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第7話:鏡の海溝

 菌腐穴きんぷけつの白い闇――

 あの肺を焼くような湿り気を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは白銀の空ではなかった。


 それは、世界を真っ二つに叩き割ったかのような、巨大な垂直の絶壁だった。


「……なに、これ……」


 ルミナが掠れた声で呟く。

 二人が立っているのは、底知れぬ海溝の断崖に突き出した、わずか数メートルの足場。


 見上げれば、銀色の空が細い帯のように遠く、

 見下ろせば、そこには吸い込まれるような虚無の闇がどこまでも続いていた。


 ここが、地上人が『鏡の海溝ミラー・トレンチ』と呼ぶ大地の裂け目。

 かつて海嶺かいれいと呼ばれた場所が、水を失った世界で剥き出しの傷跡となった姿だ。


「ここを登る。」


 ナギは短く言った。

 菌糸の毒から回復しきっていないルミナは、膝の震えを隠せないまま、絶望的な高さの壁を見上げる。


「どうやって? こんなの無理よ……垂直の壁よ、装備もないのに」


 ナギは、肩にかけていたパフの網袋を外し、紡いだ網袋を解き、一本の縄に変えていく。


 ルミナは怪訝そうにその手元を見つめる。


「これを使う。

 俺の背中に回れ。背中同士を合わせて、お前と俺を結ぶ」


「え……?」


「お前は何もしなくてもいい。俺がお前ごと持ち上げてやる」


 一瞬、ルミナの表情に拒絶が走る。

 だが、眼下に広がる永遠の闇と、揺るぎないナギの瞳を交互に見て、唇を噛んだ。


  ……もはや、この「野蛮人」に命を預ける以外、生きる道はなかった。


「ただ、パフをしっかり持っててやってくれ」


 二人は背中合わせになり、ナギが手際よくロープを身体に巻き付けていく。

 背中越しに伝わる、ルミナの細い震えと、かすかな体温。


 〈アクア・ステラ〉の中で、パフが静かに呟いた。


「ルミナ。今は少年の腕を信じるとしよう」


 ルミナは透明な球体を抱きしめ、ナギは右腕を岩壁に突き立てた。


 ガギィィィィィィン!


 真鍮の指先が岩を砕き、深く食い込む。

 金属音は、海溝の底へ吸い込まれるように落ちていった。


 ナギの義手には、アーク神の奇跡が宿っている。

 百キロを超える質量を片腕で支え、引き上げるための神の駆動機関。


「……行くぞ!」


 力を込めた瞬間、義手の関節から白い蒸気が噴き出した。

 ピストンが激しく拍動し、鋼の筋肉が岩を掴み取る。


 ルミナは、自分の体が宙に浮く感覚に悲鳴を飲み込んだ。

 背中越しに伝わるナギの筋肉の躍動と、義手の規則的な振動。


「……すごい」


 それ以上の言葉が、見つからなかった。

 天空の高度なテクノロジーとは違う、荒々しく、しかし確かな“生”のエネルギーがそこにあった。



 夕刻――


 垂直の崖の中腹。

 ようやく人ひとりが腰を下ろせるほどの岩棚に二人は辿り着いた。


 上を見上げても暗く、下はもはや見えない。

 吹き抜ける風は強まり、ナギの体力も限界に近づいていた。


「……ここで夜を越す」


 ナギは断腸の思いで判断を下した。

 今登れば、疲労でどちらかが落ちる。


 ルミナは反論しかけるが、声が出ない。

 極限状態の身体は、すでに小刻みに震え始めていた。


「……水、少しだけ……」


「水はもうなんだ。我慢してくれ」


 ルミナの掠れた声に、ナギは一瞬迷い、頷いた。

 そのとき、水の中のフグが、冷徹なまでに淡々と告げた。


「水ならここにあるじゃないか」


 沈黙が支配する。

 ルミナが震える声で問い返す。


「……どういう意味?」


「アクアステラの水を飲めばいい。ただ、全部は飲むな。

 不死といえど、水がなければ私も死ぬ」


 それだけの説明だった。

 だが、ルミナの表情は驚愕に染まる。


「不衛生よ……魚が入った水なんて、飲めるわけないじゃない」


「藻もプランクトンも、私の排泄物も混じっているだろうな。

 だが、干からびて死ぬよりはましだろう」


 ルミナは息を呑み、そして小さく呟いた。


「……もらうよ、パフ」


 ナギはアクアステラを頭上に掲げた

 球体の一部が開き、彼は一口、貴重な水を含んだ。


 ルミナはその様子を見つめながら、唇を震わせた。


「……ほんとに……飲むのね……」


 ナギは短く頷き、球体をルミナに差し出す。


「お前もだ」


 ルミナは顔をそむけた。

 指先が震え、喉が拒絶するようにひきつる。


「……絶対に無理……魚の入ってる……水よ……」


 だが、乾いた唇が痛む。

 胸の奥で、生命の本能が静かに叫んでいた。


 ルミナは目をぎゅっと閉じ、震える手で球体を受け取った。


「……す、少しだけ……」


 小さく口を開く。

 水が触れた瞬間、乾いた唇が拒むことを諦めた。


「……っ……!」


 ごくり、と小さな音。

 水が喉へ落ちていく。


 だが次の瞬間、乾きがそれを上回った。


 ルミナは涙を滲ませながら、

 一口、二口、三口と飲み続ける。


「おい、飲み過ぎだ。それくらいにしておけ」


 パフが淡々と制した。



 一度飲み干してしまえば、もう自分を『高貴な文明人』だと偽ることはできない。

 私は今、一匹の魚の排泄物で命を繋ぐ、ただの動物に成り下がった。


 ナギは何も言わない。

 ただ、静かに頷いた。

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