職場だ。
「めんどくさ、今日も積滞ついてるし」
そう呟くと背後から声がかかる。
「中嶋さん、おはようございます」
振り返ると事務処理チームの坂下という2歳下の男性だった。男性としてはやや小柄で、整った中性的な雰囲気の顔だちをしている。半年ほど前から萌香のセンターで働き始めたそろそろベテランの仲間入りをしようかという青年だ。
「坂下君、おはよう。今日も忙しそうだね」
「そうですね」と折り目正しく会釈すると坂下は去って行った。
「萌、おはよう!」
同じく遅番で出勤してきた同僚にも声をかけられる。
「萌香、疲れてない?目が死んでるよ」
「朝はこれがデフォルトだって」
「そうだよねー」
「あんただって目、死んでるし」
「えーそんなことないって、めちゃくちゃ元気」
軽口をたたき合いながらバッグをロッカーに入れフォンブースに向かい業務端末を立ち上げる。
萌香の業務は顧客からの使用料金請求に関する問合せやサービスについての相談など電話対応だ。
必要に応じてサービスを付加したり解約したりなどの手続きを行うが、それらの帳票を処理するのが坂下がいる事務処理チームとなる。
半年も勤められればベテランと呼ばれるような職場でもう3年目となる萌香は、特別この仕事が好きなわけでもこの職場が好きなわけでもなく、特にやりたいこともないまま漫然と居続けているうちに辞めるタイミングを逃していた。
給料はいいとは言えないが困るほどではない。同僚も人数がやたらと多いだけに、気の合う人間とだけ付き合えばやっていける職場だから居心地も悪くはない。
そんなぬるま湯から抜け出す理由も特にないから、ただそれだけだ。
萌香の勤めているコールセンターには9時から18時までの早番、12時から21時までの遅番、9時から21時までの通し勤務の3つがある。
運良く21時ちょうどに最後の対応を終えすぐに帰り支度をする。何があるわけでもないが仕事が終われば職場からは一分一秒でも早く立ち去りたい。
ロッカールームから出たところで声がかかる。
「中嶋さん、お疲れ様です」
事務処理チームの坂下だった。萌香が出勤してきたタイミングですでに業務を開始していたのでてっきり早番だと思っていた。
「通し勤務だっただね。お疲れ様」
「残念ながら通し勤務でした」
そんな会話をしながら会社を出る。
「じゃ、お疲れ様」
方向が違うので会社を出てすぐに別れた。
雪が固まって滑る足元に気を付けながら萌香は帰宅した。
*****
街を歩いているとやる気のなさそうな若い男が、それでも明らかに相手を選びながらポケットティッシュを配っていた。ターゲットは女性のようだ。
何のティッシュかは知らないがティッシュはもらっても困らないので萌香もティッシュを受け取る。派手派手しい広告だな、それだけ認識してバッグにしまう。
仕事はシフト制なので休みも平日になりがちな為、自然と遊ぶ相手も職場の気の合う人間になる。今日は以前からチェックしていたカフェに休みが一緒になった同僚と行くことにしていた。
何故かヒロシ前と呼ばれている地下街の待ち合わせ場所には時間通りに着いた。待ち合わせに良く使われる場所なのであちこちに人待ち顔の男女がいる。
同僚を見つけて声をかける。
「おつかれー」
職場の仲間とは会社外で会う時もなんとなく挨拶はこうなる。相手も当たり前のように「おつかれー」と返す。
「じゃ、行こうか」
「萌の見つけるカフェって外れないんだよね。楽しみー」
「や、ちょっとハードルあげないでよ」
「大丈夫大丈夫、期待してるよー」
目当てのカフェはテレビ塔の近くなので地上に出て話しながら歩く。クレーマーを撃退した自慢話や、ムカつく上司の愚痴。罪のない憂さ晴らしだ。
目当てのカフェはちょっと路地に入ったところにあり、白い漆喰の塀と年季の入っていそうな木製の階段が落ち着いた雰囲気を作っていた。
階段を上り木製のドアノブが着いたステンドグラスの嵌ったドアを開く。少し薄暗い店内は外観同様落ち着いた雰囲気だ。
「お好きな席へどうぞ」
やや年配の女性店員が感じ良く微笑みながら促す。軽く会釈して店の奥へ入ってみる。
椅子に座ると先ほどの女性店員が水を注いだグラスを二つ置く。
「お決まりになったらお声がけ下さい」
また微笑んで店員は立ち去る。
グラスの水に口をつける。ほのかなレモンの風味が心地よい。
「やっぱりいいお店じゃない?」
萌香と同様に水に口をつけた同僚が目で笑う。萌香も頷いてにんまりする。
「ここ、チーズケーキが美味しいんだって。でもね、プリンも美味しいらしくて。迷うわー、両方食べたい」
「あれ、萌香ダイエット中じゃないの?」
同僚がからかうように笑含みの声を上げる。
「うー、それはそうなんだけど」
結局、萌香はチーズケーキ、同僚がプリンを頼み一口ずつ交換することで罪悪感に蓋をする。
飲み物は二人ともコーヒー。ネルドリップで丁寧に淹れられたコーヒーはコクはあるが軽やかな後味でチーズケーキに合った。
甘いものとコーヒーで話は弾む。最近使っているコスメ、旅行に行くならどこに行きたいか、また新人が研修中に辞めたこと。
「そういえば坂下君、最近事務処理チームに移ったんだってね」
「あー、ちょっと線が細くて色白な人」
「そうそう、萌、まだ話したことないんだっけ?ああいう人、好みでしょ?」
付き合いの長い同僚の目はごまかせない。確かにいかにも男らしいという男性より柔和で中性的な男性のほうが好みで坂下はビンゴだ。
