第三話
「高橋さん自身は、自分をどういう人間だと思っていますか?」
メモノートを片手に、先生が質問をしてきた。
メガネをした男性で、俺と同い年くらいだった。
穏やかで優しい声をした人だった、でも、目だけは笑っていなかった。
昨日のうちに企画書は済ませていたから、今日は別に大した仕事は残っていなかった。
朝、車で職場に向かっているとものすごくいやになった。
だから仕事に電話して、休みを取った。
「礼儀正しいと思います。日ごろから、他人との関係に気を付けて行動しているので」
久美子は俺に何かがあると、いつもここの先生をまた勧めてくる。
だから、彼女の言う通りにした。
「では、周りの人からは、どんな人だと言われますか? そして、それは自分でもそう思いますか?」
「わかりません。他人から自分を定義されたことはありません」
先生はメガネをほんの少しだけ上にずらし、それからメモに目をやる。
ペンを走らせてから、メモに手を置き、俺を見つめた。
優しい目で。
「礼儀正しく振る舞うことって、高橋さんにとってどんな意味があるんでしょう? それが自分を守ることにつながっていると感じることはありますか?」
「質問の意味が分からない、俺は、小さいころからできるだけ言葉に気を付けていました。それだけです」
「なら、もし誰かが高橋さんのことを「礼儀正しい人だね」と言ってきたら、心の中でどんな反応が起きそうですか? 嬉しい? 違和感? それとも何か別の気持ち?」
「…そうですね。期待通りでうれしいと思います」
「期待通りに振る舞えて嬉しい……それはすごくわかります。でも、そうやって「期待通り」でい続けていると、ときどき自分自身が疲れてしまうことってありませんか? たとえば、今朝のように急に全部が嫌になる瞬間とか。」
眉間にしわを寄せるも、それは怒りのしわじゃなかった。
まるで俺を心配するような顔をしていた。
「あ、あります」
「ありますよね……。それは、すごく大事なサインだと思います。ずっと『期待通り』でいようとしてきた分、疲れが溜まっている。今朝みたいに、急に蓋が外れる瞬間があるってことは……本当は、もう限界に近い部分があるのかもしれませんね。」
俺は何も答えなかった。
しばらく沈黙が続き、先生はまるで理解したかのような顔でメモを見て、ペンをまた走らせてからもう一つ質問をした。
「小さい頃から言葉に気を付けてきたとおっしゃっていましたね。その頃から、疲れるようなことってありましたか? ……たとえば、親や周りの期待に応えなきゃいけない場面で、「本当は違うのに」って思ったこととか」
俺は両手を合わせて、甲を撫でてからテーブルを見つめた。
先生に目をやり、そして答えた。
「小さいころから、全員が何かしら我慢をしていることを理解していました。自分は疲れていても、他人も同時に疲れていると思っていました、だから「本当は違うのに」ではなく、心の奥では「あなたも疲れているのに、なぜ他人の疲れを理解できない?」と疑問に思っていました。」
「「あなたも疲れているのに、なぜ他人の疲れを理解できない?」……その言葉、心の奥でずっと繰り返してきたんですね。それは、すごく深い疑問だと思います。みんなが我慢している世界で、自分だけが「本当は違う」って思いたくても思えなくて……でも、同時に、誰かに『俺のこともわかってよ』って叫びたかった気持ちが、その疑問の中に隠れているような気がします。」
短い間だけ、沈黙が続くと先生は立ち上がり、近くのカウンターまで歩いていき、コップを取り出し、そこに水を注ぎこんだ。
椅子まで戻り、テーブルの上にコップを置いてから座り込んだ。
「飲んでもいいですよ」
先生はそう言って、コップに視線を向けた。
「先生は、飲まなくてもいいんですか?」
俺は不思議な顔をして、先生を見た。
「俺の喉は乾いていない」
先生は静かに返事をする。
口で深く息を吸ってから、先生は俺を見て
「ありがとうございました、今日はここまでになります」
「もう、一時間ですか?」
「はい」
「あぁ」
先生は立ち上がって、体を俺に少し傾け、腕を伸ばして握手を求める。
「…?」
「お疲れさまでした」
彼がそういうと、俺はなぜか握手をしなければならないと思って手を前に出し、握手に答えた。
先生は後ろを振り返って、そのまま扉まで歩いてから
優しく扉を開き、そしてその前で止まって俺が出ていくのを待っていた。
「お先にどうぞ」
とだけ言って。
「ありがとうございます」
そう答えて、部屋から出て受付に戻り、人々の声が響き渡る、扉が淡々と続く細長い廊下を通った。
照明たちの下を通るにつれて、自分は前に進んでいるという気分よりも、前に進まれていることに気が付いた。
先生は、優しく扉を開いて俺を外に案内したんじゃなくて「追放した」んだ。
廊下を超えて、受付に戻り、青白い顔をして待っていた人々の前を静かにわたり、冷たい外に出た。
すると、ポケットの中で携帯が振動し始めた。
驚いてポケットに手を突っ込み、携帯を強く握ってから電話に出た。
