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第五話

 車の中に入ってハンドルに手を差し伸べようとしたとき、手がからぶった。

 

 律が車の扉を開けて、中に入り、助手席に座った。

「どうかしたの」

 ハンドルを見つめる俺に、息子が聞く。

「どうってことない」


 さっきより少し先に手を伸ばして、ハンドルを握った。

 つばを飲み込み、空を見つめた。

 三日三晩、降りやまなかった雪が今降りやんだ。


 息子も感心したのか、俺と一緒に空を見ている。

「雪かきしなくてもよくなるねー」

「また振り始めるだろ、いつもそうだ」

「…」


 エンジンをかけて、車を出発させる。


「西田君の背中はどうなるのかな」

「お前があけた穴が、ふさがるといいが」

「…それは……」

「刺したことについては、きちんと謝らなければならないと思う、律。でも、今日はもういろいろ起きすぎた、明日考えよう」

「うん…」


 しばらく運転していると、窓の外を見ていた律が突然こちらを向いてきた。

 ハンドルから手を離さず、前から目を離さず。俺は運転を続けた。

「お父さん?」

「どうした」

「昔にさ、一度”あそこ”に入ったじゃん? どんな感じだったの」

「”あそこ”?」

「”あそこ”だよ、住宅街近くにあるデカい建物の中…」

「あぁ」


 律が話していたのは、精神科病院だった。


「律は、よく覚えていないと思う。でも、お父さんはあの頃は、ろくに食事もとれなかった。口に入った食べ物を、舌が、喉が…拒否するんだ」

「…うん」

「だから、お父さんの健康に危ないところまで来ていたから、医者からは入院を勧められた。結果は悲惨だった。中に入れば、そこは、君の学校よりもずっとすごいカオスだったよ」



 しずかな深夜の廊下に、叫び声が響き渡ると、布団をかぶって聞こえないふりをしても自然と目を開けてしまう。

「殺される! 私を殺しに来た!」

 と叫ぶ女性は、針を刺されるまで叫び、泣き止まなかった。

 その間ずっと、自分の小さな四角い部屋の中で目を開けて天井を見上げていた。


 暗く、静かな部屋の中は外に比べてものすごく平和で、ものすごく独りに感じた。

 誰も助けに来てくれないような、密閉間だった。

 

 夜は眠れなくても、結局毎朝6時に起こされた。

 看護師が各部屋を回り、暴れまわる患者たちを相手にしながら検温、血圧測定をした。

 いつもこの、一人の若い男性だった。腕は太く、足は細かった。

 髪は邪魔にならないようすべて剃り落としていた。優しい顔の裏には疲れ切った人間の表情が見えた。


 みんなで一緒にデイルームで朝食を食べた。

 とてつもなく白いトレーに運ばれてきた食は、なぜか薄汚く見えた。


「高橋さん?」

「…」

 男の看護師は呆れていた。きっと仕事をやめたかったのだろう。

 毎日食事を見るだけの俺を睨みつけて、まるで「さっさと食べろ」とでも言わんばかりだった。

 

 話しかけられても何も答えなかった。

 薬だけを渡され、従う犬のように毎日口に突っ込んだ。



「で? 中はどんな感じだったの?」

 律は落ち着きのある声で、前を見ながら言った。

 なんだか、熱い。


「律、暖房を少し下げてくれないか」

「うん」

「ありがとう。あともう少しでスーパーにつくから」

「うん」


 律はそう返事をして、助手席の右側にあるスライドするボタンを下にスライドさせた。

 手を離し、自分の太ももの上に置いて律はまた黙った。


 きっと、説明を求めているんだろう。

 きっと、話を聞きたいんだろう。

 

