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第二話

 外は真っ暗だった。

 駐車場を照らすのは弱弱しく、白い光だった。


 小さく、四角い灰色の車が一つだけ。広い駐車場の中で停められていた。

 ポケットから鍵を取り出し、前に腕を広げ、車のカギのボタンを押すと

 開いたことを知らせるよりも、まるで断末魔をあげるようにその灰色の車が鳴った。

 

 扉を開けて、頭を下げ、体を車内に入れて席に座り込んだ。

 鼻歌交じりに扉を閉めてから助手席の、開かれたままのグローブボックスを見つめた。

「…CDを移動させないとな」


 移動して、揺れるような車内に落っこちて壊れる可能性のあるCDを放っておくわけにはいかない。

 鼻歌を再開し、CDを漁ってから今歌っている曲を見つけようとした。


 どうしても曲の名前が思い出せなくて、でもリズムだけはきちんと覚えている。

 それを忘れれば何も残らない。


 目を細めながらCDを漁る、片手をあげて天井に手をやり、そして暖かい色をした照明をつけた。

 こっちの方が見やすい。

 そう思った瞬間、誰かが窓をたたいてきた。

 驚いて飛び上がってしまい、CDを落としてしまった。

 壊れてはいないだろうと思って、振り返り、外を見た。


「こんばんわー」

 こもった声で、おばあさんが頭の位置を下げて、車内を見渡しながら言ってきた。

「窓、下げてもらえませんか? 話したいんです」

 外に一億の金が積まれていても俺はこの窓を開かない。

 おばあさんは気持ち悪い笑みを浮かべ、黒に腐った歯をむき出しにしながらこちらを見つめてきている。

「遠慮させていただきます。なんですか」

「私くらいの年齢になると、声を張るのが難しいんです。窓を開けてください」

 さっきまで籠っていてもきちんと聞こえた声が、今度は少しばかり小さく聞こえた。

 …


 俺は窓を開けるボタンに手をやると、おばあさんは一瞬だけ車の後ろに目をやった。

「…? どうしました」

「はい?」

「車の後ろを見ていましたが」

「はい?」

 耳に手をやり、顔を横に向けて聞こえない素振りをしている。

 俺は窓のボタンをおして、窓をほんの少し、声が聞こえるが手を入れられないほど開けた。


「どうしましたか、こんな遅くに」

「あぁ! 開けてくれたんですね」

「…はい」

「お金を、恵んでくれませんか? かわいそうなお婆なんです」

 両手を差し出し、求めるそぶりをする。

 俺はポケットに手を伸ばし、財布を取り出してから千円引き抜いた。


 目を輝かせてから、口を半開きにし、そしてゆっくりと手の位置をあげる。

 窓の小さな隙間から放たれるであろう金を逃さないために。


「これくらいで大丈夫ですか」

 俺は落ち着いた声で聞いた。

「もちろん! ほんの少しの恵みだけで足りるんです!」

「…」

 俺はそのまま左手に持った金を窓の近くまで、ゆっくり持っていくとおばあさんはいきなり窓の隙間に乱暴に手を入れて金をつかもうとした。

 驚いて金を引っ込み、財布の中に入れた。

「金をくれるんじゃなかったのか!? 嘘つき! 嘘つきめ! 殺してやる!」

 手元は暴れ、どうしてもつかみたいがために手を窓から離さなかった。

 車内に指を入れこんだまま乱暴に車を揺らしている。

「死ね! 死ね!」

 

 おびえてアクセルを踏み、車は少しずつ進み始める。

「手を、抜いたほうがいいですよ!」

 震えた声で俺は車についてくるおばあさんに言った。

「いやだ! あんたの金! 金をもらうまでは!」

「離れろ!」

「呪ってやる!」

「離れろって言ってるんだ糞ババア!」


 アクセルをもっと強く踏みしめてスピードを出し始めると、彼女は車についてこれなかったが、車内から手を離さなかった。

 指の関節が音を上げると、変な方向に曲がり、おばあさんは手を離し、駐車場の中で倒れこんだ。

「殺してやる! 殺してやる!」


 できるだけ早く会社の駐車場を離れ、家に帰った。


 今日は、音楽が聴けない日だった。



 自分の家の、雪かきされた駐車場に車を停め、扉を開けて冷たい風が吹く外に出た。

 立花さんの家の前に一瞬だけ目をやると、ホースからはまだ水が出ていた。

 咄嗟にうちの玄関近くの水道を見る。

 ホースは、そこから出ている。

 

