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感情食のマエストロ

作者: 04号 専用機

とある診断メーカーの結果から閃いたネタを短編にしました

 他人の不幸は蜜の味。

 最初にそう言ったのは誰だったか。

 私はたまに、その言葉を遺した偉人に多大な感謝を覚えてしまう。

 嗚呼そしてまた、私は今日も今日とてその先人に感謝の意を述べるのだ。



 私の腕の中では一人の少女が泣いていた。

 憎しみに歯を食いしばり、悲しみに涙を流しながら、怒りに眸を燃やす少女。

 私はその少女を抱きしめながら、決してそれを悟られないよう、自らの唾液で喉を鳴らす。

 腹が減った。今、意識の大半がそれに支配されていた。

 腹が鳴ったのかも知れないが、腕の中で泣き喚く少女には、それは些細で気にもとめないことらしい。私は口角から唾液が垂れそうになるのを必死にこらえる。

 このままでも実に旨そうだ。どんな味がするのだろう。

 だがまだ足りない。最高の味に仕上げるために……

「……ねぇ、答えて?」

 私は少女の耳元で、優しくつぶやいた。

「お父さんを寝取った相手に抱かれる気分はどう?」

 少女の目が見開かれたような気がする。恐る恐る顔を上げたその眸には縋るような危うさと、向ける先を見つけた怒りの炎と、それから、深い絶望とで――黄金色に輝くソースのように、輝いて見えた。

 私はベッドの上に少女を押し倒す。

 小さく否定の言葉を放たれたような気がする。構うものか。

 細い腕で私のことを押し返そうとする。空腹に苛まれた私にはそんなもの、空気と同じようなものだった。

 枝のような腕を抑え、ベッドに押し付ける。

 薄暗がりの中で眼下の少女を見つめる。

 目一杯に溜まった涙がこぼれ落ちた。

 頬を伝うそれを、顔を近付け舐めとると、少女は堰を切ったように罵詈雑言を投げつけた。

「ふざけんな! ふざけないでよ! そんな、そんなのってない! 私は貴方が、貴方のこと信じてたのに……! どうして騙したの!? どうして今、そんなことを明かしたの! 私……私は……! ――最悪、最低……あなたみたいな人、会ったことない……貴方なんか……貴方なんか……!!」

 その言葉に、私の空腹は悲鳴を上げて限界を訴えた。

「貴方なんか死んじゃえばいいんだ!!」

 まだだ。まだ仕上げがいる。そのためにこの素材を選んだのだ。未知の美食にたどり着けると見込んだがゆえ、今こうして、この少女に調理を施しているのだから。

 私はその一瞬だけ、また救世主の仮面を被る。

「そんな、ひどいよ……私はただ……貴方を助けたかっただけで……冗談さえも、友達に許してくれないの……?」

「え――」

 馬鹿な女だ。その一言でまた私のことを信じてしまった。

 不幸は人を地に落とし、その領域への防御を放棄させてしまう。

 だからこそ、そこには最高の食事が待っている。

「なぁんて、嘘。貴方は家族も信頼も恋人も友達も、何もかも私に奪われた――可哀想な女の子だよ」

 その言葉に。

 少女の目に宿った光は、完全に失われた。

 頃合だ。

 私はまた唾液をこらえ、少女の耳元でつぶやいた。

「いただきます」


 他人の不幸は蜜の味がした。


◆◆◆


 この世のどこか、そこには異食家の集まる村があるという。

 彼らは普通の食事をすることもあるが、專ら主食は別にあるとされる。

 それは時に様々な「鉱石」であり、また「樹皮」であり、時に「電気」であり、そして「色彩」であり――ほんの時たま、それは「感情」であるという。

「ご馳走様でした」

 村の片隅、比較的大きな家の寝室で、女は一人つぶやいた。

 隣には裸の少女が安らかな寝息を立てている。

 それを見て、この家の主である女性は、満足そうに息を吐いた。

「また私に不幸をおくれ……? 今日の君は実に美味だったよ」

 それから脱ぎ捨てたシャツを羽織って、家主は、シャワーを浴び直すために寝室を出た。


 異食家の中でも、人肉食者と、感情食者は、特に稀少であると言われる。そしてまた、絶対数で言えば感情食家の方が若干優勢であるものの、平均寿命は、他の異食家に比べ、感情食者は圧倒的に低かった。