 だから、静かに運転をした。


「じゃあさ、お父さんは異世界に転生するならどうやって転生したい!?」

「は?」

 律はしばらく考え込んでからまたしゃべりだした。


「俺ならね、どうかなぁ。あ!」

 手を叩いてから口を開け、俺のことを見た。

「トラックに轢かれたい!」

「まてまてまて、死ぬ方法か?」

「異世界に転生する方法なんてほかにあるの?」

「例えば本屋でよくわからない本を見つけてそれに吸い込まれたりだとか、クローゼットを開けたら違う世界があるとか、あるじゃないかいろいろ」

「あるけどさ、アニメではトラックが定番じゃん」

「じゃあ逆に定番に乗らなければどうなんだ?」

「ふぅん…」


 律はまた黙りこみ、そして前をみた。

 ハンドルを右に回し、スーパーの広い駐車場に入った。

 車が一度強く揺れ、律も俺も一度車内で飛び上がった。

「お母さんに何か買ってく? 昼の電話はもう見ただろうし、多分心配してるよ」

 俺が混みあがったスーパーの駐車場で車を停める場所を探している中で、律はまたしゃべる。


 突然横断し、謝りもしない老人や、子供。

 大人数で話しながら何かを食べる人たち。

 隠れたつもりで車の後ろに丸まってキスをするカップル。


 ここは、人が多すぎる。


「そうだな…お母さん何かが足りないとか言ってなかったか?」

「うぅん、言ってなかったな」

「じゃあ、いつも家事をしてもらってるし。何か菓子を買ってやろう…」

「ダイエットは?」

「ダイエット中だって言ってたか?」

「うん」

「なら、難しいな…」


 食べない選択をする人が良くわからない。

 口に食べ物を入れても拒絶するわけじゃないのに、彼らはそれでも食べないことを選択する。

 

 つばを飲み込み、右に向ってUターンをした。

「人多いね」

 律も止められる場所を探しながらそう言った。

「そうだ、焼き肉は? グリルみたいなやつが家にあったろ。焼肉くらい食っても太りはしないし、ダイエットなんて馬鹿げてる。お前のお母さんはあのままでも十分きれいだ」

「そんなことお母さんに言えよ」


 軽く笑ってから、律はまた窓の外を見始めた。

 混みあがったスーパーの駐車場の中で、一つだけ空いている場所を見つけ、俺はそこに車を停めた。


 完全に停車すると、律はさっそく扉を開けて、飛び出るように外へ出た。

 俺も追って扉を開き、頭を下げ、足を外に踏み込ませた。

「そんなに外の空気が吸いたかったか?」

 スーパーを見上げる律に話しかけた。


「俺も病院に入れられるのかな」

「…律?」

「俺も、あぁ…」


 頭を両手で抱えて、律は車の隣をぐるぐる回り始めた。

 下を向いて、心配よりも絶望するような顔だった。


 左後部の扉の前で俺は立ち止まり、泣きそうになっている律を見つめた。


「刺したんだ人を、お父さん。俺刺したんだよ? 友達を…」

「友達じゃない、そうなんだろう」

「う、うん…友達じゃない。けど、それでもクラスメイトを…」

 

 視界が、世界がガラス越しになった。

 誰かが指で塗り広げたみたいに、景色が曇る。

 

 そっと目を閉じて、ポケットに手を差し伸べる。

 ない。

 そうだ、チョコレートを買いに来たんだ。チョコレートがないから。

 

