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第8話 『泥濘』

「……よし、忘れ物はないな。完璧だ」


基地の正門前、キクラが大きなリュックを背負い直した。

一週間という月日は、第四前線基地に確かな変化をもたらしていた。

あの大襲撃で壊滅的な被害を受けた基地だったが、今ではあちこちでトンカチを叩く小気味よい音が響き、急ピッチで復興が進んでいる。

崩れた外壁は新しい石材で補強され、炊き出しの煙からは美味しそうな香りが漂っていた。

行き交う兵士たちの表情からも悲壮感は消え、活気が戻りつつある。


キノに向ける視線も、以前のような刺々しいものではなくなっていた。

「頑張れよ」「気をつけてな」 そんな言葉こそかけられないものの、通り過ぎる兵士たちが時折見せる、小さく頷くような仕草。

それが彼らなりの、基地を救った少年への精一杯の感謝の印だった。


「準備はいいか?これから険しい道を歩くことになるぞ。」


キクラが、腰に付いた二本の短剣を確認しながら問いかける。


「…はい。覚悟しています。」


一週間の休息から傷もほとんど癒えたキノは、真っ直ぐ前を見据えながら答えた。


「よし…じゃあ、行くか。」


キクラの号令と共に、二人は歩き出す。

背後で重低音と共に閉まる扉。それは、第四前線基地との一時の別れを意味していた。




「…キクラさん。これ、本当に道なんですか?」


二人が出発して数時間、キノは前を歩くキクラに向けて問う。

目の前に広がっているのは、道らしい道など一つもない木々の生い茂った原生林だ。


「道…だとは言い難いが、ここを通るのが一番近いんだ。」


「だとしても歩きにく過ぎますよ。このツルなんて引っ掛かったら大変な事に……って、うわぁぁぁぁ!!」


「なっ…!キノ!?」


キクラが声を上げた瞬間、キノの体は視界から消えていた。

ツルに足を掴まれたキノは、勢いよく斜面を滑り落ちた。


「うわあぁぁぁぁぁ!!!」


キノの悲鳴が、激しい衝撃音にかき消される。

止まろうにも、苔がむした斜面は氷のように滑り、キノの体は制御不能な速度で斜面を転がっていく。


――ゴンッ!


「がっ……!?」


背中に、剥き出しの太い幹が激突した。

肺から空気が強制的に押し出される。だが、止まらない。

体勢を立て直す暇もなく、今度は肩が、次は脇腹が、原生林の荒々しい木々に次々と叩きつけられる。


「木だ!木を掴め!キノ!!」


上の方でキクラが叫ぶ声が聞こえるが、視界は激しく回転し、天地の区別すらつかない。


ーーガツッ!


数十メートルを転げ落ち、最後は大きな木に後頭部をぶつけてようやく止まった。

激しい衝撃に、キノの意識は混濁する。


「キノ!大丈夫か……っ、あ、あぁぁぁぁぁ!!」


あろうことか、キノを助けようと身を乗り出したキクラまでもが足を滑らせ、派手な悲鳴を上げながらこちらへ転がり落ちてきた。


「え…?」


キノが意識を飛ばしかけていたその時、キクラが真横を凄まじい速度で通り過ぎていった。

そのままキクラは盛り土の中に突っ込んでいった。


「キクラ…さん…?」


「……ゲホッ、ごふっ……!!」


盛り土の中から、泥まみれのキクラが這い出してきた。

頭には枯れ葉を乗せ、顔の右半分にはベッタリと濡れた土がついている。


「…ったく。何なんだ、この斜面は……」


キクラは恨めしそうに上方を見上げながら、口の中に入った土をぺっと吐き出した。


「…本当、ビックリしましたよ。助けに来てくれるのかと思ったら、自分まで落ちてくるなんて…」


意識がしっかりしてきたキノは、冷ややかな目でキクラを見つめる。


「うるさい。あの……あれだ。お前を一刻も早く助けたかったから、俺も転がったんだ。」


「いや、助けられてないですし…僕の横を通り過ぎて行きましたよ。」


「っ……そっ…それはあれだ。お前の無事を確認して、その先の安全を確保するために敢えて奥まで行ったんだ。先行調査だよ、先行調査。」


キクラは顔についた泥を乱暴に拭いながら、最もらしい理屈を並べた。

だが、その視線は泳いでいる。


「……そうですか。盛り土の中に、何か敵でもいたんですか?」


キノのジト目に耐えきれなくなったのか、キクラは「あー、もう!」と頭を掻いた。


「分かった、悪かったよ! 足を滑らせたんだ、文句あるか! ほら、立てるならさっさと行くぞ。」


そう言いながら、キクラは服についた汚れも払う。


「分かりました。でも、またここを通るんですか…?」


キノは手をつきながらゆっくりと体を起こす。

全身に打撲の痛みがあるが、幸いどこも折れていなさそうだ。


「進むと決めた道を諦めんのは、男として負けだろ?」


当然だと言わんばかりに胸を張るが、キクラの顔からは喋る度に、乾きかけた泥がポロポロと落ちている。


「僕なら絶対に、一番効率的な道を選びますけどね。」


キノは半ば呆れたような目で、キクラに反論する。


「あー!いいから行くぞ!!」


キクラは照れ隠しに声を荒らげると、キノを急かすようにして再び歩き出した。


その後は、効率的とは程遠い、泥臭い道中となった。


「キクラさん…これ本当に近道なんですか?」


「ああ、多分な!」


「多分って……うわ、またツルだ!」


「止まるな!進むんだよ!」


再び足を滑らせて泥だらけになり、川を渡ろうとして川に流され、挙げ句の果てには強風で倒れてきた木の下敷きになりかけた。

それでも、死に物狂いで原生林の急斜面を突破し、遂に二人の視界が開けた。


「……着いたぞ。」


キクラが肩で息をしながら、前方を指差した。


過酷な道を乗り越えた先、眼下に雲が見えるほどの高嶺。

そこには、巨大な石造りの城砦が堂々と聳え立っていた。

冷たく吹き付ける風が、二人の泥だらけの顔を容赦なく叩く。

キノは槍を杖代わりに、目の前に現れた目的地を見上げて息を呑む。


「これが……第一前線基地…」


「あぁ。歓迎ムードじゃなさそうだけどな。」


キクラはその基地が放つ、異様な雰囲気を感じ取っていた。

城壁の上から、無数の剣と弓矢が、泥まみれの二人を冷徹に見下ろしていた。


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