「うん、もろ好み。だけどまだ接点なくてね」
「そっか」
その日は甘いものとコーヒーと雑談を十分に楽しんで解散した。
自宅までは街中から地下鉄で3駅、駅近くに遅くまで営業している大手スーパーがあるので便利だ。
駅近のそのスーパーで夕食の買出しをして帰途に着く。
安さと広さだけが取り柄の古いアパート。自分で鍵を開ける。
「ただいま」
誰も応えないことはわかっていても必ず言う。外はまだやや明るいがカーテンを閉め灯りを点ける。
青白い蛍光灯がビーンズテーブルとラブソファを照らす。アウトレットで買ったラブソファには好みの濃紺のカバーをかけてある。
ビーンズテーブルに買い物袋を、バッグをソファに置き部屋着に着替える。
基本、食事は自炊だ。毎回外食出来るほど給料は良くはない。
それなりに健康に気を遣って雑穀ご飯の素を混ぜ炊飯器をセットする。
今日のメニューは豚汁、トマトと胡瓜のサラダ、雑穀ご飯。今の時期はトマトも高くないのでよく食べる。
録り溜めていた海外ドラマを見ながらゆっくりと夕食を楽しむ。お昼にチーズケーキを食べたので、今日は食後のデザートは諦める。
食器類を洗い終えるとペーパードリップで丁寧にコーヒーを淹れ、碧が美しいジェンガラのマグに注ぐ。
ソファに腰をかけ、ドラマの続きを観る。わずかな証拠を科学的に分析し犯人を追い詰めていく警察物だ。
ふと、ソファに置いてあったバッグから覗くけばけばしい色合いに目がいく。街中でもらったポケットティッシュだ。
「そういえばこれ、なんのティッシュだろ」
一人暮しをしてからつい独り言が増えた。
バッグからティッシュを取り出してよく見てみる。
「出会い系サイトってヤツか」
大学時代に友人の友人が利用していると聞いてなんとなく知ってはいたものの、積極的に自分からそんなサイトを探して使ってみる気はしなかったのでそれっきりだった。
「女性は無料、ふーん」
ちょうどドラマが終わったので、そのまましばらくポケットティッシュを眺める。
それ以上の興味は湧かなかったのでポケットティッシュをまとめて収納しているスペースに収めた。
*****
朝が弱い萌香は遅番をメインにしてシフトを組んでもらっている。
遅番の定刻よりやや早めに部屋を出て地下鉄に乗る。会社の最寄り駅までは3駅、数分で着く。
地下街を抜けて地上へ出るとサングラスをかける。明るいのは苦手だ。
オフィスビルが立ち並ぶ一角を歩いていると「すみません」と声をかけられた。振り向くと高価そうな一眼レフを首から提げた萌香よりやや年上と思われる男だった。
見知らぬ人に道を訊かれることが多いのでまたかと思い立ち止まって小首を傾げる。
「あの、いきなりですみません、ちょっと写真を撮らせてもらえませんか?」
意表を突く言葉に小首を傾げたまま、思わず怪訝な表情になる。
「いや、その、別に変なのじゃなくて、すごく俺のイメージに合ってたから」
萌香の表情に理由にならない理由を慌てて説明する様子が可愛かった。普段ならこんな怪しげな頼みなどすぐに断っただろう。しかし男の人の良さそうな慌てぶりと、自分がモデルになるという自尊心をくすぐる誘いが萌香の気まぐれを刺激した。
「いいですよ、ちょっとだけなら」
男が顔をくしゃっと笑み崩す。
「じゃ、早速」
男は萌香を市役所へ連れて行く。どんな撮影なのか想像もつかない。
市役所前には小さな公園のようになっているところがあり小さな池とその真ん中に人が一人座れそうな岩がある。出勤時いつも市役所の横を通るのにこんな場所があるなんて知らなかった。
「ごめん、サンダル脱いでその岩に座ってもらえる?サングラスも取って」
指示に従い岩に座って男を見る。
「こっち向いて両手で髪かきあげて、そうそう、で、もっと笑って」
男がシャッターを立て続けに切る。恥ずかしい気持ちと高揚する気持ちが混ざり合う。
表情が硬い萌香を和ませるように男は雑談をしながらシャッターを切っていく。
「ありがとう、気をつけて降りて」
岩から降りる萌香に手を貸しながら男は満足げに無邪気な笑みを見せた。ちょっと顔が赤くなる。
仕事に行く途中だったことを突然思い出し、慌ててサンダルとサングラスを身につける。
「ごめんなさい、もう行かなきゃ」
男が差し出した名刺を一瞥するとそのままバッグにしまう。走れば間に合う。
急いで走り始めた萌香に男がじゃあね、と手を振る。会釈して萌香は会社へ急いだ。
なんとか昼礼には間に合ったが息は上がっているしひどく汗をかいていた。
「珍しいですね、ギリギリに来るの」
振り返ると涼しげな顔をした坂下がニコニコしながら立っていた。
「僕も遅番なんです」
坂下がハンカチを差し出す。首を傾げる萌香に坂下は一言だけ「汗」と言って拭うそぶりを見せる。ありがたく受け取り顔の汗を押さえる。
「ありがとう、洗って返すね」
坂下はニコニコしたまま頷いた。
「そういえば坂下君とは話したことなかったよね。最近事務処理チームに移ったんだって?」
「はい、処理する作業が多くて大変ですけど楽しくやっています」
そこまで話した時点で昼礼が始まった為、坂下との最初の会話はそれだけだった。
しかし、見た目だけでなくアイロンの綺麗にかかったコムサのハンカチを汗を拭く為に差し出したさり気なさも萌香には好感が持てた。
*****
遅番で仕事を終えて帰宅すると家に着くのは21時半を過ぎる。そんな時間から洗濯機を回せば、古いアパートのこと、隣近所に迷惑になるので洗濯をするのは早番の日か休日になる。