 17,8歳。それが平均的な寿命である。

 主な死因は他者による殺害。

 それはどうやら、感情食者達が好んで食する「感情」に起因するらしいのだが……。


 深い深い宵の中、家主は熱いシャワーを浴びていた。

 正直、少女との行為は汚らわしいとしか感じない。自分の食事を見直す必要がありそうだ。

 男女問わず確実な欲情を誘う肉体を抱き締めるようにして、家主はうっとりと、先程味わった不幸の余韻に浸っていた。

「はぁ……」

 ため息が出るほど美味だった。

 今宵抱いた少女は恵まれた家庭に生まれた。だがある日突然父親が家計を圧迫し始める。

 母親はそれが不倫によるものだとは気付かない。なぜなら母親も同じ時期に、違う人間と不倫に及んでいたから。

 そして幸福に包まれていた家庭は崩壊を始める。次第に会話の減っていく食事。テレビの音ばかりが響くようになる静かなリビング。父親は意味もなく暴力を振るうようになり、母親は急にヒステリーを起こすようになった。

 少女の精神は次第に摩耗していく。彼女には一刻も早く、精神の安寧と、心の治癒が必要だった。

 そこに私が現れた。

 私は彼女にできる限りのケアをした。時に相談に乗り、時に共に食事をし、共に遊び、共に、少し悪どいことで父親を懲らしめたりもした。

 彼女が私に抱く想いが、友情から愛情へ、そして依存へ変貌を遂げるのはそう時間がかからなかった。

 少女は幸せだったろう、恋人を手に入れたのだから。辛い時は私に縋っていれば良かった。――家庭がいよいよ崩壊寸前を迎えるまでは。

 ここで種明かしをしておくが、その子の父親を誑かしたのは私だし、母親に男を消しかけたのも私だ。

 つまり家庭を崩壊させたのは私だし、少女の怨敵は私であると言える。

 だが彼女は私に、愛を超えて依存していた。

 だから私は全てを明かした。

 短い、数秒にも満たない言葉を聞いて、少女は全てを察し、そして、元々追い詰められていた精神は深い深い絶望に落ちて――その時、彼女を支配する感情は最高の美食と言っても良かった。

 少なくとも、過去に食した感情の中で、五本の指に入ることは間違いない。

「……また食べたいな」

 私はポツリとつぶやいた。


◆◆◆


 他人の不幸は蜜の味。

 最初にそう言ったのは誰だったか思い出せない。

 だがきっと、彼もまた自分と同じ感情食者であったと思う。

 なぜならその言葉は真実であるから。

 最初は母の不幸であった。

 私には姉がいた。

 姉は同じく感情食者であったが、それ故に、他人の恨みを買った。だからこそだろうが、姉は、男に刺されて死んだ。

 母は泣いた。母が泣いたのはそれが初めてだし、そしてその時が最後だと思う。

 母はそれを悔やんでいた。酷く悔やんでいた。まともな食事も、好んで食していた幸福の感情も、喉を通らないようだった。

 全て上手くいっていた。姉が殺されるまでは。

 全てが狂ってしまったのはその日からだ。

 母は壊れた。

 恐らく耐えられなかったのだろう。あるいは姉の末路に自分自身を重ねたのかもしれない。

 母は私を殺そうとした。首を絞め、どうせあんなことになるなら私がと。

 母はその時不幸だったのだろう。

 姉を失った悲しみ。殺した相手への憎しみ。感情食者としてしか姉を産めなかった自身への恨み。家族をこれからも支え続けなければというプレッシャーからくる不安。しかし娘を殺せば楽になれるかもしれないという期待。安堵。ネジが外れたかのように笑っていた記憶から察するに、どこか大切なネジが外れて楽しんでいたのかもしれない。

