えんぴつころりん
放課後の教室、誰もクラスメイトがいない中、ツバサくんは一人、自分の席に座っていました。
今日は、算数の宿題を忘れてしまったので、居残りさせられてしまったのです。ツバサくんは算数が大嫌いでした。電卓を使えばすぐに計算なんてできるのに、どうして自分で計算しなくちゃいけないのか、さっぱり分からなかったからです。
「あーあ、みんなとサッカーしたかったな」
この居残りプリントを終わらせればみんなと合流できるけれど、全然終わる気がしませんでした。
プリントの真ん中ぐらいの問題を解き終わった時、ツバサくんの持っていた鉛筆が、彼の手を飛び出して、ころり、と机の下に転がり落ちました。
「ちぇっ」
小さく舌打ちしてイスを引いたツバサくんは、座ったまま机の下に頭を突っ込んで鉛筆を探しました。すぐに見つけて拾います。
すると、どうしたことでしょう。
いつの間にか、ツバサくんは周囲全部が真っ白な場所に立っていました。
『すべて、正解にたどり着くまでは帰さぬ』
突然響いて聞こえた声に、ツバサくんは慌てて周りを見渡しました。何が起きたのかさっぱりわかりません。だって、ついさっきまで教室で、自分の席に座っていたのですから。
「な、なに? ここどこ?」
呟くものの、答えてくれる人は誰もいません。
『すべて、正解にたどり着くまでは帰さぬ』
再び、謎の声が聞こえました。
すると、どうでしょう。目の前に、「135÷5=」という計算式が浮かび上がりました。ツバサくんは割り算の筆算は大嫌いだったので、宿題もやらなかったのです。でも、謎の声が言っていることが本当なら、ちゃんと計算しないと帰れないのかもしれません。
ツバサくんは、手にした鉛筆を計算式に向けました。不思議と浮かび上がった式の隣に文字を書くことができました。ごくり、と喉を鳴らし、「23」と数字を書くと、ツバサくんの視界が真っ赤に染まりました。
「うわっ」
突然のことに驚いて、すてん、と尻もちをついてしまいましたが、それは大きなバッテンでした。きっと答えが間違っていたのでしょう。
恐る恐る計算式から少し離れた場所に鉛筆を向けると、小さな字で筆算を書きました。出て来た答えは「27」です。「135÷5=」の隣にその数字を書けば、大きな○が付きました。
良かった、これで帰れる。そうツバサくんがほっと胸を撫で下ろした瞬間、今度は「595÷7=」の文字が浮かび上がりました。
そうです。1問だけではなかったのです。
仕方なく筆算をしていきます。今度は余りが出ました。「83 あまり4」と書くと、また大きなバッテンを付けられてしまいました。
どうしてでしょうか。今度はちゃんと筆算をしたのに。
ツバサくんは、泣きたくなってしまいました。きっとどこかで間違えてしまったんだと思いますが、どこで間違えているのかサッパリ分かりません。でも、ちゃんと正解しないと、ここから出られないのです。
帰りたい。そう思ったときでした。
「うおっ!」
驚くような声とともに、重いものがどさりと落ちる音がしました。振り返れば、黒い詰襟を来た年上のお兄さんが尻もちをついています。びっくりして浮かんだ涙も引っ込んでしまった瞳で、まじまじとお兄さんを見つめていると、向こうもツバサくんに気づいたのでしょう。「よ」と軽く手を挙げて挨拶をしてきました。その手には、お尻のところが削られて1~6の数字が書かれた鉛筆があります。
『すべて、正解にたどり着くまでは帰さぬ』
再び、あの声が響いて、お兄さんは大きなため息をつきました。
「まじかよ。たりぃなぁ」
ツバサくんは、またびっくりしてしまいました。自分は、あの声を聞いた時に何がなんだか分からなくてオロオロしてしまったのに、目の前のお兄さんは平然と受け入れているのですから。
「どした?」
「あのね。怖くないの?」
「あー……、オレ、初めてじゃねぇから。ここに前にも来たことあんの。お前みたいに誰かが先客だった時もあるし……って、あー、やっぱ英語かよ」
お兄さんの前には
『次の()に適当な単語を入れ、同じ内容の文にしなさい。
Mt.Fuji is the highest mountain in Japan.
