夏の日
その夏、彼女は、初めてそれを失った。
終業式、いつもより随分早い半日で放課となった帰り道。本来ならば、明日からの夏休みのことを考え、上機嫌の帰宅となるはずだった。
しかし、彼女は今、とても腹が立っていた。なぜ私がこんなことを、と思いながら、石造りの階段を初夏の湿った空気に包まれ、息を切らして登っていく。
それは、通学路の途中にある神社に続く、かるく千段はあろうかというような長い階段
で、両脇に広がる木々のホールに、蝉の大合唱が鳴り響く。いつもなら気にならない、むしろこれがなくては夏じゃない、なんて思っていたはずのその鳴き声が、彼女の苛立ちを助長する。
彼女は嫌なことがあったとき、この階段をのぼる。なぜならその長い階段を必死に上っていると、自分の悩みなどとるに足らない小さなことだ、と思えてくる。そして、登り切ったときに見下す町の景色はそれまでのぎすぎすした気分をいくらか晴れやかなものに変えてくれるからだ。
しかし、その日は違っていた。肌にまとわりつくような粘着質の熱気、絶え間なく鳴り響く蝉の声、汗で張り付く髪の毛、その他自分を取り巻くすべてが、彼女の喪失感を、苛立ちに変えていた。
「あっちの方が出会ったのがちょっと早かっただけじゃん」今朝の出来事を思い出しながら、彼女はつぶやいた。
高校に入学して最初の終業式の日の朝、私はいつもと変わらず八時少し前に教室に入った。
「おはよう」席に着くと、隣の席から挨拶がやってくる。
「あ、うん、おはよう」
彼の名前は牧野修、一人県外の学校を受験した私は、入学当初一人でいることが多く、そんな私に隣の席の彼はよく話しかけてくれて、彼の知り合いから友達もできて、随分救われた。そんなこともあって、私は彼に自然と惹かれていった。少し遅い初恋というやつだ。
明日からの長期休暇で彼に会えないのかと思うと少し憂鬱ではあるが、私には計画があった。
この町の学校は七月二十五日に一斉に夏休みに入る。その日の夜に夏祭りが開かる。商店街では夜店が並び、近所の小学校では有名人を呼んで催し物があり、最後に花火があがる。
この話をお世話になっている祖父母の家にくる在宅ヘルパーのおばさんに聞いて、これだ、と思った。このお祭りに彼を誘おうと。そして花火を見ながら…告白。われながら安直な思考パターンではあるが、これしかない、と思えた。実際、このお祭りでカップルになって、その夏一緒に過ごしたなんて話はよくあるようだった。
「あ、今日のお祭りなんだけど…」さっそくきりだしてみる。
「ん、ああ、橘は誰と行くんだ?」
「え…」
「俺は里香と。ほんとはあんまり人ごみ好きじゃないんだけど、家から花火だけ見りゃいいじゃん、て言ってもあいつ絶対STROKE7のライブ見に行くんだって聞かなくて、嫌ンなるよ」
「あ、そうなんだ、…大変だね」
STROKE7は最近里香がはまっている五人組ロックバンドのことだ里香というのは、私の数少ない友達で、もちろん修に紹介してもらった。二人は幼馴染だというし、同じ美術部だからよく一緒にいてもあまり気にしていなかったのだが。
「二人は付き合ってるの?」
「うん、中学の時から、言ってなかったっけ?」
「うん、聞いてなかったかな…」
そんなのってないや、と思った。それなら紹介するとき恋人だ、といえばいいじゃないか。幼馴染だなんて、確かに当時はまだ会ったばかりだったし、恥ずかしかったのかもしれないけど、こんなのってあんまりだった。それからあと、何を話したかあまり覚えてなかった。
やっとのことで階段を上りきった彼女は、振り向いて今上ってきた石段を見下ろす。徐々に視線を上げると、町の景色が一望できた。ちょうど十二時を知らせるチャイムが鳴った。
「好きだったのにな」お気に入りの景色を眺めて、いくらか落着きを取り戻した彼女は、夏の空に低く昇る入道雲につぶやいた。
「ただいまー」
「おかえり、昼食、遅かったからもう食べちゃったわよ、食べるんなら机の上にあるけど」と、おばあちゃんの声が居間から聞こえてきた。あのあとぼおっと町を眺めていたら予想外に時間が経過していた。
「わかったー、おじいちゃんとこで食べるー」
おじいちゃんは、最近までSF作家として小説を執筆していた。なんでも、若いころ読んだ近未来の話に、懐かしさを覚えて以来、SFの魅力にはまり、自分でも書くようになったんだとか。けど、去年ごろから急に体調を崩し、すべて仕事をしあげたあと寝たきりの生活をしている。しかし、近未来の話に懐かしさを覚えるとは、かなり変わっている。でも私は、そんなおじいちゃんがしてくれる昔の話が好きだ。
今日も、おじいちゃんの話を聞いて、今朝のことを忘れようと思った。忘れられるはずなどないのだが。
「おじいちゃん、ただいま」
「おかえり、今日は早いな?」
「うん、今日から夏休みにはいったの。だから午前放課」
「そうか、そのわりにはあまりうれしそうじゃないが、なんかあったのか?」