 水道を切って、ホースを外し、玄関を開けた。


 まだあの老婆の指が折れる瞬間の音、そして折れていく方向が目に焼き付いたままだった。

「ただいま」

 そういいながら靴を外す。


「おかえりー」

 妻が返事をしてくれた。

 玄関の廊下を5歩歩き、左に曲がってリビングに出た。

 道路側にはテレビ、テーブルを囲むよう色をなくしそうなくらい古い青色のソファーと、木製の椅子が2つあった。

 ソファーには息子が座り、テレビを見ていた。

 

 ネクタイを片手で外しながら、バッグを椅子の上に置いた。

「今日は一日どうだった?」

 息子に話しかけた。

「普通…? かな、別にどうってことないよ。昨日もその前もずっと同じような感じ」

「そうか」

 俺は頭を上下にゆっくり揺らしながら唇を舐め、そして地面を見つめた。

「お父さんは?」

 息子に目をやってから、笑みをうかべ、椅子に座った。


「今日は散々だ、お隣の立花さんがまだうちの水を使ってる」

「えぇ?」

 キッチンにいた妻が声を出した。

「起訴できるんじゃないの?」

 息子が提案してくれたが、俺は笑ってその言葉をごまかした。

「そんな、隣人をか? できるわけない」

「でも実際水代を払ってるのは私たちよ」

「そうだそうだ」

 息子は制服を着たままだってことに気が付いた。


「着替えてこないか」

「…あ、あぁ。ごめん、忘れてた」

 彼はそう言ってボタンをはずしながら階段を上がっていった。


 息子が階段を上がっていくのを見てから、妻に話しかけた。

「久美子、車のグローブボックスの開き方が分かった」

「あ! あれ? そうなの?」

 驚いたようにキッチンからそう返事をした。


「一度押し込んでからゆっくり引き出す感じでやると、開けられるんだ」

「古い車だしね、どこか壊れることはわかってたけど、ちょうどあんたのCD倉庫だとは思わなかったね」

「さすがにまた閉めたら開けられない可能性があって怖いからCDは全部出すことにするんだ。違うところに保存しておきたい、何かいい案は?」


 すると息子が走って階段を下りてきた。

 きちんとパジャマを着たまま。

「お前は風呂入ったのに何で制服のままだったんだ?」

「なんで風呂入ったってわかってたんだ?」

「髪が濡れてるからさ、ドライヤーをかけろと何度言えばわかるんだ風邪ひくぞ?」

「だって面倒くさいし」

 彼はそう言ってまたソファーに座り込み、テレビのリモコンをテーブルの上からとった。


「今何が流れてんだ」

 俺はテレビを見ながら聞いた。

「別に何も、ただの暇つぶし」

「…前にお前に買ったゲームは? あのゾンビのやつ」

「あれ飽きた」

「なんで、傑作なのに」

「お父さんが何年も前にやったゲームなんてどうでもいいよ」


 俺は返事をしなかった。

 子供とゲームについて喧嘩をするつもりはない。価値観の問題だ。

 

 そのまま久美子がとっておいてくれた飯を食べて、テーブルでゆっくりしていた深夜だった。

 久美子が階段を下りてきた。

 優しい足音が、冬の冷たい夜に響く。

「布団冷たいよ」

 彼女はそう言って椅子を引き、俺と一緒に座った。


「わかってる――…久美子」

「なに」

「今日おかしなことがあったんだ」

「何よ」

 軽く笑って、彼女は俺に視線を向けた。


「なんだか…変な…ヤツに絡まれた」

「ヤツ?」

「老婆だったんだ、いや、老婆なんだ。こう、変で――」

「変って何よ、さっきから」

「だから、会社から帰る少し前に車で休憩してたんだけどな、その老婆が車の窓を叩いてきたんだ。金を恵んでくれって」

「で? 恵んだの?」

「恵もうとしたが…金を財布から出すとすごいとっつき具合で驚いてさ、手が止まったんだ。すると急に暴れ出して、車内に手を入れながら「金をくれ!」とか叫んで…」

「うわぁ、」

「死ね! 殺してやる! とかも言われて、ビビってアクセル踏んだら…えっと」

「…?」

「老婆が、車から手を離そうとしなかったんだ。それで、進む車についてこれなくて転ぶと、指が折れたんだ、窓に突っかかって…」


「ねぇ」

 テーブル越しの俺の手を握って、彼女は優しく問いかけてきた。

「先生に会わない? また」

「…」

「会いたくないってわかるよ、薬のせいで仕事がはかどれないのも分かる」

「感覚が鈍るんだ」

「でも、そのままだと駄目よ」

「…」

 彼女と目を合わせるのが難しかった。

 木製のテーブルばかりを見つめて、彼女の提案を拒否しようとした。


 彼女が両手で俺の左手を優しく握っても、俺は右手の人さし指でテーブルをトントンと、叩いていた。


「律はさ、もうあなたのことを”お父さん”って呼んでるよ」

「わかってる」

「お父さん、だよ?」

「わかってるって」

「…ならお父さんらしくしなきゃ、昔に戻らないで?」

 