 苦々しい憎しみと、甘美なる怒りと、舌を程よく刺激する辛味を生み出す悲しみと、そして、鼻腔をくすぐる恨みの香り。

 私は口いっぱいに涎を溜めていたのを覚えている。

 確か「皆で幸せになろう」という言葉が決め手だったと思う。

「いただきます」

 私は確かにそう言って――この人生で初めて、他人の不幸の味を知った。


 天にも昇るような味というものがあるだろう。

 それだ、まさしく。

 味覚だけではない。嗅覚、視覚、聴覚、触覚――五感全てがその美味を訴える。

 何もかもがそれに支配される。

 「こういう味だ」と一口に言うのは難しく、まさしく筆舌に尽くしがたいとはこのことを言うのだろうが、私はもう随分と、不幸しか食していない。

 人間というのは簡単に不幸になる。それも勝手に。知らぬ間に不幸に落ちる。

 だからそういう人間を探すのは簡単だし、私に依存させて、更なる不幸へ突き落とすこともそう難しいことではない。

 まぁ、稀に、恋愛感情などと言う食えたものではない感情を押し付けてくる、どうしようもないクズもいるが。

 ああ、そう、恋愛感情は甘ったるい匂いがして下水のような味がする。本当に食べられたものではない。

 嫌いなものぶっちぎりのトップだ。


 そんな粗雑な感情を利用しなければ不幸にはたどり着けないのは、一重に私が未熟だからだろうか。いや、不幸がそれほどに美味であるのは、直前に酷い粗食を味わっているからかもしれない。


◆◆◆


 最近の悩みは感情を調理できないことである。

 そもそも感情には実態がないし、私自身どうやって食しているのかあまり考えたことはないのだが。

 どうにかこうにか好みの感情を引き出して、それを丸かじりするという、この流麗な見た目と聡明な頭脳にはあまりに不釣り合いな行為に毎回及ぶ羽目になる。それにいい加減うんざりしてきたところなのだ。

 数ヶ月に一回は、こうしてその憂いに身も心も沈めるわけだが。

 人はその姿を美しいと言ってくれる。憂いに耽る姿が様になっていると。哀愁が実に似合うと人は言う。

 私はただ餌を蒔いているだけなのに。

 不幸を目前に控えた人間はそういう餌にかかりやすい。

「あの……どうしたんですか? こんなところで」

 ほら、かかった。

 行きつけの喫茶店、その窓際にいつも腰掛けている私のことを、いつも愛おしそうに見つめてくる少女。

 儚げで、それでいて力強くて、――実に不幸が似合いそうな女の子。

 齢は十六か七だろうか? 初々しく、瑞々しく、どこか初心な雰囲気を感じる。

 青いワンピースの上に、白いワイシャツを羽織っている。スカート部分の丈は足首まであった。一目見て――私の経験も相まって――彼女が男性経験のない人間だと言うことが分かる。……そしてその怯えたような、どこか期待するような、揺れる瞳を見ていると、人間関係になんらかの恐怖を抱いていることが分かる。

 私は強い空腹に襲われた。

「いつも、この席に……」

 腹が鳴りそうだ。なんとか唾を飲み込んで、私はまず関係を築く第一歩として歩み寄る。

「鵜羽野」

「え?」

鵜羽野蒼空(うわのそら)だよ。私の名前」

 例えそれが偽名であっても人はそれを事実と思いたがるし、それを真実だと偽ってやれば諸手を挙げて喜んでくれる。

 落としがいがあるのはそういう人間だ。

「君の名前は? まぁ座ったらどうかな」

 とりあえず、という感じに、私は前の席に着くよう少女に勧める。

 恐る恐る座った少女に向けて、私はふわりと、どこか憂鬱を残す笑みを向ける――無論そんなものは演技だし、今心配なのは彼女の不幸がひどい味だったらどうしようと言うようなことだが。

 改めて見定める。

 短めの髪。少しだけ色が抜けて茶が混じっている。

 伏し目がちながらにその瞳が如何に美しいかは存分に伝わる。長い睫毛がその瞳を心なしか大きく見せているような気もする。

 少し薄い唇。柔らかな目つき。もしかすると欲情を誘っているのではないかと思えるような仕草が、その少女にはどこかあった。

 見たところ胸は大きくない。だがスタイルは良いのだろう。脚を見てみたいような気もしたが、座ってしまった今それは叶わないし、おそらく彼女もあまり見られたくはないのだろう。

 彼女の服装に感じられるものは挑発ではなく隠匿であった。

「えっと……」

「何か頼む?」

「え、あ、はい」

 机の下で組まれていた指がゆっくりと姿を表して、貴重品を扱うかのようにメニューを取る。

 少女の肌は白かった。

 あまり外に出ない性格なのか、それとも手入れを欠かさない性格なのか。それは今知るところではないが、この数分の視察のみの評価で言えば、彼女に陰ながら耐え難い劣情を抱いている男がそう少なくないことは、想像するに易かった。