「ハンカチ、返せるのいつになるかな」
今日の昼礼の直前に駆け込み出勤した萌香に坂下が貸してくれたハンカチ。
「とりあえず、明日休みだからお洗濯は明日ということで」
いつも通り独り言で呟く。
「汗もかいたし、シャワー使うか」
一人暮らしの気楽さで、服を全て脱ぎ捨て洗濯機に放り込むとそのまま浴室へ向かう。
シャワーを使い終えるとペーパードリップで丁寧にコーヒーを淹れる。宵っ張りの萌香は夜にコーヒーを飲んだからといって眠れなくなるということはない。
一目惚れで買った碧が美しいジェンガラのマグにコーヒーを注ぐと濡れた髪もそのままにソファに腰を下ろして本を読み始める。
萌香の読む本はライトノベルからミステリー、社会派、時代小説と雑食だ。今夜は高校時代の恩師が勧めてくれて以来何度も読んでいる『花神』を読むことにする。
つい興がのってしまい止めるタイミングを逃すのはいつものこと、その日も気がつけばいつの間にか深夜1時を過ぎていた。
マグを洗い、歯を磨く。髪はもうすっかり乾いていた。
ベッドに潜り込むと小さく伸びをする。濃く淹れたコーヒーも眠気は妨げない。
ひとつあくびをすると穏やかに意識はフェイドアウトしていった。
昼過ぎ、同僚からのメールで目を覚ます。
坂下が萌香の連絡先を知りたがっているが教えても構わないか、というものだった。にやにや顔の絵文字付きだ。
「妙のやつ」
苦笑しながら問題ない旨返信する。
岡村妙、おそらく萌香の勤めるコールセンター内で一番の情報通だ。先日カフェでの雑談で坂下に関する情報をくれたのも彼女だ。
「さて、洗濯するか」
着ていたパジャマもそのまま洗濯機に放り込み、部屋着に着替える。
いつも通りコーヒーを淹れ、何もつけないバゲットをそのまま齧り簡単にブランチを済ませる。美味しいバゲットには何もつけないで食べた方が旨いというのが萌香の持論だ。
洗濯が終わり洗濯物を干すとPCを立ち上げる。大好きな猫関連のブログを巡回していると時間が経つのを忘れてしまう。
知らないアドレスからメールが着て、もう夕方になっていたことに気付く。
怪訝に思いながらメールをチェックする。
「あ、そっか」
坂下だった。岡村にアドレスを聴いたこと、今日は早番だが業務後会えないかということ。
「これって、デートのお誘い?」
ごく当たり前なデートなんて、そういえば経験ないんだった。気づいて軽くパニックになる。
奥手な萌香は高校時代の甘酸っぱい思い出とは縁遠く、大学も女子大で周囲は妙にたくましい女ばかりだったためについついさばけた女友達との付き合いが楽しく男性とは縁がなかった。
ハンカチを返すだけだったら会社で会った時で構わないだろうし、その他坂下と特に接点がない自分にわざわざ連絡を寄こして会いたいと言ってくるのだからこれは誘われていると判断しても自意識過剰にはならないはずだ。
戸惑いながらそう判断した萌香は了解した旨返信する。
坂下からの返信はなかなか来なかった。コールセンターでは通常、業務中に携帯電話を自席に持ち込むことが禁止されている。情報漏洩防止の為だ。
さっきのメールは休憩時間にくれたのだろう。
洗濯物を取り込むと坂下から借りたハンカチにアイロンをかける。
早番の業務が終わる18時を数分過ぎた頃に坂下からのメールが着た。一旦帰宅して車で迎えにくるという。
メールで住所と自宅近辺の道を知らせ、時間が遅くなりそうなので坂下が来るまでの間に軽く夕食を摂り、シャワーを済ませる。
いつもより少しメイクに念を入れる。
夏場でも夜になれば札幌は冷える。踝まであるマキシ丈の黒いふんわりしたワンピースに臙脂色のカーディガンを合わせる。足元は華奢なヒールが気に入っている黒いがキラキラと光沢のある布地のパンプスにした。
20時近くになって、坂下から近くまで着たことを知らせるメールが入る。
身支度に漏れがないことを確認して部屋を出る。
坂下の車はすぐに分かった。可愛らしいコンパクトカーだ。目があったので軽く手を振る。車が萌香の前に止まった。
ドアを開けようと降りかける坂下を制して、萌香は助手席に乗り込む。
「お疲れ様」
声が重なって二人とも軽く笑う。会社外で会う坂下は濃紺のジャケットにスマートなパンツを合わせていて、普段より大人びて見える。
「ハンカチ、ありがとう」
アイロンがけしたハンカチを坂下に返す。
「あぁ、いつでもよかったのに。ありがとう」
坂下は微笑みながらハンカチをポケットにしまう。
「じゃ、行こうか」
車を走らせて坂下が訊く。
「明日は?」
「遅番」
シフトのことだとすぐに分かったのでそう答える。
「じゃ、ちょっと遅くなっても大丈夫だね」
「どこに行くの?」
「内緒」
「えー、変なところじゃないよね」
「ふふ。内緒」
なんだろう、これってカップルの会話?こういうのって悪くない。
しばらく車を走らせていると徐々に坂道になり、森が見えてきた。駐車場も見えてくる。
どうやら公園のようだ。坂下は駐車場をひとつ通り過ぎ、奥にあるもうひとつの駐車場に車を停めた。
「初めて?旭山記念公園」
「あ、ここがそうなんだ」
札幌のいくつかある夜景スポットでも旭山記念公園は有名どころなので名前は知っている。
「うん、名前は知っているけど着たのは初めて」
「坂になっているから、足元気をつけて」
坂下に従い公園内へ足を踏み入れる。最初は軽い登り坂だったが広場へ出ると階段状になっており、下っていくと噴水があった。