Mt.Fuji is higher than ( ) ( ) mountain in Japan.』
なんて長い問題が浮かび上がっていました。
頭をがりがりと掻いたお兄さんでしたが、ちらり、とツバサくんの前のバッテンを見ると、「7の段の掛け算、間違えてるぞ」と教えてくれました。
慌てて自分の書いた筆算を見れば、確かに7×8を57と書いていました。「ありがとう、お兄さん!」とお礼を告げると、「お互いがんばろうぜ」と返事が戻ってきました。
今度はちゃんと「85」と正しい解答にたどり着いたツバサくんは、頑張って自分の前に浮かび上がってくる問題に取り組みました。
一人だと不安でしたが、今は後ろにお兄さんがいます。ヒントをくれたのは1回だけですが、誰かと一緒というだけで、すごく心強く感じました。
でも、しばらくして、また計算問題でつまずいてしまいました。小数点どうしの掛け算です。何度やってみても、バッテンがついてしまいます。
また、お兄さんがヒントをくれないかな、と後ろを見ると、お兄さんも苦戦しているようでした。
「あー、これ何だっけ。……っくしょー、せめて英和辞典持ち込ませろよ」
ブツブツと呟いているので、お兄さんの目の前の問題を見てみます。どうやら日本語に訳さなければいけないようです。『I like to eat an eggplant.』と書かれています。
ツバサくんだって、「I like a cat.」みたいな簡単な英語は分かります。でも、お兄さんの前に書かれた英語はもっと長くて、とても読めませんでした。
「あ、でも、最後のってナスだよね。『ABCであそぼ』で見てことあるよ」
ぽつりと声をもらせば、お兄さんは驚いた様子で振り向きました。手をこちらに伸ばすと、ツバサくんの頭をぐりぐりと撫でます。「助かった。サンキューな」とお礼を言うお兄さんは、どうやらナスという単語が分からなかったようでした。
「あとお前、小数点の位置ミスってるよ」
ちらりとツバサくんの筆算を見たお兄さんは、またヒントをくれました。どうやら計算は得意みたいで、ツバサくんが間違っていたところをすぐに気付いたようでした。
ありがとう、とお礼を言ったツバサくんは、再び自分の問題に戻りました。
今度は無事に正解にたどり着いたツバサくんは、小数点の位置に気をつけながら問題を解き進めていきました。順調です。
でも、残念なことに、また計算で詰まってしまいました。割り算も小数も大嫌いなツバサくんの前に広がるのは、小数どうしの割り算の問題です。なんという拷問なのでしょうか。頑張って計算をしたのに、大きなバッテンを付けられてしまって、それまで順調だったツバサくんも意欲をなくしてショボンとしてしまいました。
またお兄さんがヒントをくれないかな、と後ろを振り向くと、お兄さんも悩んでいる様子でした。でも、あまり頼り過ぎてはいけません。もう一度計算をしてみようと、もう一度筆算を書き始めました。すると、さっきとは違う答えが出てきました。きっとどこかで間違っていたのでしょう。ツバサくんが答えを書くと、……残念ながら、再び大きなバツ印が付けられてしまいました。
『次の文章を英訳せよ。:彼はキュウリのサンドイッチを買いに出かけました』
お兄さんの前に広がる問題です。「He went to buy sandwiches.」と書かれた上に大きなバッテンが付けられています。お兄さんはその問題を睨みながら「きゅうり?きゅうり?とぶつぶつ呟いています。
「きゅーかんばー」
「は?」
「書けないけど、キュウリって『きゅーかんばー』だよ」
ツバサくんの言葉に、目を丸くしたお兄さんですが「よし、十分なヒントだ。サンキューな」と頭をがしがしと乱暴に撫でてくれました。ツバサくんは『ABCであそぼ』という番組が大好きでしたが、お兄さんの役に立てたことでもっと好きになりました。
「お前も詰まってたのか。どれ……」
お兄さんは、ツバサくんの書いた筆算を見つめました。
「あー、1の位の商を出したところの引き算間違ってるよ」
「ほんと?」
「あぁ。お互いがんばろうな」
「うん!」
お兄さんは再び自分の問題に向き直り、ツバサくんの教えた音を頼りに『きゅーかんばー』と発音しそうな綴りを書いていきました。×をくらっても、めげずに綴りの一部を変えて何度もチャレンジしています。
それを見て勇気をもらった気がしたツバサくんは、再び割り算の筆算に取り組みました。出て来た答えを「=」の隣に書いた時、「ピンポーン」と妙に明るい音がしました。今まで、○は付けられても音はしなかったのに、とびっくりしたツバサくんの耳に、謎の声が届きます。
『全問正解だ。十秒後に元の場所に帰してやろう』
その言葉はとても嬉しいものだったけれど、ツバサくんは顔を歪ませてお兄さんを振り返りました。
「おう、後は大丈夫だって。気にすんな」
「でも、お兄さん……」
お兄さんを一人残して帰ってしまうことが、何だか悲しくてツバサくんは涙がじわりと滲むのが分かりました。
「オレはコウキ。お前は?」
「ツバサ」
「ツバサ、運が悪けりゃ、またここで会えるさ」
「え?」
お兄さんの言い方が不思議で、ツバサくんは目をぱちくりさせました。普通なら「運が良ければ」じゃないんだろうか、と。
「じゃぁな」
「コウキお兄さん!」
慌てて名前を呼んだツバサくんでしたが、いつの間にか教室にいました。
自分の席に座り、手には自分の鉛筆。そして、宿題は全部終わっていました。見れば、あの真っ白な場所で解いた問題が並んでいます。
おそるおそる机の下を覗きこんでも、何も起こりませんでした。
結局、ツバサくんはプリントを先生に提出すると、友達のサッカーに合流せずに、トボトボと帰りました。
あれから一週間後、ツバサくんは、また居残りでプリントに取り組んでいました。
あの不思議な出来事は、本当に何だったのでしょうか。友達に聞いても「夢でも見てたんじゃないの」なんて笑われてしまいました。
でも、あの出来事を忘れてしまいたくはなくて、ツバサくんは自分の鉛筆のお尻を削ると、そこに1~6の数字を書きました。お母さんに見つかって「テストで横着する気なの!」なんて怒られて、初めてそういうふうに使うものなんだと知りました。コウキお兄さんも、そんなふうに使っていたのでしょうか。そう考えるとなんだか、くすくすと笑いたくなってしまいます。
今日は大嫌いな算数ではなく、理科のプリントでした。どうしても分からない問題があったので、鉛筆をころり、と転がします。5が出ました。ア~エの選択問題なので、もう一度転がし直すと、机からころり、と転がり落ちてしまいました。
それを拾おうと腰をかがめた時、視界が真っ白になりました。
今度はびっくりしません。だって、ここがどんな場所か知っているのですから。
「よ、また会ったな」
グラフの問題に取り組んでいたらしいコウキお兄さんが手を挙げて挨拶してきました。
『すべて、正解にたどり着くまでは帰さぬ』
謎の声が聞こえてきます。ツバサくんはコウキお兄さんとお揃いになった鉛筆を手に、目の前の問題を読み始めました。
※良い子は「えんぴつころりん」しちゃいけませんよ。