 察するに男性関係で何かあったのだろうが。

「決まった?」

「は、はい」

「そっか」

 一旦視察を引き上げて店員を呼ぶ。

 私はコーヒーを頼む。

 少女はラテと軽食を頼んだ。

 飲食の作法で人の成りはわかる。育ちの良さ云々ではなく、人を前にしてどういう風に食事をするか――問題なのはそこだ。

 緊張にも感情が伴う。味のほとんどは焦燥が占めているが。

 少女の前に置かれた皿に、先程よりも重い吐息が漏れる。


 ここだ。


「いただきます」

 聞こえぬ声で呟いて、私はこぼれ落ちた焦燥を吸い込む。

 感情は呼吸に宿る。元々は内側にあるものだ、もっと効率のいい食事法は他にあるのだが。

 霧散した呼気は吸うしかない。なんとも無様だ。傍から見れば大きく息を吸ったようにしか見えないのだから。しかも幾分にも味が薄れているし実に効率が悪い。

 まぁ、その深呼吸を誤魔化すためにこうして、コーヒーの香りを嗅ぐフリをするのだが。

 優雅に見せかけることは何よりも、他人の不幸を手にするには不可欠だった。

「……美味しそうに食べるね」

「えっ」

 この少女、まともに話していない気がする。まぁ好みの娘だし、なんの問題もないのだが。

 ――作法自体には洗練されたものを感じる。だが口にした時無表情かと聞かれると、それは否だ。

 どうやら好みの差が激しいらしい。口にした瞬間の表情の変化は実に多彩――例えるならば四季のごとく。

 私はじっと少女を観察することにした――っと、その前に。

「君の名前は? まだ答えてもらってなかった」

「あ……その」

「構わないよ、ゆっくりで」

「……葉桜です。」

「はざくら?」

「はい。葉桜立夏。それが名前です」

「そう……」

 では改めて。

 そう言う代わりに――実際言うわけもないので――私はまたコーヒーカップに指をかけた。

 葉桜 立夏は食事を再開した。

 器用に食器を使い、少しずつ、少しずつ、食事を進める。その白魚のような指が私の目の前を左右する度、それが寂しそうに我が服の袖を掴む光景を夢想する。

 そこにはどんな感情があるだろう。淋しさがあるにしろ、そこに混ざるものはなんだろう。

 悲しみは最高の調味料である。あらゆる感情を美味に変えてくれる。

 私は他人の悲しみが大好きだ。私にだけ見せてくれる涙が狂おしいほど好きだ。あの芳醇な香りと舌と脳髄を占める絶妙な旨み。不幸を味わう時において、悲しみは重要なスパイスだ。

 葉桜立夏はいったいどこまで堕ちるのだろうか?