そしてその噴水の向こう。
何にも遮られずにたくさんの光に溢れた札幌の夜景が広がっていた。
初めての景色に軽く息を飲む。そして坂下を見ると嬉しそうに萌香を見ていた。
「綺麗だね」
初めて経験する普通のデートと思われるこの状況で、ごくありきたりな言葉しか出てこないのが悔しい。
しかし公園から見る夜景は掛け値なしに綺麗だった。
「うん、綺麗だね」
坂下も満足そうに返す。
しばらく黙ったまま並んで立ち夜景を見る。
「そろそろ冷えてきたね。帰ろうか」
坂下に促され頷いた萌香は一度だけ振り返り再度夜景を見てから車へ戻った。
帰宅すると23時を大きく過ぎていた。
「ありがとう、すごく楽しかった」
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう。じゃ、また」
手を振って坂下は車を出した。
「じゃ、また、か」
単に会社で会うからか、それともまた。
「どっちなのかな」
呟いて部屋の鍵を開ける。
「ただいま」
部屋の灯りは点いていた。
「点けたままだったか」
バッグをソファに置き、部屋着に着替えるとメイクを落とす。
「さて、寝るか」
ベッドへ潜り込んで小さく伸びをする。
どうやらデートだったらしきもの、綺麗な夜景、坂下のスマートな姿。目を閉じてもそれらを断片的に思い出し胸が甘酸っぱく高鳴る。
眠気はなかなか訪れてくれなかった。
翌日のランチで岡村は好奇心を隠そうともせずにやにやしながら萌香の向かいに座った。ランチといっても遅番の場合実質夕食になる。
「で?」
まわり道はせずストレートに切り込んでくる。
「旭山記念公園行って夜景見た」
萌香も素直に答える。
「なに、急展開じゃない?接点ゼロだったのにいきなりドライブデートですか」
萌香自身も戸惑っていたので、ちょっと顔が赤くなる。
「恋する乙女って感じねー、いつもクールで近づきがたいあんたが」
ぶほっと乙女らしからず茶にむせ、恨めしそうに岡村を睨めつける。
「おー、怖い怖い。そのほうがあんたらしいわ」
岡村には敵わない。
「あれってやっぱりデートだよね?」
「なんじゃない?」
一昨日の出勤時の出来事と昨日のデートをつまみにランチを済ませると互いに業務へと戻っていった。
*****
旭山記念公園へ夜景を見に行ってから坂下とはたまにメールをしたり、タイミングがあえば会社で一緒にランチを摂るようになっていた。
憂鬱な通し勤務だったその日、夕方の休憩にメールをチェックすると業務後遊びに行こうという坂下からの誘いのメールが着ていた。一気に元気になり、了解した旨即答する。
定時で上がってそそくさと会社を出ると坂下の車が待っていた。すぐに助手席に乗り込む。
「お疲れ様」
また声が重なり笑う。やっぱり悪くない。
「どこ行くの?」
「内緒」
「えー、ヒントは?」
「ふふ。楽しいところ」
「ヒントになっていないー」
甘い。甘酸っぱい。そして我ながらちょっと痒い。
いつも通りの柔らかな笑顔のまま坂下は車を出した。車はススキノ方面に向かっている。
コインパーキングに車を入れると坂下が萌香の手を取って歩き出した。
一気に鼓動が跳ね上がる。顔が上気しているのがわかる。
坂下は目立たないビルのドアを開けて萌香を促す。ドアを入るとすぐ下りの階段だった。坂下に手を取られたまま階段を降りる。
萌香は目を見張った。
眩い照明、耳を聾する音楽、思い思いに音楽に身を任せ踊る男女。
「こういうの初めて?」
耳元に口を寄せて坂下が声を上げる。そうしないと声が聞こえないくらいの大音量で音楽がずっと流れている。
大きな声を出すのは苦手なので頷いて返事をする。
坂下は笑顔のままフロアへと萌香を連れて行く。
「ダンスなんてしたことないよ」
坂下の耳元に口を寄せて声を張る。
「周りと同じくリズムに乗ればいいんだよ」
音楽に疎い萌香にはフロアに流れているこの大音響がなんというジャンルのものなのかわからない。しかし音に合わせて体を動かしているうちに陶酔するような心地よさを感じていた。めくるめく照明が陶酔に拍車をかける。
どれくらい踊っていたのだろう。坂下に促されてバーカウンターに移動した頃にはすっかり喉が乾いていた。
坂下が車なのでそれにあわせて萌香もソフトドリンクを注文する。
ドリンクを飲み、踊り狂うフロアの男女を眺める。
「どうする?」
坂下が耳元で訊く。
「楽しいけど、疲れちゃった」
坂下は笑顔で頷くと萌香がドリンクを飲み終えたのを見て手を取る。
「じゃ、送っていくね」
萌香は黙って頷く。こういう時ってこんな返事で良かったのかな。わからない。
ビルを出ると熱気から解放されて夏の夜気が心地よい。そのままコインパーキングまで手を繋いで歩く。
「びっくりした、あれがクラブっていうの?」
「うん。楽しかった?」
「すーっごく。でも意外だな、坂下君、ああいうところ行ったりするんだ」
「うん、結構好きだよ」
前回同様、自宅まで坂下は車で送ってくれた。
「じゃ、また。今日はありがとう」
そう言って萌香は車を降りた。車が出るまで見送ろうと思って待っていると何故か坂下は車を降りた。
「どうしたの?」
坂下は萌香の前まで来るとそのまましばらく立ったまま萌香を見つめる。そして頤に手をあてくいっと萌香の顔を上に向かせる。
男性としてはやや小柄な坂下だが、萌香からは見上げる程度の身長はある。
これってもしかして。
