第17話:血の匂いと焚き火
村の輪郭が、揺らぐ陽炎の向こうに浮かび上がったとき、
ルミナは知らず、胸の奥で息をほどいていた。
焼けつく砂と、死の気配がまとわりつく旅路の果て。
そこにあったのは、煙と声と、動いている人の影――
確かに続いてきた「暮らし」の匂いだった。
「……提案がある」
歩調を落とし、ナギがぽつりと切り出す。
「このまま神殿へ向かうつもりだったけど……
先に、俺の村へ寄ってもいいか?」
ルミナは小さくうなずいた。
パフもひれを揺らし、静かに同意を示す。
「かまわない。
君たちは腹が減っているだろうし、まずは体を休めないとな」
「助かった……もう、足に力が入らないの」
砂鯨の骨を組んだ門をくぐると、
乾いた空気の中に、弾む声が流れ込んできた。
広場の隅では、子どもたちが砂を蹴立てて遊んでいる。
風に舞う銀砂を追いかけ、転び、笑い、また走る。
ひとりは細い骨の笛を鳴らし、
もうひとりは砂鯨の皮で作った玩具を振り回していた。
骨も、皮も、彼らにとっては特別なものではない。
道具であり、遊びであり、
砂鯨と共に生きてきたこの村では、
呼吸のように当たり前に手に触れるもの――
ただそれだけのことだった。
ナギの姿に気づいた子どもたちは、
ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
丸い球体に浮かぶ魚を見つけ、目を輝かせ、
次にルミナの白い姿を見て、
砂の色に慣れた瞳が、ほんの一瞬だけまばたきを忘れた。
短いざわめきが起こり、
それは風に吹かれた砂のように、すぐに散っていった。
その温度に、ルミナは少しだけ肩の力を抜いた。
――だが、広場の中心へ踏み込んだ、その瞬間。
鼻腔を刺す“血の匂い”が、
すべてを塗りつぶした。
村の中央には、砂海から戻ったばかりの漁師たちが集まり、
巨大な砂鯨の解体が進んでいた。
まだ温かい巨体。
銀砂を黒く染める血潮。
脂と蒸気が混ざった、生の匂い。
ルミナは青ざめ、口元を押さえた。
(……これを……“食べるの”?)
風が吹き、血の匂いと、焚き火の煙と、
遠くの子どもたちの笑い声が、ゆっくりと混ざり合っていった。
「ナギ! 生きていたのか!」
解体台のそばで指示を出していた大男――ガランが声を上げた。
嵐の中で消えたはずの少年が、見知らぬ白い少女と光る球体を連れて戻ったことで、
村中がざわめき始める。
「心配したぞ。何日も戻らずに……どうしてたんだ」
「繭山の黄泉穴に落ちて、そこから帰ってきた」
「落ちて帰ってきただと……まったく、お前ってやつは」
ガランは額を押さえ、深くため息をついた。
そして、ナギの背後に立つ少女へ視線を移す。
「で――嵐の中で落ちた娘まで連れてきたってわけか」
「ああ。紹介する。こちらはルミナ。天空人だ」
その言葉を聞いた瞬間、
ガランの目がわずかに細まった。
「無事だったのは運がいい。
だが――村に連れてくるなら、先に言え」
ルミナはびくりと肩を震わせた。
「な、なによ……」
ガランは腕を組んだまま、
まるで“獣かどうか”を見極めるように、じっと彼女を観察する。
「……あの時の“黒匣から落ちてきた”娘か。
で――ここには何しに来た?」
ルミナは背筋を伸ばし、かすかに顎を上げた。
「私は先遣隊の一人よ。
数百年ぶりに帰ってきた地球の調査……それが私の役目」
「……まあ、いい。村には置いてやる。
だが――妙な真似はするな。
ナギ、お前が責任もって見張っとけ」
「ああ、わかった」
ルミナはそのやり取りを聞きながら、
視線の端で、砂鯨の肉を切り分ける漁師たちを見ていた。
文明の培養肉とは違う。
血が通い、温度があり、命の匂いがある。
――“食べる”とは、こういうことなのか。
その理解が、彼女の胸に重く沈んだ。
「喉が渇いたわ……水はないの?」
「あるよ」