「もしもし」
落ち着いた声で、外の風景を見ながら言った。
「あぁもしもし? 律君のお父さんですか」
「そうですけど」
「律君がね、問題を起こしてくれたから。今すぐ学校来てくれないですかね」
「今は仕事中なんだ、家に電話してくれないか。妻が――」
嘘をつこうとしたときに、教師が話を遮ってきた。
「電話しましたが、だれも出ませんでした」
しばらく黙って、考え込んでから返事をした。
「…今行きます」
一瞬だけ精神科の入り口にまた目をやってから、駐車場まで足を運んだ。
車のカギで扉を開き、頭を下げて車内に入る。
助手席に置かれたチョコを見て、即座につかみ取り手を中に入れようとしたその時。
中に何もないことを思い出した。
チョコのパックを手に持ったまま扉を開け、車内から飛び出るように精神科に戻った。
受付にたどり着くと、パソコンを見ている女性にチョコのパックを見せた。
「ゴミ箱ありますか」
俺は聞いた。
「ありますよ」
右を指しながら、彼女はそう言って、またパソコンに視線を戻した。
カウンターに手を置きながら、右に向って歩いていき、そしてゴミ箱を見つけるとチョコのパックを投げ捨てた。
「…」
受付の女性は、驚いたように一瞬だけこちらを見つめたが、俺は彼女を無視して入り口から外へ行き、車内に戻った。
学校へ行こう。
車のエンジンをかけて、出発した。
学校に駐車場はなかった。
入り口の前にほかの車が停まっているのを見て、自分も真似をしてそこに車を停めた。
車内から出て、校門のインターホンを鳴らした。
「律のお父さんです」
そういうと、返事も帰ってこないうちに校門が開かれた。
外からでも見えた、校舎の窓の奥に生徒たちが外を見つめてくる。
その中でも何人かはすでに、俺に気が付いていた。
すぐに校舎内から教師一人が早歩きで出てきた。
「高橋さん!」
「どうしましたか」
「高橋さん! 初めてですよ!」
「なにが」
俺の前で足を止めて、とてと驚いた顔で、目を大きく開けて叫んできた。
驚いた顔には、同時に怒りも見えた。
「今あなたの息子のせいで救急車が!」
「はい…?」
中に案内させられて、俺は走って教師を追う。
校庭を走っている時に、俺はその少し太った教師に聞いた。
「何が起きてるんですか?! 律に何かが?」
「何かが起きてるんです! 律があることを!」
「何を!」
砂埃が舞う校庭を超えて、入り口にほかの先生が立っていたのを見て、状況はよろしくないことに気が付いた。
保健室まで案内させられると、そこには背中に鉛筆が刺さって抜けない生徒と、血を見て嘔吐する親、アルコールを背中にかける保健室の教員がいた。
「何が…?」
驚いて口をふさいだ、生徒は痛そうに目を閉じて、歯軋りをしながら背中の鉛筆の痛みを耐え抜こうとしていた。
もっと驚くことに、鉛筆は心が出ているところから刺されているわけではないということ。
後ろ側の表面、消しゴムがくっついているところから刺されているのだ。
「てめえッ! 俺の息子の背中に鉛筆刺したクソガキの親かッ!」
さっきまで、ゴミ箱に向かって嘔吐している、子供のお父さんが声を荒げ、口の端に白い液を残しながらこちらに向かってきた。
何も返事ができず、おびえて保健室の入り口に立つことしかできない。
地面を見ると、生徒の血の跡が残っていることに気が付く。
胸ぐらをつかんで近くまで寄せられ、つばを吐きながら男は大声で怒鳴り始める。
「何してくれてんだ糞野郎ッ! 息子を何とかしろ息子をッ!」
「あ…」
俺が返事できずにいると教員の一人が間に入り、男を離した。
「わかりましたか、高橋さん」
俺を睨みこみながら教員は、パニックになっている部屋の中で言い放った。
「ぎゃああああああ!!!」
気が付くと、もう一人の先生が現れ生徒に近づき、ウィスキーのボトルをドバドバ背中にかけている。
「教員室にウィスキーがあるのか?」
さっきまで嘔吐していた親の男はボトルを見て、信じられないような顔で見た。
「鉛筆をとったらどうなんだ!?」
俺が提案すると、ボトルをカラにする教員がこちらを向いてこういった。
「無理だ、消しゴムを囲む鉄の部分が肉を引き裂いていて――」
「まて、は?」
俺も信じられなかった。
「鉛筆が細工されてる、鉄の部分は矢のようになってて、よく入るが、抜くことができないんだ」
「なんで?!」
壁に手をやって、深く息をした。
なんだか、息切れだ。
息が。
「高橋さん!」
廊下側から声がした。
「息子さんが暴れていますので、止めていただけませんでしょうか?!」
女性の教員はそう言って、腕をつかまれた。
長い廊下の床は血がにじんでいた。
あの生徒は二階から運ばれてきたんだろう。
階段にたどり着き、教員の後を追いながら一緒に上がる。
「律は大丈夫なんですか? 喧嘩ですか?」
「いいや、授業中に突然――」
階段を上がり終えて、一番近かった教室に入ると、そこには教員3人に押さえつけられた息子が暴れていた。
「律ッ!」