「ふぅ……ご馳走様でした」

「葉桜さんは行儀のいい人だね」

「そうですか?」

「そうとも」食するに値するとも。「今まで見た人の中で五本の指に入る」

「五本の指、ですか」葉桜立夏は柔らかく微笑む。「勿体無い気がしますよ」そして皿の上にフォークを置いた。

 私の目は指に止まった。

 葉桜立夏は恥ずかしそうに手を引いた。

「……それで。今日はどうしたのかな、葉桜さん」

「どうって、言うほどではないんですけど」

 ラテを口にして、葉桜立夏はふと、つぶやくような声で言った。

「それに、今知り合ったばかりの人に、話せることじゃありません」

 申し訳なさそうに俯くその少女の感情を貪りたいのを堪えながら、私は落ち着きを演出して、言う。

「本当にそうかな。私はそうは思わないよ」

 葉桜立夏は困惑したように顔を上げ、これまた「え」とつぶやいた。

「かれこれ三週間は前だったかな。その日から、君は私のことを見ていた。丁度この窓の外から。違うかな?」

 視線を窓の方に向け、私は、葉桜立夏を初めて見かけた日のことを思い返していた。

「私も見てた。言葉はない、触れられもしない、壁もあって、何も伝わらない不思議な時間だった。でも――」

 何を期待していたのだろうか。その瞳は徐々に含む感情を変えていった。私に抱く感情は、何に始まって、そして何に変わったのだろう。

「そろそろ、進展があってもいいかなって思ってた。私も少し、葉桜さんと話をしてみたいところだったから」

「……だけど、やっぱり、今初めて話しかけたことに、変わりはないじゃないですか」

 知りたい。なんとしても。その感情を、味わってみたい。

「親友とは、数多の喧騒よりも多くの沈黙を、共に過ごした相手の事を言う」

「なんですか、それ」

 食いついた。

「私の持論だよ」これを逃す手はない。「そういう点では、私達はすでに、結構いい仲だと思うんだけど」

 葉桜立夏は考え込むようにその端整な――と言ってもまぁ、私より幾分か劣る――顔立ちを悩みに歪ませて、それから、唸る。

「たったの三週間です」

 私は答える。

「されど三週間だよ」

 あと一押し? 否、名手はここで手を引くのだ。

 沈黙を使うに越したことはない。今さっき、それがいかに価値があるか吹聴したばかりなのだから。

 さぁ、どう出るか? きっかけ作りとばかりに、私は微笑んでみせた。

 一瞬の後、そのまま表情を殺し外の景色を見入る。

 深いため息の音がした。

 それから、つぶやきにしてはしっかりと、噛み締めるようにして、その口から言葉が零れた。

「…………消えてしまいたいと思って」

 それに果たして、私に聞かせるような意図があったかは定かではない。それほど小さく、存外に予想打にせず、また確かに私の隙を突いた言葉だったからだ。

 しかし、私はすかさず、その言葉を拾い上げた。

「じゃあ、消えてみるかい?」

「え?」

「どうしたの。驚いた顔」

「じょ、冗談ですよ」

「果たして、本当に、そうかな」

 目だけで少女を捉えてみると、その表情はどうやら驚愕しているように見える。――が実のところ、困惑しているのだろう。

「私はさ。……色んな人を見てきた。それこそ本当に、たくさんの人を」

「はぁ」

「君みたいな人にも会ったことがある」

 その言葉は、おそらく、好意とは真逆にあるものだ。

「そういう人達はね。自分が思っているよりずっと、ずっと意志が強い。でも自分では、意志が弱いと思い込んでる」

「そう、ですかね」

「さぁ、葉桜さんがそうとは言わないよ」けど、と私は続ける。「答えが出ているのに、誰にも話せないし、実行できるほどの勇気もなくて……だから抱え込んでしまう」その目で少女を捉えながら。「違うかな」

