彼の言葉
管理人さん夫妻がその家の扉を閉めたあと、私たちは寮であるこの団地の敷地の端まで母娘を送ってゆく。それから手を振ろうとして、まだパン屋さんの名前すら聞いてないことに気づいた。
女の子の前にしゃがみこみ。もう一度お礼を言うと、恥ずかしそうにうつむいている。
「ね。お名前、なんて言うの?」
彼女はコートの前ボタンを外し、かわいらしい丸襟のシャツの胸元についた名札を見せてくれた。
「わやま、えり、です。もうすぐ三年生になるの!」
「わやま……えりちゃんね。ありがとうね。お姉さん本当に助かったわ」
パン屋さん母娘が見えなくなるまで手を振って、私達はようやく部屋へと戻った。
「咲季、体調は大丈夫か? やっぱ挨拶は俺一人で行けばよかったかな……こんなに時間かかっちゃうなんて」
「うん……大丈夫」
そんな優しい幸一さんの腕にしがみつきながら、大丈夫大丈夫と繰り返す私は、多分まだぼんやりとしていたんだと思う。その時は気づかなかったから。
おまけで増量していたパンをオーブントースターで温めなおしてはほくほくと食べまくり、その夜は、ほんわりとした温もりの中に、終わろうとした。
彼の、その言葉を、聞くまでは。
「咲季。具合どう?」
開きかけていた食道が、咽が、急にしぼむ。
「うん……もう、いいみたいだけど」
返事とはうらはら、ちょっとだけブルーな気持ちがぶり返す。
「そっか。無理するなよ。引越しの片付けも当面必要な分は荷解き終わってるし、根つめてやらなくてもいいんだからな」
「ありがと」
彼の優しさを感じる。気配りの人だからね。
でも心の中ではどこかその話題から遠ざかっておきたいなって、なんだかわからないけれどそういう気持ちが確かにあった。
美味しいパンのことだけ考えて彼が居て、それだけで今日という日はもう終わりにしたかったの。
ただ彼のほうは私に伝えたかったみたい。
「お医者さんもね特に異常はないみたいだけど、雪道で滑ったのは何か抱えていたのかもって」
「……何か、って?」
パンのこと……じゃないわよね。なーんて言っていられるうちは私きっとだいじょうぶ。
そう、だいじょうぶ。
「んー。環境が変わったことに対するストレスとか、あとは、シックハウス症候群とかの可能性もあるって。ほら、ここリフォームしたてって言ってたじゃん」
「あー。なるほどー」
彼は隠し事をしない人。っていうか何でも報告するタイプなのね。むしろ子供みたい。
だからこそあのプロポーズはとっても驚いたんだけど。一世一代の隠し事って言ってたっけ。
「だから、無理しないでくれよ」
私が聞いていなかったこと、だからだと思うんだ。こうやってお医者さんのしてくれた話を聞かせてくれるの。
ああきっと……私が癌になったとしてもすぐに告知してくれちゃいそう。
そうそう。むかし言ってたもんね。同じ後悔するなら何もしないよりも言ったりやったりしたほうがいいって。
私はお母さんが心配性だったから、やる前から諦めてしまうとこが少なくなかった。だから諦める前にやってみる彼が少し羨ましい。
私もなりたいな。彼みたいに……一緒に居ることで似てゆけたらいいな。