「今日の中嶋さん、すごく可愛かった」
そういうと頭をぽんぽんと軽く撫でて車に乗り込んだ。
「じゃ、また」
車が見えなくなるまで萌香は動けなかった。こんなの、間合いがわからない。
翌日、岡村の餌食になったのは言うまでもない。
萌香は二歳年下の坂下に完全に翻弄されていた。
*****
「なにシケたツラしてんの、恋する乙女」
ランチで向かいに座った岡村は口が悪い。
「そういえばどうなってんの?クラブに行ったのが一ヶ月半くらい前でその後何もないわけ?」
坂下とは会社で会えば今まで通りにこやかに挨拶をしてくれるが、メールの返信ははかばかしくない。
「そうなんだよねー」
飽きられちゃったのかな。そんな言葉を飲み込む。
呼び方は相変わらずお互いに坂下君、中嶋さん。距離が縮まっている気がしない。
「男は追えば逃げるからねー、余裕見せとかなきゃダメよ?」
「はいはい、岡村先生」
「はいは一回!」
「はい!」
どこの鬼軍曹だ。
そんなやり取りがあった早番の日。
自宅に着くと坂下からメールがきた。
一言、「今から会えない?」
かぶりつきで返信をしそうになるがとりあえず部屋に入りカーテンを閉める。もう日が短いので灯りを点けた。
バッグをソファに置くとまたメールがくる。
「会えないかな」
こんな坂下は珍しい。
急いで了解した旨返信する。
車でくるとのことなので、急いでシャワーを浴びて身支度を整える。
電話が鳴った。
「出てこられる?」
坂下だった。声がどこか硬い。
「うん、すぐいく」
急いで部屋を出て車を覗き込む。笑顔に力がない。
萌香が助手席に乗り込むと坂下はすぐに車を走らせる。
互いに無言のまま車は石狩方面に向かっていた。痛いほどの沈黙を破る勇気はない。
どれくらい走っただろう。車は無人の砂浜に着いた。
恐る恐る車を降りる。夜の海はどこまでも暗くて海と空の境目もわからない。
見つめているのが怖くなってきたからか、秋の風が冷たいからか萌香は体が震えているのに気づいた。
坂下はじっと海を見ている。
「寒いからそろそろ車に戻らない?」
返事はない。何回か呼びかけてやっと坂下は萌香の声に気づいたようだった。
「あ、ごめん、そうだね」
車に戻ると坂下はシートを倒して目を瞑った。
「ちょっと休ませて」
「うん」
萌香もシートを倒して仰向けになった。そっと坂下の横顔を窺う。
まだどこかあどけなさが残る端正な顔には深い疲れが滲んでいた。
顔を正面に戻し萌香も目を瞑る。坂下を純粋に心配する思い、これから告げられるかもしれない悲しい言葉、それを聞いた時の痛み、そんなもので萌香の胸はきりきりと痛んだ。
深く息をついて坂下が起き上がる。
「ありがとう、休めたよ」
どうしてそんな無理して笑うの。思わず言いそうになる。しかし言えない。言えばきっと坂下は涙を見せる。
そしてそれは本当は絶対に見せたくないはずのものだ。
「よかった。どうする?遅いし帰る?」
何気ないように聞こえたことを願いながら言う。
「そうだね」
帰りの車内では岡村と話す時のように他愛ない話題でなんとか坂下を笑わそうとする。萌香の自宅に着く頃には坂下はようやく普段とほぼ同じような笑みを見せてくれるようになっていた。
「じゃ、また」
車を降りようとした萌香は衝動的に言う。
「上がっていかない?コーヒー一緒に飲も」
一瞬驚いた表情をした坂下がついにやっと普段通りの笑顔になる。
「ありがとう。お言葉に甘えて」
自分の部屋に男性を通すのは初めてだった。灯りを点けると蛍光灯がビーンズテーブルとラブソファを照らす。
「ソファに座ってゆっくりしてて」
「うん」
こんな時にテレビをつけるのも味気ないので、CDをデッキにセットする。ベートーベンのピアノソナタ『月光』『悲愴』『熱情』が収録されているものだ。
二人分のコーヒーをペーパードリップで丁寧に淹れると、ジェンガラのマグに注ぐ。
坂下にも同じジェンガラのマグにコーヒーを注ぎ渡す。
「温かいね」
秋の砂浜で冷えた体に熱いコーヒーは沁み入るように美味しかった。
萌香はマグをテーブルに置くとソファに体育座りになった。
「どうしたの?」
「この体勢が落ち着くの」
「そっか」
笑いながら坂下が左腕を萌香の肩に回した。
心臓が跳ね上がる。思いきって頭を坂下の肩にのせてみる。
坂下の指が優しく萌香の髪を梳いた。萌香の頭にそっと坂下が頭をもたせかける。
ああ。この時間がずっと続いてほしい。こんな平凡で優しい時間が。
ふいに坂下の指が萌香の耳に触れて柔らかく撫でた。
背筋がぞくぞくとする、これは。
「声、出していいんだよ」
坂下の声に萌香は自分が初めて感じた悦びに唇を強く噛み締めていたことに気付く。
好きな人に触れられるってこんなにも幸せで気持ちが良いものだなんて知らなかった。
絶えるような吐息が漏れる。
坂下の唇が、舌が、首筋をなぞる。完全に力の抜けた萌香を坂下がベッドへ運ぶ。
見つめあいながら互いの服を脱がせる。
坂下の動きはどこまでも優しく柔らかだった。上になり、下になり、視線を絡ませあう。
二人がベッドに並んで横たわった時にはCDは一周して『月光』が流れていた。
「初めてだったんだね」
ぽつりと坂下が言う。
黙って萌香は頷く。破瓜の痛みが身体の中心でまだ疼いている。
坂下が起き上がりベッドの縁に座った。
萌香に向けた背中に見えた、その表情。
後悔。
胸が冷えた。私は何を間違えた。
黙ったまま、二人は服を着た。朝までいてほしいとは言えなかった。