 葉桜立夏はすっかり言葉を失っていた。

「違わないかも」

 しめた。私は横目で捉えるのをやめる。

「三週間が無駄にならなくて良かった」美人でなければ許されない言葉だと思う。「私なら、叶えられると思うけど」

 如何にも真剣な眼差しを向ける私に、彼女はふと口元を綻ばせた。

「本当に、変わった人ですね」

「人の役に立ちたいだけ」

 冗談など抜きにして、言う。

「君の役に立ちたい。どんなことでもいい。君の知りたいこと、私が全部、教えてあげてもいい」

 それは本気の言葉であった。

 掛け値無しの答えであった。

 微笑みを浮かべずに、私は葉桜立夏の瞳を自らの視線で射抜く。

「君は今、消えてしまって何を知りたい?」

 葉桜立夏はゆっくりと口を開いた。

「何も知りたくない」

 それから、毒を吐き出すように、続ける。

「私はどうして知ってしまったんでしょう? 何も知らないままでよかった、どうせなら、ずっと夢を見ていたかったのに」

 空になった皿を見つめて、そこに向かって、葉桜立夏は強く言った。

「愛した人が狂っていました」

 その呼吸からは深い悲しみの香りと、煮え滾るような憎しみがあった。

「愛されたいと思っていました。確かに愛し合っていた。でもあの人は……」

 皿の上の小さなカゴにあるナイフを一本手にとって、葉桜立夏は酷く怯えた目で言った。

「殺意を向けられたのはあれが初めてでした」

 人目を気にしたのか、それを言ったきり、彼女はしばらく沈黙を守った。

「私が、貴女に話しかけた理由は」

 それから、意を決したように、言う。

「……貴女なら。私を、どこか、誰も知らない場所に連れて行ってくれると思ったんです」

 その目は、明確な答えを求めていた。

「できますか?」

 だから私は、確信を持って答えた。

「もちろん。見たことのない世界に連れていってあげる」


◆◆◆◆


 彼女が求めているのは師だ。

 彼女は自らを導いてくれる相手を求めている。

 知りたいことが多すぎて、でも自分一人で知るにはあまりにも臆病で、だから「知り方」を教えてくれる存在が必要で。

 だからこそ師に恋をする。

 それが叶わないと知りながら、届かないものに手を伸ばす。

 そういう自分が好きだから。ゆえに自分が今どこに立っているのかさえ見失う。

 彼女はすでにまな板の上だ。

 私はただ、テーブルにクロスを敷き、食器を並べ、ナプキンを手に、料理が出されるのを待っているだけでいい。

 彼女の調理は彼女の手が済ます。

 暮れ行く水平線を脇に、私はただひたすらに車を走らせた。

「……少し、止まっていい?」

 もう三時間は車の中だ。

「はい、長い間すいません」

「いいんだ。……ただ、確認したいことが」

「はい」

「家に帰るつもりはある?」

「……我侭を言ってもいいですか」

 どうやら結論より先に、そのあとを言うくせがあるらしい。

「今夜は帰りたくありません」

 砂浜を歩きながらそういう彼女に、私は思わず綻んだ口元を手で隠す。

 唾液が垂れそうだったのでついでに飲み込んでおく。

「帰ったって……誰も……誰も、私に何があったのか知らない。だからいやです。私以外の人達が、同じ日々を平然と過ごしていることを認めたくなくて」

「……私だって何も知らない」

「でも、鵜羽野さんは私を受け入れてくれました」

 思ったより深みにハマっているな。

「どんな辛い思いをしたか、なんて知らないよ? ただ、私は――」さて、どう言おうか?「――君のことが気になってたから」

 葉桜立夏は私の言葉など聞こえなかったかのように言う。

「教えてください」

「何を?」

「恋を忘れる方法を」

「――終わらせる方法ではなく?」

 葉桜立夏は首を横に振る。

「忘れる方法を。もう終わりましたから」

 今まで夕暮れを見つめていた少女は、それが半分以上沈んでしまったあとに、私の方を振り返った。

「出来ますか?」

 眸に宿る感情は夕闇に消えた。

 私は表情の読めない少女へと歩み寄る。

「できるとも」

 その手を取って、細い躰を奪うように引き寄せる。

 そして私は、自分の指を、葉桜立夏の顎に掛けた。

「新しい恋をすればいい」

 彼女の手で届かないと言うのなら、自分の手で捕まえるだけ。

 彼女の想いが叶わないというのなら、私の想いを叶えればいい。

 その感情の果てがたとえ、恐ろしいほどにかけ離れていたとしても――今ここにある過程は同じなのだから。

 私は少女の唇を奪った。

 瞬間。

「んっ…………」

 そこで感情が弾けた。

「好きだ」美味い。「好きだよ」なんという深み。「大好きだ」複雑にして――「大好きなんだ」――精巧な、芸術品のような、「愛してる……」十二分に完成された、それでいて不完全な。「……嗚呼」

