第六話
「ただいま」
プラスチックの袋を両手に一つずつ持って玄関に立っていた。
外はもう赤と、オレンジが混ざった色になって、雲は見当たらなかった。
律は先に玄関を通って中に入り、靴を外してから上がって、両手を広げた。
「ちょうだい」
袋を見てそう言う。
「うん、車閉じるから先に片付けてて」
息子の頭には、包帯が巻かれていた。いつ見ても慣れない光景だ。
これまで息子の頭に包帯を巻くほどの問題は起きたことがなかった、もちろん自分も眼帯をつけるほどのことは起きたことがなかったが…
息子に袋を優しく渡して、暗くなりつつある外に出て車を見てから、ポケットに手を差し伸べて鍵を握った。
ポケットから手を出し、車に向かって腕を伸ばし、視点を合わせると、何か黒い影が動いたのを見た。
車の後ろに隠れたまま、もう何も聞こえない、見えない。
「…?」
鍵のボタンを押して、車を閉じて、家の中に入り玄関を閉じた。
「何をしてたの、電話来たよ」
怒っている顔をしていた。
久美子の頭上にちょうど照明があり、彼女の頭を照らし、そして同時に気味の悪い、暗い人影を生む。
「律と出かけてた」
「彼の頭についた包帯は?」
「俺の眼帯についてはなにも言わないんだな」
靴をとって、中に上がった。
彼女は、俺から目を離さない。
「…久美子、大丈夫だ。学校で少し問題が起きただけでそれ以外は何もない。買い物に行ってきたんだ、みんなで焼き肉をしようって盛り上がってな――」
「そんな金どこにあるの、ねぇ」
「あぁ……今回くらいは、ね? 贅沢をしようと…」
「余計なのよ、もう晩飯作ったのよ」
「…」
言葉が詰まって、目だけを動かすことしかできなかった。
「なら焼肉は…明日にしよう」
そういうと、彼女は頭をゆっくり上下に振りながら、俺を睨みつけた。
彼女は、玄関の廊下を歩いて中に入り、右に曲がってリビングに入っていった。
俺もそのあとを追うように中に入っていく。
「汚いスーツ」
久美子は俺を見ずに言った。
リビングには、すでに律がテーブルの食べ物を見ながら座っていた、両手を太ももの上に置いて、静かに待っていた。
俺は下を向き、自分のスーツを見てみることにした。
確かに、今日のことのせいで…他人の血が染みついていた。
気が付かなかった。
久美子は電気のついていないキッチンに入り、冷蔵庫を開けてからタッパーを取り出した。
それを手に持ちながらリビングまで移動し、テーブルの上に、俺がいつも座っているところに、投げるように置いた。
「…久美子?」
「今日、仕事の弁当を忘れてたわよ」
今日は…仕事に行っていない。久美子に真実を伝えなければならない、律についても…
「一体何が起きたの? なんであんたたち二人とも包帯と眼帯が付いてるの?!」
久美子は急に声を荒げた。
律は驚いて、俺の方を向いてから、久美子を見た。
「昼は何を食べたの」
「何も食べてない」
「朝は」
「自分で支度をした」
「律はなんで包帯をつけてる」
「殴られた」
「あんたはなんで眼帯が付いてる」
「同じく殴られた」
「なんで? ねぇなんで?」
彼女は律に目をやり、それから俺の方を向いた。
「律の包帯、赤く滲んでる」
そういって、俺を睨み込む。
「あぁ」
何も言い返せない。
本当のことも言えない。
律が学校で人を鉛筆で、しかも鉛筆で誰かを刺したなんて口が裂けても…
「絡まれたんだ」
息子が、急に一言発した。
場が凍りつき、久美子はテーブルに振り返った。
「何だって?」
まるで信じられないような顔をする久美子。
俺も動揺して、息子を見る。
「…お母さんは今日、遅くまで寝てたから…お父さんに頼んで休みを取ったんだ。お父さんも休みを取って二人で――」
「仕事行ってないのねやっぱり」
久美子は俺の方を見てから、律に目を戻した。
「ふ、二人で出かけてさ、近くのショッピングモールに行ったんだ」