「え…」
こういうとき、おじいちゃんはびっくりするほどするどい、ごまかしてもよかったのだが、素直に今朝の出来事を話す。
「そうか、お前ももうそんな年か。まあ、初恋は実らんというしな、気にせんことだ」
初恋は実らない、今一番聞きたくない言葉だった。
「じいちゃんもそうだった。あれはちょうどお前ぐらいの年のときだったか。わしは総理に呼ばれて、国会議事堂にいった」
おじいちゃんの話にはいつも信じられないようなものが突然出てくる。この間も子供のころに友達の家に遊びに行くつもりだったのに空間転送マシンの座標を打ち間違えて瀬戸内海に放り出されてしまい、近くの島までなんとか泳いで助かった、というような話を聞かされた。本人は夏休みでよかったなんていってわらっていたけど、もしかしておじいちゃんぼけてきちゃたんじゃないかと思って心配だ。昔書いた小説の話とごっちゃになってるのかもと。
「なんでも、その年にわしは、タイムマシンで過去に行き、ばあさんと会って恋におち、そのまま過去にとどまって結婚するのだというてきた」
ああ、やっぱり今回もとんでもないものが出てきた、タイムマシンだなんて、そのうちUFOに乗って土星の輪でタイムトライアルした、とか言い出さなければいいんだけど。おじいちゃんの話はフィクションとしては面白いけど、本人は本気で話してるから少し不安になる。
「そんでまあ、それが日本の技術革命の引き金になっているんだ、と。わしは意味が分からんかった。」
私にも意味がわからない。まったく。
「だいたい、過去に行って、過去人に接触したりするのは時間法で固く禁じられておった。そのことを言うと、お前は我々の目を巧みにかいくぐり、過去で結婚したのだというじゃないか、そんなことを言ったって、もうばれているじゃないか、と言ってやった。するとやつら、これは別の世界線での話で、この世界の話じゃないといってきた。われわれはお前が行動を起こす前に気づき、更にそれが技術革新に貢献していることを突き止めた、われわれが今の技術を開発するにはお前が過去に行ってこの女と結婚する必要があるということをだ、それならお前送り出さない手はないなんてわけのわからんことを言ってくるもんだから、わしはそんなものめちゃくちゃだと抗議した」
すでに私のあたまではついていけなかった。時間法がどうとか、世界線が、なんて言われてもさっぱりだった。
「何と言われようがそんな顔も名前も知らんやつと結婚するつもりはないといってやった、だいたい空間転送マシンも反重力装置もないような世界で生きていけるかと。そしたらやつら、顔なら今写真でみただろと、何なら名前も教えてやる、それから、お前が行く過去はそんな装置どころかコンピュータすら満足に使えないぞ、なんてぬかしやがったから、さらに腹が立った」
私は初恋の話はどこに行ったのか、と思ったが黙って聞いておくことにした。
「まあ、さんざんっぱら文句を言ってやったけど、当時高校生になったばかりだったわしは、結局国家権力に逆らえるはずもなく、翌日には過去に向けて旅立っていた。そして、現代の浦野神社におりたった。すると目の前に写真とそっくりの女の子が突っ立っていた、名前を聞いたら別人だった、その子が言うには、それはおばあちゃんのことだと、あなたは年代を間違えたと、わしはどうも機械の数値入力が苦手らしい、すぐに調べたら目標の年代よりも五十年も未来にやってきてしまっていた。すぐに戻ろうとしたが、その子がもうすぐ花火があがるから一緒に見ていかないか、と言ってきた。いつ出発してもつくのは同じ時間なんだから別に急ぐことはないじゃないかと、わしは確かにそうだなと思って一緒に花火を見ることにしたんだ。わしは花火を見たらすぐに出発するつもりだった、けど花火を見て笑うその子がすごく魅力的に思えた。そしていつの間にか花火なんかよりも彼女の横顔を見つめていた。すると彼女の笑顔が時折憂いをおびた顔になることに気付いた。そのうち彼女は泣き始めてしまった。わしはどうしていいかわからなくて、おろおろしていたら、彼女が泣きやんで笑いかけてきた。初恋だった。すっと抱き寄せ、告白した。しかし彼女は首を横に振って、あなたがここにいたら私は生まれないわと言って、走り去った。わしは仕方なくさらに過去に行って、ばあさんと結婚した。彼女には五十年後また会えると言い聞かせて」
「それって、…ほんとのことなの?」
「当たり前だ、わしの話は全部ほんとだ。嘘だと思うなら、今夜浦野神社に行ってみろ。あれは確か今日だったと思う」
夜、はたして彼女は昼間と同じく石段を上っていた。もう蝉のコンサートは終わり、夏の夜の静けさに、遠くで聞こえる祭りの歓声が聞こえる。
そんなはずはない、という思いの裏で、若き日の祖父に会えるかもしれないというかすかな期待で彼女の足は自然と速くなった。
そして、それが彼女がわくわくしながら上った初めての石段となった。