 前菜の取り合わせにしては充分すぎる感情だった。

 私は一旦抱き締めていた少女を離し、彼女の目を暗がりで見えないなりに覗きこんだ。

 熱っぽい息が聞こえた。

 だから私は呟く。

「今夜君に、知らない世界を教えてあげる」

 そう言って、私はもう一度、少女を強く抱きしめた。


◆◆◆◆


 感情に味を憶えるという感性は共感覚によるものらしい。

 医師の友達がそう言っていた。

 普通の人間は感情に味を感じたりはせず、また空腹を満たせたりはしない。味を感じるのは舌という器官であって、あとは嗅覚がそれの補助をするだけだ。

 私のように皮膚で味を感じたりしないし、少なくとも、感情を食すること自体ができないと言う。

 だから私と他人は絶対に対等になれない。私にとって感情とはただの食物であって、他人と共有するものでは決してないからだ。

 愛情一つ取ってもそれを共有できた試しがない。

 相手は私を人として愛し、私は相手を食事として愛しているから。

 そこには必ず齟齬が生じる。

 だが不思議なことに、その齟齬さえ気にならないほど誰かを必要とする時が、人間にはある。

 それが不幸に見舞われた時だ。

 ……もしかすると、私は、だから他人の不幸が好きなのかもしれない。

 まぁ。単純に、その味が好きだと言うだけかもしれないが。

 さぁ、食事の時間だ。


「ベッドで横になって」

 夢見心地な少女の耳元で囁く。

 適当な場所で食事を済ませても良かったが、今日は深く味わいたい気分なのだ。それに私自身の欲情も溜まっていた。

 どうやら葉桜立夏という少女の毒に私も当てられたらしい。

 今居るのは私自身の住居だ。

 仰向けになった少女の上に覆い被さると、薄暗い明かりがその潤んだ瞳を輝かせているのが分かった。

 シャワーを浴びていない所為か、僅かな恐怖と焦燥と、大きな緊張の香りに混じって、鼻を衝く汗の臭いがした。

 葉桜立夏は戸惑うような視線を投げる。

 私は数回軽い口付けを交わして、それからゆっくりと首筋を舐めた。

 左手はその控えめな胸の上に置く。

「怖い?」

 私は彼女に問いかけた。

「いえ……ただ、その……」

「なに」

「名前で呼んでもいいですか」

「お願いするよ、立夏」

 右手を握り、私の左手の上には、彼女の左手が重なった。

 そこに愛情はなかった。

 あるのはただひたすらな哀しみと、緊張と焦燥で、彼女は私を愛してはいなかった。

 それでいいのだ。

 それで。

 こんなものはただの作業でいい。

 私は彼女が羽織っていたシャツを脱がす。

 その弱々しい肩が顕になる。

 私は何を、興奮しているのだろうか。

 少女に対する愛情などない。あるのはただ空腹を満たしたいという思いだけ。

 足りない。

 そう、足りない。

 哀しみにせめて憎しみがなければ。焦燥にはせめて恐怖がなければ。

 まだ完成していない。

 まだ調理できる。

 まだ手を加えられる。

 まだ、食すには早い。

「教えてあげる……何が知りたい? 愉しいこと? 悦ばしいこと? それともいやらしいこと? 君の中のことだって、私の中のことだって――全部、私が見せてあげるよ」

 私の指が少女の体をまさぐった。



 舌と指。それから髪。

 愛撫に愛撫を重ねて。

 それを何分も、何十分も、何時間だって続けた。

 もはや少女にとって、私の指の感触を知らぬ皮膚は無かったし、私の唾液が塗られていない箇所もなかった。

 いったいどれだけその少女のことを、弱火で炙るように、焦らし続けただろうか。

 その腋に舌を這わせるだけで、少女は甘い声を上げるようになった。

 両の手をしっかりと握ったままに、私はすっかり情欲の炎に全身を包まれた立夏を見つめる。

 彼女の二の腕を舌が這う。

 垂れた髪がくすぐったかったのか、葉桜立夏は呻くような唸るような声を上げ、右手を強く握り締めた。

「男とやった時はこんなに長くなかった?」

「……………………っ」

「答えて」

 その綺麗な白い二の腕に、歯を立てて甘噛みする。

「……答えて?」

「――こ、んなに、長く、は……っ」

「いい子だ」

 少し歯型の付いた箇所を舐める。

 私は問いを続けた。

「こういう時、殺されそうになって……怖かった?」

「……そんな…………」

 腕への愛撫は、徐々に首へと向かっていく。

 乳房をくすぐるように動く毛髪に立夏は喘ぐ。

「答えて」

 私は一切の感情を殺して、答えを求めた。

「…………言えません」

 その肩に牙を立てる。

「……答えて?」

「い……いや、です……」

 甘噛みする。

「答えて」

 立夏がらしくもなく首を振るのが見えた。

「答えるまでやめない」

 そう言うのを最後に、私は、一旦離していた肩に、もう一度、噛み付いた。

 今度は傷付けるために。

 力を込めて。悪意を込めて。――殺意を込めて。