坂下も泊まっていこうとはしなかった。
玄関先で坂下を見送る。
「ばいばい」
少し悲しそうな笑顔で坂下が言う。
そうか、またね、じゃないんだ。そんな笑顔見せないでよ。
泣きそうになりながら笑顔で返す。
「ばいばい」
ドアを閉める。靴音が遠ざかる。きっとこの靴音はもうここにはこない。
車が走り出した音を聞いて堪えていた涙が溢れ出す。そっとドアの鍵をかけた。
平凡な幸せなんて、私なんかが望めるわけなかったんだ。
ふと、母にもらったオルゴールが目に入る。チャイコフスキーの花のワルツのオルゴール。もう10年以上鳴らしていない。
手に取りしばらく眺める。久しぶりに鳴らしてみようか。
ネジを巻こうとしたが手が止まる。やっぱり駄目だ。
翌日は遅番だった。目元のクマはコンシーラーで隠したが腫れぼったい瞼はどうしようもなかった。
いつもならすぐに茶化してくる岡村も、今日の萌香には声をかけなかった。
坂下は休みだった。
*****
「坂下、辞めるんだって」
休日の午後、以前チーズケーキを食べたカフェに萌香は岡村といた。
「あんたと夜景見に行った時あったじゃない?あの時、彼女とこじれて別れそうになってたんだって。それにしても彼女がいたとか知らなかったし」
私だって彼女がいたなんて聞いていない。
「そんでちょっとあんたに寄りかかっちゃったみたいな」
「そっか。彼女とはどうなったの?」
何気ないふうに聞こえていて、お願い。
「結局よりが戻ったみたいよ」
岡村がつまらなそうに言う。
「10月の末頃?」
あの夜のあとだ。
岡村にはあの夜のことは言っていない。しかし聡い彼女のことだ、薄々気づいてはいるのだろう。
あの夜以来、坂下は萌香と会っても礼儀正しい挨拶をするだけで今までのような笑顔は見せなくなった。萌香もどうしてもぎこちなくなってしまう。
「もうすぐクリスマスだっつーのに、女二人淋しくカフェで過ごすか。世の中の男どもは女を見る目がないねー」
岡村が愚痴をこぼす。
「そうだね」
少なくともあんたに関しては。でも、私を選ばない男の目はきっと正しいよ。
口には出さない。
カフェを出ると新しく雪が積もっていた。さくさくと雪を踏み地下街に入ってから岡村と別れた。
地下鉄に乗って自宅の最寄り駅に着くと駅前のコンビニに入る。
お茶のペットボトルをひとつ、ネギトロのおにぎり、唐揚げ、奮発してエクレアも買う。
いつの間にか雪が降ったらしく、踏みしめるとキュッと雪が鳴く。今夜はかなり寒い。
コンビニの袋を提げて帰宅すると、自分で鍵を開けて入る。安さと広さだけが取り柄の古いアパートの一室、灯りは点いていない。
「ただいま」
もちろん応える声はない。
灯りを点けると蛍光灯の青白い光がビーンズテーブルとラブソファを照らす。あの日と変わらない部屋。
コンビニ袋をテーブルに置き、カーテンを閉めストーブを点ける。BGM替わりにテレビをつけソファに腰を下ろす。
喉が渇いていた。ペットボトルのお茶を1/3ほど一気に飲むとお腹がきゅうっと鳴り空腹を改めて感じる。
唐揚げとおにぎりを交互にかじり、お茶で流し込む。夜も遅い時間に罪悪感を覚えながら、それでもどうしても今日のような夜は甘いものがほしい。
欲求に従ってエクレアを味わう。
指についたチョコレートを舐めると、あの行為の続きのような気がした。
ふといつか貰ったポケットティッシュのことを思い出した。胸がざらつく。ポケットティッシュをまとめて収納している箱を開けるとけばけばしい広告のティッシュがすぐに見つかった。
それは、ほんの気まぐれだった。
「どうせヒマだし」
呟くと手元のスマートフォンでティッシュに書かれているQRコードを読み込みサイトにアクセスする。女性用のリンクからサイトに入るとユーザ登録画面になる。
ニックネームや年代、血液型、趣味、サイトの利用目的など項目はかなりあった。
「ニックネームか。こんなのまさか、本名入れる人なんていないよね」
あえて自分が普段使うようなニックネームとは違うものを考えてみる。
カンナ。
奈が付く名前って可愛いよな、と昔から思っていたので奈がついて響きが可愛い名前にしよう。それだけで深い理由はないがなんとなく気に入ったので名前はカンナで登録した。
登録には10分くらいかかった。登録が終わると早速掲示板を見てみる。
掲示板には純粋に出会いを求める掲示板と、セックス目的の相手を探すアダルト掲示板の二種類があった。『援助交際』に関するニュースの特集を最近見たことがあったので、ふと興味が湧きアダルト掲示板を見てみる。
穂別荷、ゴム有り。ノーマル。中には金銭なしで純粋にセックスを楽しみたいというものもあったが、そういうものは明らかに閲覧数が少ない。お小遣いという名目の金銭提供を示唆する書き込みがかなりの割合を占めていた。
胸がざわつく。大学時代の友人はたかだか二万やそこらで知らない男と寝るなんてとんでもないと鼻で笑っていた。
親からもらった体は大事にしましょう。そんなありきたりの言葉が脳裏をよぎって、何故か笑えた。
「私の体なんて、大事にする価値あるのかな」
自虐的に呟く。
そのまましばらく掲示板を見ていたらかなり遅くなってしまった。
たくさんの書き込みを見て要領は掴めたと思う。直接的な書き込みをするとサイト管理者に書き込みを削除されてしまうようなので、サイトでよく使われている用語を織り交ぜて書き込んでみる。
反応は早かった。すぐに数通のメールが来る。即決する。