律は貧乏ゆすりをし始めた。
足の底が冷たい地面に当たると小さく音を上げた。
「あ…そう?」
「うん」
律が答えると、久美子はまた俺の方を見た。
「そこで…たむろしてるガキたちが律の学校の卒業生で、俺を見て律をバカにした」
俺はフォローを入れた。
久美子は唇を弱く噛んで、眉間を寄らせ、律を見た。
「それで、喧嘩になった」
律が言った。
久美子はテーブルの椅子を静かに引き、座りこんでから、俺に座るよう手招きをした。
つばを飲み込み、椅子に近づいてから引くと、椅子は木製の地面に擦られる強い音がした。俺はそのまま座って、テーブルに手を置いた。
「大変だったわね」
俺の肩に手を優しく置いて、弱くマッサージをした。
微笑みかけながらそう言うと、彼女は手を離し、食事を見た。
「焼肉ね。明日が楽しみだわ」
「へ、へへへ!」
律はいつの間にか貧乏ゆすりをやめていた。笑顔になり、そして声に出して笑った。
俺も乾いた唇を舐めてから、笑顔になり、そして箸を手に持った。
「あなたの分の夕飯もあるから、明日の弁当としてもっていって」
「あ、わかった。ありがとう」
俺はそう言ってから、弁当を開け、そして中身を見てみると、そこにはご飯と、焼き鮭があった。
箸を右手に、鮭を掴み、口に運んだ。
律の方を見ると、彼は皿にきちんと置かれた食べ物を箸でつかんで食べている。
それも、半笑いで。
鮭を噛むと、以上に水っぽいことに気が付いた。
鮭とは違う、しょっぱい以上に、ちがう、違う味がする。
瞬時に箸をテーブルの上に置いて椅子を飛ばすように立ち上がり、口に手を突っ込んで鮭を取り出した。
赤く、唾液と混ざった大量の血が鮭からゆっくり、噛んだ箇所からあふれていた。
口元から顎を伝って、血が口からこぼれ、床にポタポタと落ちていた。
手は、異常にも暖かい鮭を握り、赤く、塗られていた。
口を閉めず、血が唾液に流されることを祈って何も飲み込まなかった。
律と、久美子はものすごく驚いたように俺を見て、何もしない。
「あぁあ、ああ、さ、さけがぁ…!!」
「お父さん!?」
固まっていた律は咄嗟に立ち上がって、膝から崩れ落ちそうな俺のところまできてから、キッチンへ向かい、水をとった。
「飲んで!」
水を受け取らなかった。俺は、水を受け取らなかった。
鮭の血を、飲みたくないからだ。
「お父さん!」
ものすごく動揺したように律が叫ぶと、俺は水の入ったコップを手に取り、鮭を地面に捨てて水と一緒に口に入った血を飲み込んだ。
次の瞬間、全てが落ち着いたようだった。
水のおかげで、口元の血が洗われた。
律は、俺が落ち着いたことに気が付いたのか、何歩か後ろに下がって、リビングの壁に背中を預けた。
「ご、ごめん」
コップを握ったまま俺は、そういった。
久美子は、驚いて言葉も出ないようだ。
地面を見てみると、オレンジ色の鮭がカーペットの上に落ちていた。
「大丈夫、あぁ…拾うから。ごめん」
俺は咄嗟にキッチンに向かい、雑巾とゴミ袋をもってリビングに戻った。
鮭を袋に入れ、そして唾液で濡れた地面を拭いた。
「ごめん、ごめん…」
「今日は会社に行くよね?」
「え?」
「会社、行くよね?」
「あ、あぁ、もちろん。2日連続で休みは取ってられないよ」
朝だった。また雪が降ったために、もう少し早く家から出て車に積もった雪を掃除することにした。
久美子は、手伝ってくれるといったが、彼女はもう心配するべきことが多すぎる。だから、律を呼んで二人でやることにした。
久美子が扉を閉めて、中に入っていくのを確認してから、律を呼んだ。
「律」
「うん?」
彼はすでに駐車場にブーツで出向き、スコップをもって車周りの雪をとっていた。
「お母さんに嘘がばれたら、どうする気なんだ」
「…バレないよ、モールは昨日普通に営業してた。誰も気づかない」
