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第一話

 隣人は冬になると彼の家の前にホースを置き、雪を溶かすために水を一夜中つけっぱなしにした。

 ホースには何個も穴があけられ、そこから水がピュッと飛び出るようになっていた。

 これが、とても効果があり、彼は駐車場から車を出すとき雪かきをしなくてもスッと車を道路に走らせることができた。

 

 ずいぶんと運のいい男だ。水道代を気にせず、雪を溶かせるのだから。

 すでに彼が使った水の代金を払わなければならない俺にはとてもできないことだ。


 朝の7時半ほどだった。

 冷たい冬で、彼の家の前にはまた俺の家の敷地から出たホースが使われていた。

 スーツ姿で外に出て、白くなった地面を踏みつぶして右へ向かった。

 玄関の段差を乗り越えて、彼の整理された、きれいな駐車場に入り、黒い車の後ろを通ってから木製の扉の前に立った。

 

 振り返って、もう一度確認した。

 確かにホースは俺の家の水道から出ている。

 その上玄関近くの水道だ。

「おはようございます」

 落ち着いた声で扉をたたき、挨拶をした。


 周りに響く音は、会社へ向かうサラリーマンたちの車が道路を通る音、そして降る雪が地面に当たる、小さな、小さな音。

 それから聞こえたのは隣人の家の中からだった。


 どすどすどす、階段を強く踏みしめて降りていくのが聞こえると、しばらくしてすぐに扉が開いた。

「おはようございます。どうしました、高橋さん?」

 まるで何もしていないかのような顔をしながら俺を見ていた。

 片手で扉を抑え、もう片手で壁につかまって、足を一歩も外に出さずに玄関にぶら下がったまま俺と話をしていた。


 立花さんだ。中年の男で、何年か前に職を失った。今は元妻から金をもらって生活しているらしい。

 ろくに外に出ないくせになぜ俺の水道を使って雪を溶かしたがるのかは全く分からない。

「申し訳ないです、朝から。ですがもう何度も注意しても――」

「ホースのことですかね?」


 男は唇を舐めてから頭の位置をずらし、ホースが見える角度に移動した。

 俺を無視するように。


「それですね」

「それが何」

「あれは俺の敷地内の水道で、俺が払っている水です。申し訳ありませんが、使うのであれば自分の水道を使ってみてはどうでしょう?」


 俺はそう言って、彼の玄関の隣にあった取っ手のついていない水道を見せた。

「それは使えない」

「なぜ」

「取っ手が付いていないからだ」

「なら雪かきをしてみては?」

「それも駄目だ」

「なぜ?」

「そとは寒い」

「俺もそう思いますが…」

「そう思うなら、なんだ?」

「…」

「あのなぁ、お前が住んでいる家は元と言えば傳さんたちの家だ、傳さんたちは俺の幼馴染で、お前が居座るために金を払っている相手でもあるんだ、きちんと話をして、彼らが住んでるときにも水道を使わせてもらっていた。ならなぜ今やめなければならない?」


 立花さんは顎をあげて、見下すように俺を見る。

 俺はネクタイを整えてから息を吸い、そしてゆっくり吐き出した。


「…邪魔して、申し訳ありません。ホースは…外しておいてください。一日ずっと水を使うのも――」

 俺が話を続けていると、彼は中に入り、力強く扉を閉めた。


 瞼を閉じてから頭を下げ、そして開けた。

 しばらく自分の革靴を見つめてから振り返り、自分の敷地内に黙って戻った。


 立花さんの駐車場は贅沢なものだった。

 俺たちのに比べれば。


 開けているが、天井が付いており、車には雪はかからなかった。

 問題は道路に出るときの雪であった、そこでホースの出番だ…

 でも、俺たちの駐車場は違う。

 開けた場所でも天井はなかった。

 車と地面に雪が積もれば、そのまま連鎖は続く。


 車の中に入ってから鍵を鍵穴に差し込み、車のエンジンをかけてから暖かい風が吹いてくることを確認し、革製のバッグに手を入れてチョコレートの粒を一つだけ食べた。

「…」


 両手を太ももの上に置き、しずかに味が口に広がるのを感じてからハンドルに手をやった。

 周囲に車が来ないことを確認し、ブレーキを踏んだままサイドブレーキを解除した。

 シフトレバーを後退に入れ、ゆっくりとブレーキを離して車を下げる。

 道路に出たところで一度停止し、左へウインカーを出して車の正面を道路に向け、再び前進した。

 

 しばらくしてからとてつもない車の数が道路に並んだ。全員が仕事へ行く社会人だ。

 赤信号が変わるのを待つ間に助手席のグローブボックスを開けようとしたが、何かに引っかかったようで力をかけて開けようとしても、俺の要望を拒むように動きもしなかった。


 実は、グローブボックスの中に大量のCDが入っていて、俺は家を出る前に音楽をかけることを忘れていた。

 だから、今かけようと思ったが…

 

 信号が青になった、前進する。


 だが、もう何か月も、まともに開いたことがない。

 だから運転中は特に危なく、普段は出発する前に力づくで開けてから開けっ放しにした。


 ハンドルを弱く、指先だけで叩いてから


「ぱっぱっぱーぱっぱぱらー…」

 でも、実物の音楽のようにうまくはいかない。

 自分の歌声に不満があるわけではない、だが、朝は本物の音楽が聴きたかった。


 運転中でも、ハンドルから片手を離してグローブボックスに手を差し伸べる。

 素早くボックスを見て、それから正面を交互に見た。


 体を伸ばして、取っ手の部分に指を入れこむ。

 一瞬、喜んで気をとられてしまい、前を見るのを忘れるほどにボックスに力を入れて開けようとした。


 車が徐々に右へずれていくのがわかる。

 でも今開かなければ。

 