待合せ場所に向かうと既に男の車が停まっていた。迷わず乗り込む。
車はラブホテルにまっすぐ向かう。男が選んだ部屋は鏡だらけで天井にも鏡があった。
男は忙しなく萌香の服を脱がせる。一緒にシャワーを使うと体を拭くのもそこそこに萌香をベッドに運ぶ。
鏡に映る自分の裸体と、それに覆いかぶさる男の背中に萌香は醒めた視線を投げる。
なんて間抜けな恰好だろう。
体勢を何度も変え、その度に男は「いいか?」と訊く。
萌香は男のお人形、望む返事をするだけ。
「すごくいい」
男の背中が汗ばむ。そろそろいいだろう。面倒くさい。
「ああ、もうダメ、早くキて!」
男はくぐもった声を出し動きを止めると、しばし萌香の上で荒い息を吐いていた。その後ゴムの処理を終えると萌香を腕枕に誘う。
「また会えるかな」
「うん、また会いたいな。メールするね」
名前も知らないこの男にまた会うことはきっとない。男もそれは承知だろう。
それぞれシャワーを浴びて身支度を整える。
「これ、約束の」
男は”お小遣い”を萌香に渡す。
「ありがと」
財布にしまう気にはなれずむき身のままバッグにしまう。
「じゃ、帰ろうか」
自宅の最寄り駅の一つ前まで送ってもらい軽いキスを交わして別れる。最後まで男の名前は呼ばなかった。知らない名前は呼びようがない。
男の車が走り去るのを見送ってから地下鉄に乗る。一駅だからほんの1、2分、つかの間ぼんやりと真っ暗な車窓に目を向ける。
一仕事を終えた物憂さで、暗い景色は目に映るだけでいちいち認識していない。
決定的に自分を汚しきったことになんの感慨も湧かないことに萌香は気づいていない。
「疲れたな」
そう呟くとぼんやり遠ざかっていた周囲の雑音や人々の姿が鮮明になってきた。
自宅の最寄り駅に着くとコンビニに寄る。男のくれた”お小遣い”を折りたたんで募金箱に押し込んだ。そのまま何も買わずコンビニを出て帰宅する。
「ただいま」
今日は二回目だ。
もちろん応える声はない。
灯りを点けると蛍光灯の青白い光がビーンズテーブルとラブソファを照らす。あの日と変わらない部屋。しかし何故かあの日よりも白々しく見えた。
シャワーを使う。今日の全ての痕跡を拭うように時間をかけ丁寧に体を洗う。
浴室を出て髪を乾かしながら明日のシフトを確認する。遅番だから12時からか。
一人でベッドに入り伸びをする。目覚ましをセットしあくびをするとするりと眠りに落ちていく。
夢は、見なかった。
午前三時、目が覚めた。
そういえば、あの最中、坂下君とはキスしなかったな。ふと気づいた。気づかなければよかった。
キスは本当に大事な相手としかしないんだ。
涙がこめかみを伝う。
あの時見た、光の向こうへ行ってしまいたい。
唐突に子どもの頃の記憶が溢れてくる。
母がくれたチャイコフスキーの花のワルツのオルゴール。
悲しいことや嫌なことがあるといつもそのオルゴールを鳴らし、曲に合わせてくるくると舞うバレリーナに見とれていた。
萌香の初潮は小学5年の秋だった。同学年の子達よりも早かった。
大人になったお祝いと母は自分が大事にしていたオルゴールをくれた。
初潮が来てしばらくして、徐々に萌香の体の線は少女のそれから女のそれに変わり始めていた。
しかしながら身長の伸びは低調で中学に入る頃にはもうそれ以上伸びなくなってしまった。
学校でも性教育の為のビデオを見たりなど、性的なことへの関心が生まれてくる年頃。早くも胸が膨らみ始めていた萌香は母親にブラジャーを買ってもらった。
友達がまだ身に着けていないその下着を初めて身に着ける嬉しさと恥ずかしさ。学校では早々に萌香がブラジャーを着けていることが同学年の女子の間で話題になったものだ。
萌香には4歳上の兄がいる。小柄な萌香から見ればはるかに大きく少し怖い兄。それでも萌香が小学校低学年の頃はよくじゃれて遊んでもらったものだ。しかし急にキレて怒り出すことがあり、そんなときは本当に怖かった。
ある日のお風呂上り、パジャマ姿で室内をうろついているとある日突然兄にそんな恰好でうろつくなと叱られた。何故だかわからなかった。
後はもう寝るだけだったのでおとなしく自室に戻り灯りを消してベッドに入る。小さく伸びをしてあくびをする。
眠りは速やかに訪れて萌香は静かな寝息を立て始める。静かな、いつも通りの夜。
萌香は急な違和感で目を覚ました。身体の左側を下にして寝るクセのある萌香は、そうして寝ていると部屋のドアに背を向けた格好で寝ることになる。
かけ布団がまくり上げられていて背中が寒い。
そして。
誰かが萌香のお尻を触っていた。気持ち悪さと恐怖に萌香は身体を固くする。気配の変化で萌香が目を覚ましたことに気付いたのだろう。動作が徐々に大胆になっていく。
「声出すなよ」
ささやいたのは兄だった。
身体を仰向けにされる。怖くて目は開けなかった。あくまでも寝ているふうを装う。目が覚めていることは相手にもわかっていることは承知しているのに。
兄の指がパジャマのボタンをはずしていく。中に来ていたキャミソールを捲し上げられる。
あらわになった胸が寒い。兄はそのまましばらく萌香の体を眺めていた。
右手が胸に触れる。思わずビクっと身体が震える。しばらく胸の感触を確かめた後、兄は萌香の乳首を舐めた。
背中がぞくぞくする。気持ち悪いのか気持ちよいのかわからない。でもこれはいけないことだ。それだけはわかる。絶対に誰にも知られてはいけない悪いこと。