 俺は立ち上がって、彼女を睨みこんだ。

「昔には戻ってない、もう大丈夫だ。突然閉じこもったりなんかしないし嘘はつかない、老婆のことは嘘だと思ってるんだろう? いつもそうだ、心を開けようとしても俺を――」

「思ってない」

「ほらまた、俺の言葉を遮って――」


 すると、深夜の外に水道を開ける音が聞こえた。

「…立花だ、明日の雪に備えてやがる」

「寝なさい、明日話せばいい」

「水代で何万失ってると思ってるんだ?」

「明日よ」


 俺は、息を整えた。

 大丈夫。

 大丈夫だ。


「ごめん、ありがとう久美子」

 妻にキスをして、そのまま階段を上がった。

 明日、立花とまた話をしよう…


 冬の間は、朝になっても静かなままだった。

 小鳥のさえずりも、聞こえやしない。

 6時のアラームが鳴ると、俺は布団から立ち上がった。


 鏡で自分を見てから、歯磨きをした。

 顔を洗い、キッチンに行って水を飲み、着替えた。


 6時40分だった。

 俺はすでに自分の朝食を作り終えてテーブルに座り、食べ始めるところだった。

 しかし、静かな朝でも一つだけ音がよく聞こえた。

 ホースの水が出る音だ。

 あの細い、ナイフで開けられた穴から水が出るとき、音がよく鳴る。


 黙ってテレビのリモコンを手に取り、テレビをつけた。

 

 7時半ほどだった。

 ネクタイを確かめて、俺は玄関の扉を開けた。

 非常に積もった雪を踏みしめて右へと向かった。

 玄関の段差を乗り越えて、立花の整理された、きれいな駐車場に入り、黒い車の後ろを通ってから木製の扉の前に立った。


 振り返って、もう一度確認した。

 確かにホースは俺の家の水道から出ている。

 その上玄関近くの水道だ。

「おはようございます」

 落ち着いた声で扉をたたき、挨拶をした。


 男が、階段を強く踏みしめて降りていくのが聞こえると、しばらくしてすぐに扉が開いた。

「おはようございます。どうしました、高橋さん?」

 まるで何もしていないかのような顔をしながら俺を見ていた。

 片手で扉を抑え、もう片手で壁につかまって、足を一歩も外に出さずに玄関にぶら下がったまま俺と話をしていた。


 俺は後ろを振り返って、水道を見つめてから眉間にしわを寄らせ、立花を見た。

「水道を使わないでください」

「またそれかよ」

 

 奥歯に今日の朝食べたパンのカスが残っている。

 口を半開きにして、顎をずらしながら奥歯を舌で舐めた。

 立花を睨みこんだまま。

「何お前」

 立花は軽く笑い始め、俺をバカにするようにこちらを見つめている。

「あのさ、毎朝おれんとこ来て迷惑かけんならもう仕事行けよ? 暇人じゃないんでしょ?」

「…」

 

 暇人はお前の方だ。


 笑みを浮かべていた立花は少しずつ表情を硬くしながら、俺に説教をするように話をつづけた。

「そうやって小さなことにいちいち目を向けて、ほかの幸せなことに気が付けないからお前は貧乏なんだよ、もう言ったろ、傳さんたちが許可してくれてんの。まだうるさいこと言うん?」

 口を閉じて、鼻を鳴らし、目をよく開けて下を見つめた。

 ホースから水が出る音が耳によく響く。

 一定のリズムで水が穴から噴射され、雪を溶かす。


「子供みたいじゃないか、いい加減?」

 彼とは一切目を合わさず、俺は頭を上下にゆっくりと揺らした。


「ほら!」

 彼はまた、俺と友達かのようにわあわあ笑ってからそういった。

 バカにするようで、友達を慰めるようで。


 肩に手を置き、笑うのをやめなかった。

 肩を叩きながら

「な? 大丈夫か? 俺のこと見ろよ?」

 口を開いて、笑顔を保ったまま俺の視線を要求してくる。

 まるで幼稚園生を相手にするような顔で、まるで相手を何も理解できない子供を見るような顔で。


 優しく、手をどかし。

「ホースを、うちの水道から抜いておいてください。」

 とだけ言って、地面を見ながら自分の駐車場に戻った。

「そんな顔してると、友達出来ないぞ!」

 

 明るい声で笑いながら、大きく、道路にいる人にも聞こえるくらいの声の大きさで立花は叫んだ。


 そのまま車の中に入り、エンジンをかけてからバッグに入ったチョコレートをとった。

 パックを開けて、中に手を突っ込むと全く空だった。

 助手席にチョコのパックを置いて、CDを手に取り音楽を流してから職場に向かった。

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