 あともう少しだった、凍り付くように動きもしなかったグローブボックスが見事に、震えるように動き、そして一瞬だけ中身を確認することができた。


 体を左へ伸ばそうとして地面を蹴った瞬間、アクセルを踏み込んでしまった。

 驚いて一瞬で体の位置を戻して、ハンドルを力強く握ってから車を左のレーンに戻した。


「糞ッ!」


 音楽を聴かずに、静かに運転した。

 しばらく落ち着きながら周りを見て、職場へ向かっているとすぐにたどり着いた。

 

 いつも通りの駐車場に車を入れてから外を眺めた。

 同僚たちもちょうど今の時間についていて、大量の人が車から降りて、乱暴に扉をたたきつけ、そして鍵を閉める。

 バッグを持ち、入口へと歩き出す。


 ここは天井がついた駐車場だ。

 雪かきはいらない、クリーンでも、風通しがよく、中は寒かった。


「おはようございます高橋さん」

 扉の取っ手を引いて――

 引いて?


 俺は後輩の挨拶を無視して車の中にまた入りこみ、グローブボックスを後ろに押し込んでからゆっくり前に倒れ込むように開けた。

 すると、簡単に開いた。

 

 振り返って窓ガラスから、驚いた顔をした後輩を見つめた。


 すぐに体を運転席に戻し、取っ手を引いてから扉を開けて頭を外に出した。

「お、おはようございます」

 二度目の挨拶をしてきた。

「おはよう」

 俺は静かに返事をした。


 カップの中でスプーンをたたきつけながら飲み物を混ぜた。

「企画の資料は」

 会社の簡易キッチンで3人で話をしていた。

 俺と、上司一人と、今組んでいる後輩だ。


 二人でテレビで使う企画を考えてくるように言われている。

 特に後輩の桐生くんは俺みたいに放送作家になりたいらしく、仕事の内容を見せながら二人でやっている途中だ。

「で? 資料は?」

「コーン早食い対決&レースを混ぜて、芸人さんを何人か呼んで参加させたいんです! まず最初はコーンを一本丸ごと――」

「待て待て待て、企画はそんなんじゃなかったはずだ。落ち着いたものを…」

 

 額が熱くなるのを感じた、走って後輩のデスクまで行く

 後ろから二人も早歩きついてきている。

「会社内だと走るのは――」

 後輩の声を無視してデスクまで行き、バッグをつかんでから中身を調べ上げた。


 資料を手に取って中身を読むと、変わっていた。

 何もかもが。

 

「桐生?」

「…はい?」

「どうした高橋」

「一人でつづける」

「…こっちの方が絶対…ッ!」

「ちょっと見せろ」


 上司がそういってカップをデスクに置き、企画書を手に取った。

「これはひどい」

 一言だけ発した。


「…桐生? 何してくれた」

 俺は後輩の怯えた顔を見て、静かに聞いた。

「…あぁ、えっと…」

「桐生のせいじゃない」


 上司が急に顔を上げて、俺を見た。

 何ページもある企画書を俺に力強く投げ込んでから

「何も知らない後輩に大事な企画書を預けるからこうなるんだ、お前は責任もあって頼りがいのある人間だと思っていたが、企画書だぞ。ただの企画書だ。なぜそれを守れない? 桐生に企画書を預けたお前が悪い」

「おれは…」

「作り直しだ、今日の夜までだ。撮影は来週から始まるからな。わかったか!?」

「…もちろんです」


 自分のデスクに戻り、そこからはパソコンに向かい続けた。

 約14ページの台本を書き、誤字脱字の確認を何度もした。

 それぞれに合った台詞を書き、細部を詰めていった。

「…はぁ」

「大丈夫か兄貴?」


 休憩をしようとして椅子に背中を預けた時だった、肩に手がのっかり、声をかけられた。

「まだ仕事っすか?」


 声をかけるのは、高校の頃からの友達の森田だった。

「休憩をしようと思っていたところだよ、どうしたんだヒロ」

「いやぁ、噂を一つ!」

「噂か、長くなければ聞いてやることもないが」


 森田は両手を合わせてこすり合わせ、笑みを浮かべてから隣のデスクに座った。

 周りをよく確かめてから、ささやくように話を始めた。

「しってます? 最近はストーカー被害にあっている人が多いんです」

「ストーカー? ストーカーなら日本中にいる、珍しいことじゃない」

「それはそうですけど、それが、ストーカーされてる人は誰もストーカー自体を見たことがないんです。家族も、友達も、被害者と歩いていても被害者は”誰かが見ている”と訴えかけても誰も見たことがない」

「…警察は?」

「調査中らしい、わからない。つづけると、そのストーカーに的にされると一年以内に死ぬらしい。前にあった川口さんたちのこと覚えてる?」

「あぁ、家の中で何度も刺されて死んでた家族3人か」

「それですよ、あの人たちもそのストーカーにあってたらしい。もうストーカーというよりも連続殺人なんですよ!」

「…ごめん、ヒロ。仕事中なんだ、バカみたいな話に付き合ってる暇はない」

「じゃあ川口一家のことはどう説明するんだ!? 連続殺人だ!」

「どうにでも説明できる。父親が家族に飽きて全員殺し、自殺した可能性もある」

「どこまで現実主義なんですか?」

「空が届く範囲までさ」


「空は無限に続いてるわけじゃない、いつかは思想を捨てて生きるときがくる」

 ヒロはそう言って、また俺の肩に優しく手を置いてから去っていった。


 …なんだか、よくわからない気分だ。

 帰ろう。





 

 


 



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