第8話:海溝の夜
夜――
絶壁の夜は、容赦なく体温を奪っていく。
最初、二人は一定の距離を保っていた。
だが、刺すような冷気はルミナの誇りさえも削り取っていく。
震えが止まらなくなり、やがて二人は無言で近づいた。
肩が触れ、背中が触れる。
もはや拒絶はない。
ただ、生きるための温度を求めていた。
話しかけたのは、ルミナのほうだった。
「もう地球には何も残っていないと思ってた……
でも違った。アクアステラに、魂繭……
保存状態は完璧。外界と完全に遮断されてる……
もし都市に持ち帰れたら――」
〈アクア・ステラ〉の中で、魚がゆっくりと目を開けた。
「持ち帰る、か……」
水越しの声は、どこか哀しみを帯びていた。
「天空人らしい。海を奪い、地球を捨てたときと同じだ」
ルミナの肩が震える。
「……海を奪った? どういう意味?」
ナギが食い下がる。
パフは、ひれを一度だけ揺らした。
「天空人とは、グレートフィルターを突破した人類だよ。
感情を抑え、倫理を削り、効率だけを残した“進化の果て”だ」
ルミナは、喉の奥がひりつくのを感じた。
(違う……そんなはずない。
私たちは、文明を守るために……)
だが、言葉は続かなかった。
「……あなた。本当に、魚なの? 意思を持って話しているの?」
パフは、ひれを軽く動かした。
「不死の命を授かったものだ。意思を持ち、喋れても不思議じゃないだろう」
ナギが顔を上げる。
「じゃあ、パフ、君は一体何者なんだ?」
「私は、アーク神によって残された地球の命の一つ。
海が蘇るその時まで、不死となってアクア・ステラの中で待っている。
他にも同じような多くの種がいたんだ。」
「いた……?」
ナギが眉をひそめる。
「そして、魂繭もアーク神が作ったものだ。
海が蘇るその時まで、命を守るための――
いわば、アクア・ステラの大型版さ」
ルミナは、反射的に呟いた。
「種……遺伝子……環境サンプル。
すごい。これを報告したら、私は――」
パフの声が、静かに遮る。
「それは無理だ。アーク神は、そんなことを望んでいない。
それに、機械神が許さないだろう」
「機械神?」
ナギの声に、怒りと恐怖が混じる。
「機械神は死んではいないというのか?」
パフは静かに答えた。
「機械神――地表に残された“アーク神の使徒”だ。
天空人が命を持ち去ることを、決して許さない」
ルミナは、唇を噛んだ。
「砂に埋もれた残骸たちが……
あれの何が、許さないって言うの?」
パフは、ゆっくりと球体の中で向き直った。
「君たちのグループは、どうやら宇宙で失敗したようだな。
グレートフィルターを突破するには、感情の抑制と倫理の改変が必要だった」
「私たちが……失敗!?」
「……戻ってきたということは、どこかで“人間らしさ”を取り戻したのだろう。
それを正しいと思った時点で、進化ではなく、退行なんだよ」
ルミナの声が、初めて鋭く跳ね上がった。
パフは、静かに続ける。
「それに、君は母体から生まれた個体のようだ」
ルミナの表情が、険しく凍りついた。
隠していた傷口を、鋭い刃で抉られたような衝撃。
「……黙れ! 魚の分際で何がわかる!」
叫びは震え、喉から飛び出した。
拒絶というより、泣き叫ぶ一歩手前の悲鳴だった。
その瞬間、緑の葉脈が首筋まで一気に走った。
熱い。痛みではないのに、胸の奥が締めつけられる。
「ほら、その感情が証拠だよ。
君たちは天空人じゃない。戻ってしまったんだ」
涙が、地面に落ちた。
両手で顔を覆った瞬間、堰が切れたように涙が溢れた。
嗚咽をこらえようとしても、肩が震え、指の隙間から声が漏れる。
「……いや……そんな……」
涙は止まらない。
怒りでも反論でもなく、
自分の存在そのものを否定された痛みに、身体が勝手に崩れていく。
「やめないか、パフ」
ナギはパフの言葉を止め、
そっと彼女の手を、握りしめた。
(冷たい手だ……でも、震えが少し収まった)
パフは小さくひれを揺らした。
「……言い過ぎた。水温を上げるよ。私を暖に使ってくれていい」
ナギは球体を抱き、ルミナは反対側からその球体を抱くようにして寄り添った。
二人の間にあるのは、身体の直接的な接触ではなく、アクア・ステラの中の「水」だった 。
互いの微かな心臓の音。
そして球体の中で揺れる、小さな命の音。
「……あたたかい……」
ルミナは小さく呟いた。
ナギは答えなかったが、その手はしっかりと球体を守っていた。
二人はそのまま、海溝の絶壁で浅い眠りに落ちていった。