兄は萌香の両の胸を好きなだけ嬲り部屋を出ていこうとした。去り際に言う。
「誰にも言うなよ」
萌香は目を瞑ったまま答えない。反応がないのを了解と捉えたのか、兄はそのまま部屋を出てドアを静かに閉める。
兄の部屋のドアが閉まる音がかすかに聞こえた。
萌香はぎゅっと閉じていた目を開き、乱された衣類を直す。
どうしたらいいんだろう。こんなこと、誰にも言えない。
助けてよ。そう願いながら萌香は母にもらったオルゴールのネジを巻いた。
花のワルツに合わせて優雅にバレリーナが舞う。
ベッドに戻り胎児のような姿勢になって布団にくるまる。
締め付けるように苦しい胸を抱きしめながら目を閉じる。
怖い。汚い。助けて。
声にならない声を頭の中でリフレインするうちにいつの間にか萌香は再び眠りに落ちていた。
萌香は夜が怖かった。あの日以来、週に一、二度くらいの頻度で兄は深夜に訪れる。
急に訪れる体の違和感が萌香の体を凍らせる。ぎゅっと目を瞑ったまま、まるで眠っているように振る舞う。人形を弄ぶように兄は萌香の体を好きなように扱った。
好きなだけ「お人形遊び」をすると兄は部屋を出ていく。
そんなことが中学二年の秋頃まで続いていた。
徐々に夜更かしが出来るようになった萌香は兄より先には寝ないようになっていた。萌香が起きていれば兄はやってこないからだ。
そうするうちに兄は進学とともに家を出ていった。
その日の夜、萌香は自分の手で自らの首を絞めた。
周囲の音が遠のき、頭が膨張して破裂するような、もしくは凄まじい圧力で潰されているような感覚の後、その光は見えた。
淡いパステルカラーの小さい光球がふわふわと漂っている、その向こうが見える前に幼い萌香は手を離した。
あの日以来母のオルゴールを鳴らすことはなくなった。
どうせ誰も助けてくれない、私なんか。
今度はもう、あの光の向こうへ行こう。
そろそろと両の手を首にかける。そして徐々に力を入れていく。
周囲の音が遠のき、頭が膨張して破裂するような、もしくは凄まじい圧力で潰されているような感覚。
この感覚は憶えている。
しかし。
あの日見た光はやってこなかった。視界はただ暗転していく。
行けないんだ。
声にならない声で呟くと萌香は首から手を離した。
荒い呼吸が喉を灼く。音が戻ってくる。
ベッドを出て水を飲むと少し呼吸が楽になった。
「意気地なし」
そう呟くとベッドへ戻って目を瞑る。
明日は遅番だ。もう少し寝よう。
翌朝、アラームに叩き起こされ、世間一般よりは遅い朝が始まった。
身支度を整え出勤する。職場は特に職能のない人間なら気軽に足を踏み入れるであろうコールセンター。
敷居は低いが実際には向き不向きがはっきりしているので人間の出入りは激しい。半年も勤められればベテランと呼ばれるような職場だ。
「めんどくさ、今日も積滞ついてるし」
そう呟くと背後から声がかかる。
「中嶋さん、おはようございます」
礼儀正しい挨拶に振り返る。坂下だった。
「坂下君、おはよう。今日も忙しそうだね」
ややぎこちなく返す。
「そうですね」と折り目正しく会釈すると坂下は去って行った。
「萌、おはよう!」
同じく遅番で出勤してきた岡村にも声をかけられる。
「萌香、疲れてない?目が死んでるよ」
「朝はこれがデフォルトだって」
「そうだよねー」
「あんただって目、死んでるし」
「えーそんなことないって、めちゃくちゃ元気」
いつも通り軽口をたたき合いながらバッグをロッカーに入れフォンブースに向かい業務端末を立ち上げる。
いつも通りに業務をこなし一日が終わり業務端末を落としてロッカーへ向かう。
ロッカールームから出たところで声がかかる。
「中嶋さん、お疲れ様です」
坂下だった。萌香が出勤してきたタイミングですでに業務を開始していたのでてっきり早番だと思っていた。
「通し勤務だったんだね。お疲れ様」
「残念ながら通し勤務でした」
そんな会話をしながら会社を出る。
「じゃ、お疲れ様」
方向が違うので会社を出てすぐに別れる。
翌日出勤した際、昨日が坂下の最終出勤日だったことを知った。
萌香はスマートフォンのアドレス帳から坂下の項目を削除した。それとあわせてあのサイトもブックマークから削除した。
会社を出てから、萌香はいつも向かう地下鉄の駅には行かなかった。
黙々と雪道を歩き創成川を渡る。さっぽろファクトリーの横を通り過ぎ水穂大橋に差し掛かる。
雪道を20分ほど歩きすっかり息が上がっていた。水穂大橋の途中で立ち止まり豊平川をのぞき込む。
暗い冷たい流れは濁って激しかった。
どれくらいそうしていただろう。すっかり汗がひき身体が冷え始めていた。
再び歩き始める。途中でスーパーにより食材を買う。
帰宅後、簡単につまみを作ってからゆっくりお風呂に入った。ずっとシャワーで済ませていたのでゆっくりと湯船に浸かると何もかもがほぐれていくようだった。
光の向こうに行きたい。そんな昏い情熱はもうなかった。
お風呂上り、久しぶりに晩酌をしながらゆっくりと録り溜めていた海外ドラマを観る。わずかな証拠を科学的に分析し犯人を追い詰めていく警察物だ。
ドラマを観終えると歯を磨きベッドに入り伸びをする。目覚ましをセットしあくびをするとするりと眠りに落ちていく。
変わらない日常が続いていく。
拙作をお読み下さりありがとうございます。
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