 僅かな音を立たて、牙にも似た歯が肩に食い込む。

「やめて! やめてよ! 怖い……」

 少女は耐えきれずに叫んだ。

 手を握る力は緩めぬままに。

 小さく体を震わせながら、叫んだ。

「やめて……」

 私は右手だけを離して、立夏の頭を撫でる。

 愛しているかのように。慈しむかのように。

 優しくだ。

「ごめんね。……いい子」

 肩からはまるで花弁のように血が滲む。

 滲んだそれは雫となって散っていく。

 散りゆく花弁の一つ一つを、私は丁寧に舐め取った。

 口に含み、存分に吟味する。

 すると、苦しげな呼吸とは裏腹に、悩まし気な艷っぽい喘ぎが漏れた。

 私はその一つ一つを、丁寧に、じっくりと、ねっとりと、何度も何度もいやらしく音を立てて舐めあげる。

 その音はどうやら興奮を助長したようだった。

 未だ収まらない震えのためか、葉桜立夏が私の体を抱きしめた。

「愛した人に傷付けられる気分はどう? 好きだった人に捨てられる気持ちは? こうやって傷付きながら愛し合う感想はある?」

「やめ……」

「忘れるなんて許さない。乗り越えようだなんて悪いこだ……」

「やめて……!」

「もう一度教えてあげる。ううん、何度だって教えてあげる。その体に、心に……君の不幸を刻み込んであげよう」

「いや! 忘れさせて! もう終わらせて……もう終わらせて!」

「終わらせるものか。泣いて懇願したってやめないよ」

 立夏の目には何が写っているだろう?

 襲われた日のこと? 刺されそうになった瞬間? 貫かれた時のこと? それとも罵倒された時の、声と音が、今ここに回想されているのかもしれない。

 いずれにしたって、今、彼女は尋常ではないことが、手にとって伝わる。

 今まで優しさに満ちていた指が皮膚を強く掻く。

 責め立てるのは舌ではなく傷付けるための歯だ。

 彼女ははっきりと後悔していた。

 恐怖していた。

 憎しみを私に向けていた。

「いい……良いよその表情。その感情……」

 私に反撃したいというのなら、どうぞいつでもすればいい。

 もっとも、その発情しきって力の抜けた体で、何が出来ると言うのだろうか。

「最高だ……」

 今のこの子ならば感情を食すに値する。

「愛しているよ、立夏。…………今の君を、ね」

 感情の全ては呼吸に宿る。

 私はその唇を貪った。


◆◆◆◆


 食われた感情は軒並み消えてなくなる。

 私の腹の中で消化されるのだから当然だ。

 どんなものだって無限ではない。

 不幸を構成している感情の一つ一つは徐々に希薄になり、立夏の心に残っているのは今や僅かばかりの後悔となった。

 あとは焦らされていることに対する期待か。

 味わうべきものがなくなってしまった今、私はずっと吸い付いていた唇から離れた。

 それから適当に葉桜立夏の欲求を満たしてやる。

 するとそれは抜け殻のように力を抜いてベッドにその体躯を預けた。

 感情がほとんど湧いていない。

 私自身はと言うと、不幸を吸い尽くして概ね満腹にして満足だ。

 少女が喘ぎを上げて泣き喚く瞬間というのは何度見ても良い。精神的に充たされるものがある。

 虚ろな目で虚空を見つめるその少女の頭を撫でてやると、ほんのりと悦びの味がした。

「……酷い人です」

 少し嗄れた声で、言う。

「良く言われるよ」

「…………なんか、何もかもどうでもいいです」

「それは良かった」そのまま私のことも忘れてくれると有難い。

 ま、いつものことながら、そうは行かないんだが。

 不幸が消えると――どうやらそれは私が解決させたものと勘違いするらしく――大抵の相手は私に憧れないし恋心を抱く。厄介なこと極まりないが、その子を餌に更なる不幸が釣れることもあるので御愛嬌ということにしておこう。

「心が軽いです」

「食べたからね」

「同性愛者だったんですね」

「違うよ。今回抱いたのが君だっただけ」

「…………何人抱いたことが?」

「さぁね。数えるのも飽きたよ」

「私は……――」

 横たわったまま、少女は実に疎ましそうに私を見た。

「貴女の一番になれなくて良かった」

「そう言われたのは初めてだな」

 そこには――そこには強い嫉妬が募る。

「貴女なんか大嫌いです」

 私は彼女を抱き上げて、もう一度熱烈なキスをした。

「素直じゃない子はタイプだな」

 もう一度、その嫉妬だけを味わって、私は単純な思いを述べた。

「また味わわせておくれ。君の感情は実に美味だったから」

 すると呆れたように、葉桜立夏は呟いた。

「愛した人が狂っていました」

 そして私は、それに深く頷いた。


「違いない。狂っていない人がいるなら、是非とも見てみたいものだな」


 これが私の、一日の食事だ。

全 年 齢 対 象 です

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