少年は脂身を切り取り、簡易の器具で絞って蒸留した液体を差し出した。
濁った液体が器の底で揺れる。
「ひっ……! 何それ、汚い! 飲めるわけないでしょ!」
「ここではこれが命だ。飲まなきゃ死ぬぞ」
「うえぇ……臭い……」
ルミナは顔をそむける。
だが、喉の焼けるような渇きは消えない。
少し離れた場所でも、解体が続いていた。
「おい、腹を開けろ」
長老の声に、若い衆が刃を入れる。
大きな腹が裂かれ、内臓がどろりとあふれ出る。
「うえぇ 私、もう駄目かもしれない」
ルミナは誰にともなく呟いた。
胃袋が裂かれた瞬間、透明な小さな塊が
ざらざらと砂の上に流れ落ちた。
「……砂海老か。今日は豊漁だな」
ナギは一匹を拾い上げる。
まだ動いている。小さな足が空を掻いた。
「……エビ?」
ルミナが目を細める。
「どうしてこんな所に海の生物がいるの?」
「こいつらは深層海を旅してるんだ」
「深層海?」
「ああ。砂の下、ずっと深くにある海だ」
「馬鹿じゃない。砂漠の下に海なんてあるわけないでしょ」
「食うか?」
「いらない! 生きたまま食べるなんて!」
ナギは迷わず口に放り込んだ。
殻ごと噛み砕くと、かすかに塩の味がした。
海の匂いがした。
「うまいのに。潮の味がするぞ」
「信じられない……生のまま食べるなんて……」
夕暮れ。
焚き火が起こされ、肉が炙られる。
「生が嫌なら、焼いた肉は?」
少年は切り分けたばかりの肉を一切れ、少女の前に差し出した。
脂がはぜ、香りが立ちのぼる。
「食べてみろ。生き返るぞ」
ルミナは本能的に後ずさる。
「……野蛮だわ。殺した獣を焼いて食べるなんて」
「野蛮?」
少年は首をかしげる。
「こいつは今日一番の上物なんだぞ」
「そうじゃなくて……!
”生き物の死体”を食べるなんて気持ち悪いって言ってるのよ!」
ルミナの声が震えた。
「宇宙船では、食事は全部プラントで生成された完全栄養食よ。
培養肉やペーストだけ。
私たちは、生き物を殺して食べたりしないの。そんな残酷なこと、何世紀も前に卒業したわ」
ナギはきょとんとした顔で、自分の肉を噛みしめる。
焚き火の光が、彼の横顔を赤く照らしていた。
しばらく沈黙が続いたあと――
ルミナのお腹が大きく鳴った。
「ほら」
真っ赤になったルミナは、差し出された肉を受け取った。
「……一口だけよ。
誤解しないで。文化を理解するための……調査だから」
ナギは驚いたように瞬きをしたが、何も言わず肉を差し出した。
ルミナは震える指で肉を持ち上げる。
――こんなもの、食べられるはずがない。
そう思うのに、喉の奥は痛いほど渇いていた。
脂の熱が舌に触れた瞬間、
鉄のような、血のような、知らない味が口いっぱいに広がった。
次の瞬間、ルミナは口を押さえて立ち上がり、
焚き火から離れた場所で盛大に吐いた。
「おえええええ……っ……!」
背中が小刻みに震える。
ナギは慌てて駆け寄り、ぎこちない手つきで背中をさすった。
「無理に食べなくていい。
少しずつ慣らしていけばいいんだ」
ルミナは涙目で振り返る。
「やっぱ無理」
「ふうん。……じゃあお前たちの体は、何でできてるんだ?」
「え?」
「他の命をもらわずに生きてるなら――」
ナギは焚き火を見つめたまま言った。
「お前の中身は、機械神なんかと同じってことか?」
そのとき、そばのアクア・ステラの水がふわりと揺れた。
一匹のフグ――パフが、ゆらりとひれを動かす。
「鋭いねえ、少年」
小さな口が、水越しに笑った。
「『食べる』ってのはね、他者の時間を自分の命に継ぎ足すことさ。
綺麗事だけで満たされた腹には、この砂漠を生き抜く『熱』は宿らないよ、お嬢さん」
ルミナは何も言い返せなかった。
血の匂い。
脂の煙。
少年が黙って肉を噛みしめる音。
宇宙船の無菌の食堂とは、あまりにも遠い光景だった。
――そしてその遠さが、胸の奥をひどくざわつかせた。