「落ち着け律」

 口を大きく開けて律はパニックに陥っていた、呼吸は乱れ、胸に手を当てながら深く息をしようとするが酸素がそれでも足りない。


「律ッ!」

 子供の両肩を握って彼を前後ろに振った。

「だいじょうぶだ律、大丈夫だから。お父さんが――」


 振り返った、まるで誰かが自分の後ろにいるかのようにそこを見つめてから律の肩を離した。

「見えたか律?」

「うぅ…何が?」

「今絶対に後ろに誰かがいた」

「…見えなかった」

「そうか、と、とにかく。スーパーに入ろう? な?」

 律はつばをゆっくりと飲み込んで、鼻をすすり、そして呼吸を戻した。


「わかった…」

 まだ下を見ながら、つぶやくように子供は言った。

「また何かがあったら、呼吸に集中するんだ律。それ以外のものは存在しないと思え、わかったか」

「わかった…」

 頭を軽く上下に振り、律はそう答えた。

「なら行こう、な」

「わかった…」


 律の隣を歩き、二人で混んだ駐車場の中、大量の車と人間に囲まれた状態で進んだ。

 俺は律と一緒に知らない駐車済みの車の前で、先に駐車しようとしている車を通そうと待った。

 その黒く、大きい車が前を通るのを待つが、どれだけ時間がたっても近づいてこないように見えた。


「あの車こっちに…?」

 そう思って先に一歩踏み込むと、律が俺を後ろに引っ張り上げた。

「危ないよッ!」

 さっきの黒い車が、すごいスピードで前を横切った。


「…え?」

「見えてないの、お父さん? どうしたの?」

「あ、ごめんな…少し、距離がつかめないんだ。眼帯のせいで」


 黒くて、大きい車だった。後ろ側は何かにぶつかったのか、リアバンパーがゆがんでいた。

 気を取り戻して、俺はスーパーへと律と一緒に進んだ。


 入り口まで入っていくと、大量の人の波にはじかれるように外に、少しずつ戻される。

 人の間を斬って先へと向かう者もいれば、逆らえないまま流される者もいた。

 流されないように、俺は律の腕をつかんで人々の中で立ち止まった。

 石のように固まったまま通り過ぎるのを待っていた。

 

 圧迫される感覚だった、カラフルな服をした様々な人が目を刺激し、流れていく。

 足を踏まれても一歩も動かなかった。肩をスーパーのカゴで叩かれても一歩も動かなかった。


 しばらくすると、人の波が止まった。

 

「…」

 律の腕をまたしっかりとつかんで、前に進んだ。

 平日の昼に集まる人々は、老人と、小さな子供を連れた母親たち…学生も、俺のような会社員も見当たらない。


 入り口にあったのはまず大量の花だった。小さな平台があり、そこに花が積まれていた。


「薔薇もあるじゃん」

 律は花束を指さしてそういうと、俺は彼の上がった腕をゆっくり下げた。

「…指を向けるな、律。人の気を引くことをするな」

「でも、人おおいし別に誰も見てないよ」

「ただでさえ頭に血のにじんだ包帯を巻かれた子供に、眼帯が付いた男が一緒にいるんだぞ?」

「…た、たしかに」


 カゴを手に取って、俺は先に進み野菜たちを見ていた。律も隣で不思議そうに野菜を見つめてから、眉間にしわをより、俺を見た。

「お菓子は? 野菜買うの?」

「…カボチャも悪いもんじゃない」

「焼肉で使うの?」

「焼肉では使わない」

「じゃあ…」

「自由に、買い物をさせてくれないか、律。俺は見て回りたい」

「あ、うん…ごめん、父さん」

 頭を上下に振って、俺は野菜を見つめなおした。


 丸い形のオレンジ色のカボチャは、緑色の背景とのコントラストを効かせる。

 一つだけ手に取ってから、また戻した。


「どうしたの」

「…」


 指にカボチャの皮のざらつきが残る。


 右を向いて、先へと進んだ。

 冷たい冷蔵庫の前を通り、豆腐やレモン。やけに価格が高いドラゴンフルーツ。

「…」

 何も言わずに、通り過ぎた。

 律は俺の後を追うだけ。


「自分で菓子を見てきたらどうなんだ律?」

「…あぁ、わかった」

 なんだか緊張しているのか、律は地面を見ながら心配そうにそう言って、人だかりの中に消えていった。

 すぐに視線をそらし、カラのカゴを見つめてから、前を見た。


 冷たい麺が、何パックも置かれていた。

 すると、左から一つの震える手がパックに向かって手を差し伸べようとした時だった。

 おれはすぐにパックを手に取り、震える男の人に渡した。


「お、お、あああありがとぉ」

「…? ミズキ?」

 男はきちんと立つこともできない、重すぎる頭を体が必死に支えようとして彼は前へ、後ろへと体を乗り出し、そして結局は脚を先に出す。

 視点を一つの場所に合わせることは彼にとってはものすごく難しく、何かを握るのもやっとだ。

 

 なぜ、なぜミズキが一人で買い物をしているのか…理解できない。いつもなら同伴者か、看護師が付いていると思うが…

「久しぶりじゃないかミズキ…」

「う、うん」

 喉の奥で引っかかった音だった。


 ミズキは、言葉より先に息が漏れる。

「うあ、あ、うん」


 そういって、ミズキは俺に背中を向け、スーパーをまた回り始めた。

 片手に麺を持ったまま、ゆらゆらと彼は歩いていく。


「じゃあな、ミズキ…」

 俺は、なんだか昔の友達に置いて行かれたような感覚でつぶやいた。

 でも確かに、会話する理由も見当たらなかった。

 

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