「それでも親に嘘をつくのは…」
「じゃあ凍り付いてた父さんはどうなるんだよ! 助けたんだよ」
「それはそうだ、助けてもらったのはものすごくうれしいがいつかは認めなければならない。ずっと嘘をついて、その嘘を秘密のまま抱えるのは…」
「長年馬鹿にされてきたのは父さんじゃない、俺だ。確かに、理解できないだろうねあの時の俺の怒りを」
「そういうわけじゃない…」
「じゃあ理解できるの?」
「そういうわけでもない、ただ正直なぜ刺す必要があったのか俺には――」
「やっぱりね、味方じゃない。味方のフリをした知らない人だ。」
「…」
またもや、黙りこくって律を見つめた。
彼は眉間にしわをよせて、俺を見上げている。
「雪かきは、一人でやるから。律は学校に遅れるな…」
俺はそう言って、スコップを受け取り、律が出ていくのを見届けた。
道路を超えた、いつも俺が駐車場から見ている家の前には長く続かない竹藪があった。
冬になると、竹は雪を抱えて少しずつ頭を垂れる。
誰もそこを通らず、静かで、平和な竹藪。
でも、今日は律が左に曲がり、学校へと歩いていくとその竹やぶに女性の影が見えた。
軽く手を挙げて、彼女は手を振る。遠くなのに、なぜか笑っているのが分かった。
「おはようございます」
俺は大きな声で、スコップを手に持ったまま挨拶をした。
彼女は何も答えず、手を下げて、息子が曲がった道へ、そのまま歩いていった。
変な人だ。妙に見覚えがあるが、なんだか思い出せない。
長い髪をしていて、灰色の服に、サイズの合わない、大きい上着を着ている。
その背中を見ながら、俺は雪かきをつづけた。
車の前の雪をどかし、隣人の敷地に入った。
律が投げ入れた雪をスコップで拾い、自分の雪山へ戻す。
「掃除、してくれてるんですか?」
立花の玄関から、声がした。
振り返ると、そこには立花がまたもや扉につかまったまま外に出ず、こちらを見つめている。
「…息子が、雪を投げてしまったので。申し訳ないです、立花さん」
「いやいや、大丈夫だよ。問題ナシ!」
「そうですか…」
つばを飲み込み、視線を逸らした。
「どうかしましたか、高橋さん?」
「いや、ただ…立花さんが家から出ているところ、見たことがないって思って」
「中が気になりますか」
「…そういうわけじゃ」
「隣人ですもの、そうですよね? 仲良くしましょう、入ってくださいよ、高橋さん」
立花は道を開けて、そっと微笑み、おれを中に案内させようとした。
白い汚れたタンクトップ。二日前も、同じものを着ていた。
「大丈夫です、仕事がありますので」
彼に手のひらを見せて、優しく拒否した。
「そうですか! 高橋さんは、何の仕事を?」
「…テレビの、えっと、なんていえば」
「テレビの?」
「役者が、言うことを、書く…?」
「監督、ではなくて? 監督だったらこんな家に住まないもんね?」
男は大きく笑って、静かになって、また微笑みながらこちらを見つめる。
その目には、優しさはなく、怒りが混ざった何か違うものに見えた。
「脚本家」
「えぇ?」
耳に手を当て、男は声を大きくして聞いてくる。
「違う言葉で言えば、放送作家です。テレビの…脚本を書いてます」
「へぇ! 偉そうなのにね」
なのに。か。
「では、仕事ですので」
「あぁ! そうだね、遅れないように。でも、仕事の後は、ここに寄ってね? 二人で話してみよう。解決するべき問題が…君の敷地にある」
彼は、俺の家の水道を指指してそういった。
「わかりました」
俺は一言、そうとだけ言い。自分のきれいになった駐車場に戻り、車の扉を開けて頭を下げ、中に入った。
真っ先に、開けっ放しになったグローブボックスに手を差し伸べ、大量の、本当に大量粒状チョコレートのパックたちを漁り、一つだけ握りこんでは落ち着いた手先で開き、中身のチョコを一粒だけ食べた。




